(ii-6)愛すべき登場人物

 登場人物、という呼び方自体が既に古いのだが、要するに今言うキャラクターのことだ。個人的に「キャラクター」という言葉を、人物そのものより「個性」の意味で使うことが多いので、人物それ自体はこのように「登場人物」と呼ぶことが多いのである。

 個性としての「キャラクター」とは、「キャラが立っている」とか、「キャラがとがってないね」とか評するような、アレのことだ。

 で、本稿テーマである「愛すべき登場人物」とは、「人物」としての存在感からから「キャラクター」までひっくるめた総合的なものであると考えてもらいたい。




 登場人物をどう評価するのかというと、

1)無駄のなさ

2)キャラの楽しさ

 といった辺りが評価軸になっている。個々に述べてみよう。



1)無駄のなさ

 ストーリーの展開において、登場人物には「役割」というものがある。

 推理もの、そのジャンルの中でも「名探偵」が登場するようなものだと、これが分かりやすい。

 主人公には、「名探偵」もしくは「ワトスン」と呼ばれる役割が与えられることが多い。探偵は言わずもがなだろうが、「ワトスン」というのは、事件を概観しながら読者に伝える「伝達者」の役割と言ったらいいだろうか。シャーロック・ホームズの活躍を間近で見守りつつ、伝記を出版しているという設定の「ワトスン博士」にならった呼び方である。


 名探偵ものの物語では他に、被害者、容疑者、真犯人、手がかりをもたらす人物、などの「役割」を持った人が配置される。端的に言えば「役割」とはそういう意味だ。物語を進めていくために必要なものをもたらす人物たち。

 今風(?)の別の言い方をすれば、「フラグ」を持っている人たちとも言えるかもしれない。


 複雑な歴史陰謀劇などでは、「騙される貴族」だの「執事だが実は他国から送り込まれたスパイ」「スパイに利用される未亡人」だのと、この「役割」も複雑化していく。役名はともあれ、彼らはその役割に応じた何かの形で、「物語を面白くする要素として」貢献することが使命である。


 そういう明確な役割が決まっていない人物を「エキストラ」とか「モブ」とか「その他大勢」とか呼ぶ。とはいえ彼らに何の使命もないのかといえば違っていて、彼らには「その世界をもっともらしく読者に見せる」役割があるとも言える。個人に使命はなくとも、「エキストラ」といった存在そのものに意味は与えられているのだ。

 例えば、小説の中で街を歩く時に、「道行く人」がいるだけで、その街の様子を描き伝えることが出来るわけだ。逆にそういうエキストラ的な存在に何一つ言及せぬままでいれば、読者はいつの間にか、「なんかよく分からないけどこの世界は寂れてる感じがする」という印象を持つだろう。


 さて、改めて「無駄のなさ」とは、そうした役割の配置に無駄がないことを意味する。

 先の探偵ものの例で言えば、無駄が多くなりがちなのは「手がかりをもたらす人物」だ。

 その役割を持った人物が、多ければ物語が動いていいというものではない。被害者の人となりを異口同音に伝えるような情報提供者が2人も3人もいたって、単に「余計な枚数を使ってしまって無駄」になるだけだ。

 似たような役割であれば分裂させる意味はない。その分の作者の手間は、別の部分で物語をより面白くさせる方向に費やされるべきなのである。


 概して、無駄のない人物配置をしている人の作品は、それなりに面白くなっているような印象を持っている。無駄が多いと話自体が散漫になりがちなので、それよりは、注意や興味があまり散らずに、ある程度集束している方が面白さには繋がりやすいということなのであろう。

 また、配置の無駄を見極められるような人の場合は、「面白さがどこで醸されるのか」という物語の概観が出来ていると言うことも、出来るかもしれない。


 忘れてはならないのは、「コメディ・リリーフ」のような、「物語の進展には大して役立たないものの、その場その場で笑いをもたらし、場を和ませる人物」というのは、立派な役割になるということだ。そればっかりだったり、主人公がこれを兼任すると話の収集がつかなくなって困るのだが。


 また、明確にコメディ・リリーフという役割でなくとも、物語の主軸から少しだけ離れて、息抜き、気休め、箸休めといった役割を「読者に対して果たす」人物というのも存在している。

 例えば、シャーロック・ホームズの物語における「ハドソン夫人」のような。

 物語を進めること、というのと同じくらい、「読者を楽しませること」もまた、作品に必要な使命だ。コメディ面に限らず、読者のための役割を持った人物というのは、存在していて良い。コメディ・リリーフや、「ヒロインを助けに来た無駄にカッコいいサブキャラクター」というのは、それなりに意味があるものなのだ。




2)キャラの楽しさ

 尖ったキャラ、と呼ばれるような「個性」を与えることで、その人物がいるだけで、あるいは少し行動したり喋ったりするだけで楽しい、と読者に思わせる。それもまた、必要なことだ。こういう個性付けが巧くいくと、本当に「愛すべき」人物像が浮かび上がってくる。

