5-3
午前10時28分。黒い猟犬号付近の空にて。
昨夜、クロードに気晴らしにと誘われたウィングカイトは、確かにシルフィーの心を晴らすことができた。
ウィングカイトは大きく翼を広げた鳥の形をしている。乗り手の
通常の操縦方法では、自分の体を使った重心移動と、片翼だけでも約5フィート(1.5メートル)ある翼の角度の操作が重要だ。
すでに2時間もクロードは、かたわらにシルフィーを乗せて高度約2500フィート(762メートル)の
元競技選手のクロードは、初めてだというシルフィーを乗せて、アクロバティックな飛行は控えるつもりだった。
つもりだったのだ。
空気を切り裂く音に混じって左隣のシルフィーの笑い声が、クロードの耳あて付きのフライングキャップごしに聞こえた。
次の瞬間、向い風から右からの風に変わる。即座にクロードは翼を操作し、右斜め上昇して一回転して向きを変える。
もちろん、エレメンターのシルフィーが風向きを変えたのだ。
並の
はじめの1時間は、風に乗って黒い猟犬号の周りをゆっくりと飛んでいたのだが、遊覧飛行に飽きたシルフィーは自身の力を使ってクロードにアクロバティック飛行をさせるようになった。クロードにしてみれば、たまったものではなかったが、次第に楽しむようになっていた。
シルフィーがまた笑い声を上げる。それが彼女からの挑戦状だ。
また、風向きが変わる。
午前10時56分。黒い猟犬号、ウィングカイト格納庫にて。
クロードが操縦する朱色のウィングカイトが、滑り込んでくる。
問題なくウィングカイトを停止させた先にクロードが、自分と機体をつなぐハーネスを外して降りる。大空への出入り口の横にある開閉レバーを引く。鋼材を多く使った扉が重い音を立てて閉まる。
「今、ハーネス外すからな」
遮光ゴーグルとフライングキャップを外して、シルフィーの体と機体をつなぐハーネスを外したが、彼女はうつ伏せに寝そべったままだ。高さは3フィート(1メートル)ほどあるが、足がかりとなる台もあるから、自力で降りられるはずだ。
「大丈夫か?」
「ええ。ちょっとはしゃぎすぎたみたい」
気だるそうに体を起こしたシルフィーは、遮光ゴーグルを外してフラフラとウィングカイトを降りた。
クロードの手を借りることなく、シルフィーは降りたものの、すぐに壁際にうずくまった。
「大丈夫。少し休めば、楽になるから」
もともと色の白い彼女の顔色は明らかに大丈夫ではなかった。とりあえず、床にうずくまらせたままではと、クロードは折りたたみの椅子に彼女を座らせた。
「本当か? 俺が無理させたなら……」
「ナンセンス。無理をさせたのは私の方よ」
フライングキャップを外した彼女は、顔色が悪いながらも勝ち気な笑顔を見せた。今朝までは腰まであった豊かな
もったいないとクロードは言ったが、シルフィーは笑って邪魔だからと言った。しかし、空気抵抗の少ないフライングスーツを着て、疲れながらも意地悪く笑う彼女には、短い髪のほうが彼女らしいとクロードは思った。
「そんなことはない。こんなに楽しく飛べたのは、久しぶりだ。何か飲み物持ってくる」
シルフィーは格納庫を出て行く彼の大きな背中が見えなくなってから、ため息をついた。
「本当に、ナンセンスね」
自分からこの飛行船に乗ったものの、全ては自分と妹のためだった。そのために空賊を利用しているのだと言い聞かせても、胸を熱くする想いを無視できなくなっていた。
クロード・ランドウォーカーという男は、シルフィーにとって特別な存在になりつつある。
シルフィーは自分の価値をよく知っていた。有能なエレメンターとして、容姿の整った女としての価値をよく知っていた。そして、自分の人となりにまったく価値がないことも知ってた。
「悩むのも、悔やむのも、本当にナンセンスだっていうのに」
クロードがいけないのだと、意味のないこと知りながらシルフィーは責任転嫁した。彼がエレメンターとしてでなく、容姿でもなく、自分に好意を持っているのがいけないのだと。空賊のくせにと。
ハーブのコーデュアルを濃い目に水で薄めたものを、ピッチャーのかわりのデキャンタに入れてクロードが戻ってきた時、シルフィーの顔色はいくぶん良くなっていた。
「ありがとう」
シルフィーが喉を潤して一息ついた時だった。
不意に大きな揺れが黒い猟犬号を襲った。短い悲鳴をあげて椅子ごと倒れそうになった彼女を、椅子ごと起こしてクロードは壁際の伝声管へ走った。
この不自然な揺れを意味するものを、空賊であるクロードはよく知っている。
挑発。
空賊が狙った飛行船の付近に上昇あるいは下降して現れる、宣戦布告の行為。
「挑発してきたのは、どこの馬鹿だ?」
普段からよく通る声は、怒りを孕んで更に大きくなっていた。
『左舷側に天空楼閣号ッス!』
「レイヴン商会……わかった」
臙脂色のバンダナの愛想のない男と、かつてともに空に挑んだ末弟の顔が、クロードの脳裏をよぎる。
「シルフィー、ここでしばらく休んでろ」
伝声管の蓋を閉めて、クロードは走り去った。
取り残されたシルフィーはわけがわからないながらも、じっとしていられなかった。
重い体を引きずるように左舷側にある丸窓から、外を覗いて前方に見える褐色の飛行船を見て、彼女は息を飲んだ。
「ナンセンス!」
その飛行船の船尾には、不格好な小型飛行船が固定されていた。
つぎはぎの翼号。
妹が自分のためにと作った飛行船。
なぜ、どうしてと考えるよりも先に、シルフィーは思うように走れないことにいら立ちながら、左舷側の外通路に向かった。
午前11時17分。
黒い猟犬号に天空楼閣号が追いついた。
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