8-2

 10の月26日。午前8時34分。とある路地にて。


 1軒の家の前に黒山の人だかりかできていた。


 ほとんどの野次馬が、この家の住人と言葉をかわしたことがなかった。にも関わらず、押し合いへし合い人々が集まったのには理由がある。


「この人だかりはなんだね?」


 で背伸びしている白髪交じりの女性は、後ろから声をかけられた。若い男の声だ。


「この家の学者さまが死んだんだってさ」


 声の主を振り返りもせずに彼女はしゃべり続ける。もともとおしゃべり好きだったのだろう。


「頭が良すぎて、おかしな人だったよ。そんなことはどうでもいいけど……」


 故人の人となりがどうでもいいとはおかしな話だが、彼女はとっておきの秘密を打ち明けるために、思わせぶりな間をとった。


「今朝早く、玄関先で死んでるのが見つかったのさ。なんでも何かすごい顔して、ドアノブを掴んだまま死んでたんだって」


 玄関先に多くの制服姿の警官が集まっているのは、そのせいだ。


「殺されたのか」


 声に不快感が滲んでいた。


「それが不思議なのさ。傷も何もなかったらしいし、かと言って体が悪いわけでもなかった。36歳の男だよ。働き盛りじゃないか」


 ここだけの話だと、彼女は故人が学者だったこともあって様々な陰謀説を披露しようとした。


「彼は殺された。に殺された」


「なんだい? その…………え?」


 確信に満ちた声を振り返って、彼女は狐につままれた顔をした。


 一番後ろにいた彼女の後ろには誰もいなかった。そもそも、人ひとり入り込む余地などない。


 そこにいるのは、彼女の影だけだった。


 夕べ遅くまで裁縫をしていたせいで疲れていたのだろうかと、彼女は自分に言い聞かせた。このまま野次馬になっていても、時間の無駄だ。


 得体のしれない不気味さにおののきながら、彼女は足早に去って行った。


 振り返りもしなかった彼女は知らない。彼女の影の一部が、置き去りにされたことを。

 あるいは、もともとそこにいた影を、彼女の影が覆い隠していたのかもしれない。


 どちらにせよ、ひとかたまりの影は誰にも気がつかれないうちに、実態のある影のないカラスとなって飛び去った。


 路地を後にして、その街を後にした影のないカラスの頭部には、臙脂色の布切れが乗っている。


 まっすぐ目的地に向かって飛び続けるカラスは、一度だけ思い出したように大きな飛行場の検問所の屋根の上で羽を休めた。


 太陽が一番高い位置に来る頃、1組の少年少女が走ってくるのを影のないカラスはじっと見守った。


 しばらくして、1組の少年少女がつばの広い麦わら帽子を被った女性と一緒に出てくるまで、影のないカラスは屋根の上にいた。


 飛び去る時に少年が指差してきたことに、影のないカラスはとても驚いた。それから、満足した。




 午後2時17分。商業都市国家ヴォルグの下町にて。


 2階建てのレンガ造りの家の2階の1室から、ギターの音が響いている。さざ波のような静かなフレーズを少しずつアレンジを加えながら奏でられている。とても美しい音楽だ。しかし、すぐ下の通りを行き交う人々の心まで響くことはなかった。


 影のないカラスは、その1室の開け放たれた窓から滑り込む。


 ギターの演奏はまだ続いている。


 影のないカラスは、長椅子に横たわる浅黒い肌の青年の胸の上に止まる。


 バチッと青年が目を開くと、カラスは窓を背に置かれているデスクの上に移動した。デスクの上にいるカラスの頭部にあったはずの、臙脂色の布切れはなくなっている。


「グウォン、変わりはなかったか?」


 上体を起こして尋ねるレイヴンに、グウォンはギターを爪弾く手を止めて首を横に振った。


「アッシの方はなにも。そっちは収穫があったようですけどなぁ、


 グウォンは自分だけが知っている、レイヴン・ナンバースの本当の名前を口にした。いつものバンダナを長椅子に座ったまま探していた手を止めて、レイヴンは顔をしかめる。


「バンダナなら、さっき洗濯しましたワ」


「余計なことを……」


 普段、目にかかることのない前髪を鬱陶しそうにかきあげるレイヴンの額には、臙脂色で『11』と刻印されていた。


 レイヴンがデスクの上のカラスを一瞥すると、墨を水でぼかすように形を崩した。


 グウォンは、何度見てもいい気分のしない光景に顔をしかめる。


 ぼやけた影はすぐにデスクに向かう人の形をとった。その影はあらかじめ用意してあったペンを握って何か書き始めた。


「彼は自然の力を利用した発電装置を作ろうとしていたんだ」


「それが箱庭の管理人に殺された理由ですかい?」


 すでに熱機関を利用した発電装置が存在する。


「今の発電装置は、不安定すぎてまったく普及していない。ガラクタあつかいだ。彼が作ろうとしたのは、大型飛行船10機分の熱機関分の発電を安定して可能にする装置だ」


「いまいちピンときませんなぁ」


 正直な感想を口にしたグウォンにレイヴンは肩をすくめて、この話を打ち切った。旧時代ロストエイジのことを知らない人間に説明するのは、だいたい徒労に終わる。


「ついでにこの間の3人の様子も見てきた。うまくやっているようだったよ」


「それは何よりですなぁ。……ところでイレヴン。あの3人も、箱庭の管理人に挑むのに必要になるのは、わかっとりますワ。けど、一体何時になったら、箱庭の管理人のいるという、空の向こうに浮かぶ城に向かうのですかい」


「管理人ではない。王さまだと、いつも言っているんだがな。まぁいい、今、俺が言えるのは……」


 一度言葉を切って、慎重にレイヴンはグウォンに告げる。


「王さまに挑むために必要な人材はそろった。機が熟すのを待つのみ。それも、長くて2、3年のこと」


「長かったですけど、やっとですかぁ」


 心の底から安堵の声を上げるグウォンに、レイヴンはため息をつく。


「グウォン、お前は俺と出会ってたったの25年だ。俺の200年に比べれば、どうってこともないだろう」


「悪魔にそんなこと言われても困りますワ」


 グウォンが上機嫌で去って行くと、影はペンを置いた。複数の紙に発電装置の理論から設計図まで、びっしり書かれいた。


 さっと目を通したレイヴンが満足気に頷くと、影は跡形もなく消えた。紙を紐で綴じると、デスクの鍵付きの引き出しにしまう。


に」


 よく晴れた空の向こうにいるだろう王さまに思いを馳せながら、レイヴンは開け放たれた窓をそっと閉めた。

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