 それは喋り方で表現されることもあるし、好きなもの嫌いなもの、長所や弱点といったもので表現されることもある。


 漫画『ドラゴンボール』の主人公、孫悟空(特に子供時代)は、素晴らしい個性付けをされて読者を魅了したものだった。

 一人称は「オラ」で、しっぽが生えており、怪力の持ち主、身のこなしは天下一品、無類の強さを誇る。しかし徹底的に常識を知らず、男と女の違いも分からない。もの凄い大食漢で腹ぺこになると力が出ない上に、しっぽを握られるとヘナヘナと力が抜けてしまう。

 プラスとマイナスが絶妙に絡み合って、横に配置されたブルマ(天真爛漫な主人公に振り回される役割を担っていた)をツッコミ役に、戦いの場面のみならず、いつも「面白い」ことをしていた。


 そうした「特徴付け」がキャラクター性というものだ。

 もちろん、キャラクターとは「笑い」「おかしみ」の方向にのみ尖っていくものではない。また探偵ものの例で言えば、まさに「シャーロック・ホームズ」こそ、史上最も「キャラが立った」名探偵であると言えるだろう。

 あまりに天才過ぎて、ワトスン他の誰もを小馬鹿にしたような態度を取る。楽器も弾けてたまに自宅兼事務所でも演奏を披露する。かといえばコカイン中毒者らしきそぶりも見せる。聡明すぎるので、誰も見えていない情報の道筋を見てしまい、それに沿った行動を取るので、傍目からは「気でも狂ったのか」としか思われない……

 奇抜、奇天烈でおよそ常識人とは見えないが、しかし事件の謎は必ず明快に解き明かしてしまう。「あんな奇人なのに」というギャップが、キャラの尖りとして愛されているのだと言えようか。

 また、現代的にはこうした「キャラ付け」は、ヒロインの方により重点が置かれていると考えることが出来るだろう。

 ツンデレを初めとした「~デレ」といった個性。無表情ヒロインや「あんた馬鹿?」ヒロインもいた。大昔だとヒロイン像の理想型は『ドラえもん』におけるしずかちゃんだったのだが、現代においてそんな程度では、読者はヒロインなどと考えてもくれないだろう。


 しかし、かつて数多生まれた「キャラクター」たちの勇姿を思い出せば、後代の創作者としては、注意すべき幾つかの点に思い至る。


「過ぎたるは猶及ばざるが如し」と、「二番煎じには力がない」ということだ。


 これまでに見聞してきた「面白いキャラ」に負けない個性を自らの人物に与えようとして、「与えすぎてしまう」のを幾つか見てきたように思う。

 ストーリーが進み場面が切り替わるたびに「実はこういう特徴もあったのだ!」と新しい属性を付与され続ける主人公。終いには物語冒頭で語られた特徴(設定)など忘却されて苦手だったはずのものをいつのまにか克服していたり、知らなかったはずの知識を何故か駆使して困難を解決したり。

 もうちょっとまとめてから書いてよ。場の勢いに流されて変わっちゃうものを個性とは呼ばないのだ。それは「都合」という。


 そして二番煎じ。ツンデレヒロインが大好きだから、自分の書くヒロインもツンデレにする! ……というだけだと、先行作品の二番煎じ、真似っこに過ぎない。無表情で何事にも動じない、自我のなさげなヒロインも人気ありそうだが、それをそのまま、では、決して先行作品を上回れない。

 web小説として誰かに読まれていればそれだけで幸せなのだ、というなら、先行作品を気にすることはないかもしれない。

 だがプロを目指している、というような人なら、ただ真似をしているだけでは、なかなか「面白さ」を表現することは出来ない、ということを知らなければならない。


 なぜならその「真似た面白さ」とは、あなたの手柄ではないからだ。


 それが面白いのは、先行して面白さを確立させた人の手柄であり、あなたが面白さを発見したわけではないからだ。


 似たような事例に、作品中に散りばめるギャグに「テレビでやってる芸人のネタ」だとか、「すでに発表されている作品となぞらえるツッコミ」というのがある。

 ボケキャラにギャグをやらせて、ツッコミ役が「○○○かい!」とツッコませるやつだ。○○○には既存作品の名前やキャラ名が入る。

 それが面白いのは先行作品がやってくれてるからこそであって、あなたが発明したわけではない。

 となると、あなたのその作品が面白いかどうかは、このギャグだけでは分からないのだ。


 そういうわけで、二番煎じや真似っこがあると、作品を面白いと評価するのには躊躇する。作者の手柄ではないところに、面白みを頼ってしまっているからだ。

「どこかで見たことあるキャラ」に対して、改めて愛情が注げるか否か。それが出来てしまう人ももちろんいるだろう。「それこそが面白いのだ」という価値観で作品に接する人などである。


 だが個人的には、作品をそう読んだり評価することはない。最初に書いたように「さながら選考の下読みをしているかのように」読むようにしているので、やはり「新しさ」や「オリジナリティ」、せめて「二番煎じで終わらないための工夫」といったものが入っている方を(かつ、面白くなっている方を)、評価するようにしているのである。


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