Chapter 2 飛行船がやって来た!
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エスタ歴494年7の月26日午前6時24分。エスタ大陸北西部、ラシェン共和国ディエンの村。
村はずれの修道院の朝の掃除当番だった灰色の髪の少女は、手からほうきが滑り落ちたことにも気がつかなかった。
実際の年齢よりもさらに幼い顔立ちの小さな少女の名前はシルウィン・リー。
大樹海の手前の草原に黒い飛行船が降りてきたのを見て、シルウィンは興奮した。
16歳の彼女は神に祈るための修道院に育ったにもかかわらず、いつか自分の飛行船を持つことが夢だった。独学で学んだ飛行船の知識は、修道院はもちろんディエンの村で一番だと誰もが認めている。年上の大人たちからは呆れた眼差しとともにではあったが。
少年と間違えられることも多い彼女は、すぐに修道院を抜けだして大樹海へ走った。
鬱蒼とした昼間でも薄暗い大樹海を好む人々は少ない。しかし、まったくいないわけではない。
大木の根元に生える苔に足を滑らせないよう器用にシルウィンは走った。
15分ほど走って肩で息をする頃ようやく足を止めて、樫の大木を見上げる。
「ギディ! ギディ! 起きてるよね!」
返事はなかったが、するすると縄梯子が降りてきた。
「もぉ! また昇降機、修理しなきゃいけないのぉ」
口をとがらせてブツブツ文句を言いながらも、慣れたように縄梯子をシルウィンは登っていく。
大樹海の木々は
シルウィンが登る縄梯子の先にあるのは、墜落した飛行船のゴンドラだった。飛行船が墜落したまま放置されている光景は、大樹海ではよく見かけることができる。
大樹海に1人で生活しているギディの家は、大木に引っかかった古い中型飛行船のゴンドラだ。
ギディはデッキから身を乗り出して、最後の方の縄梯子に苦戦しているひょいとシルウィンを持ち上げた。ヒョロヒョロした体つきからは想像もできないほど、軽々と彼女をデッキにおろした。
「おはよ」
そっけない物言いは、ギディの性格をよく表していた。この辺りでは珍しい黒髪に灰色の瞳。愛想のない表情のせいで、彼と関わろうとする人は少ない。
突然やってきた飛行船に対する興奮も、彼のあいかわらずな態度でいくぶん冷めてしまった。
「飛行船がやってきたんだ」
「知ってる。森が騒がしいから」
いつものように鬱蒼としているように見えても、大樹海で暮らしているギディには違って見えるらしい。
「シルウィンのことだから、飛行船を見に行くっていうんだろう?」
飛行船が降りた方角をじっと見つめたギディの表情からは、何も読み取ることはできない。
ギディ・ニーズは可愛げのない少年だというのが、近隣の村々の大人たちの評価だ。この評価の半分は、ギディを育てたのが偏屈な木こりの老人だったせいでもある。
ザナン老が、大樹海に捨てられた子どもを育てているらしいという噂が流れた時、誰もが耳を疑った。
人嫌いで有名な木こりの老人と暮らす男の子がいるらしい。そうささやかれた後には、必ずこうつけ加えられた。男の子はロクな大人にならないだろう、と。
ギディは確かに無愛想な少年だが、2年前の冬にザナン老が亡くなってから、たった1人で大樹海で生きている。シルウィンは、自分が知る大人たちよりもよほど彼は立派だと考えている。
それに、とギディの横顔に見とれながらシルウィンは考える。
ボサボサに伸ばしっぱなしの黒髪に櫛を入れて、もう少し笑えば自慢の友人になると、複雑な思いでギディを見つめる。
「急がないとね」
「え? ……わっ」
ヒョイっとシルウィンを抱き上げると、彼女を背中に背負ってギディは古いゴンドラから飛び降りた。
ギディは地面に足をつけずに、樫の枝から枝へと飛び移っていった。
「また軽くなったね、ちゃんと食べてる?」
「なっ……」
年頃の娘らしく外見を気にしているシルウィンの顔が一瞬で林檎のように真っ赤になった。
「ただでさえシルウィンはちっちゃいんだから、食べないと死んじゃうよ」
「余計なお世話だ!」
背中の彼女がなぜ怒っているのか、ギディはわからなかった。
物心つく前にはこの大樹海に捨てられた少年にとって、シルウィンとその姉のシルフィーだけが友だちだった。
化け物と嫌われる高い身体能力は、彼女たちだけが純粋にすごいと言ってくれる。それだけで、ギディは充分だった。
「じっちゃんが言ってたよ。女はすぐに痩せたがって、食べ物を粗末にするって。俺もそう思うから、ちゃんと食べなよ」
「フンっ、ちゃんと食べてるもん」
シルウィンは赤い顔のまま嘘をついた。少しでも痩せて、ギディの背中を独り占めしていたかったのだ。友だちという関係を超えた関係になりたいと願っている乙女心から、食事を減らしているなんてギディは夢にも思っていないに違いない。
樫の丈夫な枝を飛び移りながら、2人はあっという間に大樹海の外に飛び出した。
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