(七)作者の納得はゴール地点ではないのよね
ほうほう、なかなか。面白い。
と、思う作品も結構ある。自分の場合、評価文付きでレビューしているものは基本、面白かったものだ。しかしやはり、★を付けなかった作品や、★だけでテキストを書かなかった作品の方が圧倒的に多い。
その中には、ものすごく惜しい、と感じるものもあった。「★つけるか……どうするか……」と迷って、「んーやっぱあそこがな……」と気になって手を止めてしまう。
そういう惜しさは、★なしにした作品のみならず、評価文付きレビューを付けた作品にも多々ある。というか、ない作品の方が少ない。
作品をもっと面白くする手法、処理方法、練り込み方があるのに、そこに達していないというのが実に惜しいのである。
もっと追い込めば、その選択で終わらないだろう? と思ってしまうのである。
勿体ない。とても勿体ない。
本当にただ趣味として小説を書いて発表しているだけならば、それでもいいのだけれど、やはり「いつかは小説家に……」と思っている人もいるだろう。そういう人たちには、時間や環境の制約をなんとか乗り越えて、「楽なところ」で終わらせてしまって欲しくはないのである。
そういうことを感じたweb小説(カクヨムだけとは限らない)で共通するのは、おそらくは作者自身が自分に課したミッション(執筆)をクリアしたところで、手が止まってしまっているのだろうな、という印象だ。印象なのであくまで受け取っているこちら側の主観でしかないのだが。
我が身も通ってきた道なのでなんとなく想像されてしまうのだ、そういう光景が。
このキャラにはこういう役割を与えた、だからそれを果たさせる。こう考えていると、役割を果たす場面を書いたら、そこで「よし」となってしまうものだ。この場面では設定の説明をする、と決めたところで、キャラに説明台詞を喋らせてミッションコンプリート。
だが、本当はそこで一歩立ち止まってみるべきなのだ。
この場面はこれでいいのか?
このキャラの役割は、これで「最善の形」で果たされているのか?
書き連ねた「説明」は、不自然な「説明のための説明」になってしまっていないか? 物語の中の一コマではなく、作者から読者に向けたあからさまなメッセージになってしまってはいないか?
これらを一言でまとめると――小説としての最善を尽くせているか?
作者として、こういうことを考えるべき局面は、多岐にわたる。執筆の最中に限らずに、だ。
ちょっと端的な例になるが、考えてみよう。
執筆前の設定段階で『敵の“四天王”というのを考えた。だから敵幹部は四人必要だ』となった時、『いや、敵幹部が四人である意味はあるのか?』と考え直してみると良いのだ。役割、存在意義を考えたら三人でいいかもしれない。あるいは、一人がいくつもの目的や葛藤を持ち合わせることで、一人で済んでしまうかもしれない。
逆から言えば、“四天王”が必要(欲しい)ならば、その四人がそれぞれ物語の中で必要である理由を考え、それを作中で描ききることだ。枚数が足りないからどうしても三人しか描けないだと? じゃあやっぱり、その話には三人しか必要ないんだよ。削ろう。
別の例。
ライバルが登場し主人公を一度たたきのめして、退く場面があるとする。
「何故、たたきのめすだけで終わるのか?」「そんな理由でライバルは撤退してしまっていいのか?」「この時点で、主人公はこうまでやられるほど弱いのか?」
こういう定番のシーンの“お約束”だけで場面を考えていないか? 冷酷なライバルだとしたら、主人公にとどめを刺さないのは何故? そんな彼が手を止めて退散する理由は十分説得力がある? 主人公がこの時点であまりにも弱すぎると、最後で勝利する(んだろ?)時にご都合主義に陥らない?
こうした疑問に、明確に、正しい理屈で、答えが用意できるようになっていて欲しいのだ。公募賞のハイレベルな選考になると、こういうことも問題視されるだろうと思う。
例え書き上げて了とした後でも、考えることは山盛りだ。「このままで、この物語は最高に面白いのか?」「もっと面白くする工夫は出来ないのか?」「読者置いてけぼりの、自分の独りよがりな内容になってはいないか?」そうやって振り返ることで、少しでも穴を減らしていく。そして、足りないところを伸ばしていく。不要なところを削っていく。
作者というのは作品内のすべてを“知っている”。知った上で書いているから、どんなに我々の実生活の常識から外れた事柄が作品内で起こっても、それを「この世界なら当然のこと」と受け止めることが出来る。
だが読者は違う。読者は“作者が書いたことを、書いた順番でしか理解できない”のだ。例えば、背景世界の情報(状況、環境、社会のルール)を描写するとして、その順番を間違えただけでも、読者は混乱することがある。そうした配慮は出来ているだろうか?
自分(作者自身)の納得がゴールではない、というのはそういうことだ。
書いた自分が、書いたものに納得を示すのは当たり前なので、そこで作者としての満足を得てはいけないのだ。まだ早い。作者が気にすべきは読者であり、彼らの理解を助けることである。それが、読者に「面白いと思ってもらう」ことに繋がるのだから。
まるでゲームのイベントのように、「物語がここまで進んだから、この出来事が起きるのだ」でも、話としては成立するだろう。だが「そうすることが最善なのか?」の問いかけは、常に自分の胸の中で持っているべきだ。その答えを常に用意しようとするべきだ。
なぜなら、その方が絶対に「面白い作品になる」からだ。
ノリにノっている時の“勢い”も時として功を奏するのだけど、正味の話、それが巧くいくのは作者本人に最低限度以上の能力が備わっていなくてはならない。ドーピングしたって小学生は五輪に出られないのである。逆にそんな未熟な時期から勢いに任せることを覚えて「納得すること」「満足すること」に慣れてはダメだ。その後の力が身につかない。
どんなに拙くても、作品を書き上げることそれ自体は、一つの成功体験として誇ってもいい。
だが、それは「書いたこと」という、自分の行為への評価であって、作品の内容についてではないのである。ここを混同するとよろしくない。
まだ次がある。拙い作品と分かっているなら、今度は「面白く」やってみよう。書いたものを読み返し、配慮不足がないか、独りよがりがないか、もっと面白く出来る部分はないかを、貪欲に探してみよう。
そうすることで、あなたの作品は面白くなっていく。
そうすることで、こちらとしても、面白い作品が読める可能性が高まっていくというわけなのである。
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