( iii-2 )ひとり反省会:凍土の英雄

■基本情報

 恨み節付き投稿作。公開当時に、内幕暴露サイトと化していたカクヨムにならいいだろうということで恨み節まで付けたが、もっと恨みがましくてもよかった。毒がたまったら書き直そう。


 現時点でレビュー人数32人の方々から、★92をいただいている、カクヨムで公開中の自作小説作品では一番人気だ。勝ち点4落とした。悔しい。←サッカーファン思考

 ただし本編600PVに32人の評価ということで、割合としては約5%。そんなもんか(商品のアンケート葉書返送率は2~5%ほど)。この点、『壷中天』は300PVに対して24人から評価をいただいており、割合は8%と高い。インパクトみたいなものだったり、「評価のしやすさ」とか「わかりやすさ」みたいなポイントでは『壷中天』の方が上ということだろうか。こういう作品ごとの受け入れられ方の違いみたいなものも、なかなか面白いものだ。


 本作は『壷中天』よりも気に入っているし、30枚リミットで書いていたアマチュア(ワナビ)時代の習作短編10余編の中では最後に書いた、もっとも出来が良いと思っているものである。執筆時期は1998年で、実はデビュー作となった長編作品(1999年にソノラマ文庫大賞佳作入選、執筆したのは1997年)よりも後なのだなこれが。

 カクヨム掲載に当たっても、「校正」は行ったが「推敲」による書き直しはしていない。今読み返すと、ちょっと言葉のチョイスを間違えている箇所が散見されるので、手を入れたい気持ちはあるが、記録としてこれはこれで残しておこうと思う。


 こうした古い作品が、今でもそれなりに喜んで読んでくれる人がいるということは素直に嬉しい。かつまた、作品の内容やテーマによっては、10年や20年では作品は「古びて読めない」ことにはならないのだなという実感も新たにした。それは心強いことではある。


 ちなみに「短い作品を多数書く」というのは、作品構造を考える癖をつけるトレーニングになるし、短い中で面白いもの/伝わるものを作るというトレーニングにもなる。なにより「完成させた」という小さな成功体験を積み重ねることができるので、作家志望ワナビさんにはオススメの執筆鍛錬法です。(ただし基礎力は小説読書以外では身につかない)




■自己反省

 作品のテキストファイルに記述が残っているし、当時の記憶がまだあるのだが、『深夜にテレビをつけたらたまたま映画のラスト近くで犬ぞりレースが映し出された』ことから発想した。たぶん、その頃には読了していたはずの真保裕一『ホワイトアウト』の影響もあったと思う。“雪の冒険小説”を書いてみようと思ったのである。

 その時書いたストーリーのメモを見ると、「雪の精」みたいなのが出てきて主人公を襲うので戦って撃退、みたいなことが書いてあって、『こいつ、分かってねぇな』とか思った。しみじみと。


 戦いの場面、などといういかにも「冒険譚」らしいエピソードを入れるよりも、リアリティ一辺倒で押し切った方がいい、と冒頭を書いた瞬間に方針転換したと記憶する。それは正しかっただろう。原稿用紙30枚の短編であるから、書き方によっては、エネルギーによって読者を押し切ってしまうことは可能なはずだからだ。小手先のイベントを盛り込んで散漫にさせるよりは、エネルギーを増す方に注力した方がいい場合はある。本作はそれに該当するタイプの作品だろう。


 そういう選択の結果、この作品には『壷中天』にあったような、話を閉じるためのワンアイデアがない。なので「オチ、サゲ」のような、ここが見せ所というポイントを求めるタイプの読者には受けは悪いだろうな、という懸念はある。まぁ元々そういう作風ではないのだ、そこは諦めた。


 この作品の眼目は徹底した「描写」に置いた。環境の過酷さ、極限の寒さ、肉体のつらさ、意思の迷い、そうしたものを文章としてどこまで結実させられるか、という挑戦をした作品だったし、同時にそれは、要素として分解してしまえば何一つ目新しさのない物語を、“読まれるもの”にするために必要な措置だった。だって結末がああいう形になることくらい、誰でも予想するでしょう。意外性もなにもない予定調和のストーリーなのだ。


 いやホント。冷静に考えると、本作は「なんかありがち」なものの寄せ集めなのだ。


 身分違いの恋。王の怒りと罰。タイムリミット。試練を乗り越えて帰ってくる恋人……いろいろ聞いたことあるな。しかもレビューで書かれて初めて気が付いたのだが、この作品って『走れメロス』(太宰治)に似てるよ! 20年近く経ってついに知ったわ! 雪の精と戦って撃退とかやらなくてよかったわーまんまメロスだわーパクりだわー。


 そんな具合で、既存作品に似た印象すらあるくらいなのだから、ありがちな話なのである。

 それを“面白い小説”にするために選択したのが、「徹底した描写により読者を世界の中に引きずり込む」ということだったのだ。ストーリーに大して起伏があるわけでなし(男が雪原を歩いているだけの話だ)、予想の範疇で終わりまで突き進んでしまうため、それ以外の「読むことそのものを愉悦とする」ことに腐心したと言える。

 読者は主人公とともに雪原を歩き、ともに寒さに震え、故郷を思う。そうなってくれればいいと思いながら執筆していた。ある程度は成功したのかなということを、頂いているレビュー文を見ながら思う。



 さてその反面――

 描写に心血注いだ結果、一文の密度や情報量が異様に高まり、息苦しいほどになった。

 自分としては嫌いではない息苦しさとはいえ、多くの読者、とくに一般小説慣れしていない人を切り捨てるようなものになっていることは自覚がある。

 もっとも、これを一般小説と見なせるかどうかは、正直分からない。『一般もライトもあるか面白いものを面白いように書くだけじゃボケ』とか考えながら書いていたような気がする。

 それが間違いではないことは、恨み節編で書いたように『角川書店『ザ・スニーカー』誌に載ったこと』と『読者投票コンペティションで一席を獲ったこと』が証立ててくれてはいるが、時代はすでに移り変わっているようにも見える。




 また、文体による息苦しさには、書かれている文章そのものとは違った面からの理由もあったのではないかな、と今になって思う。


 それは、書き方として「読者の知識や認識を掘り起こしていない」ことだ。


 作者と読者の間に「公約数」が想定されるものごとが小説の中で起きているなら、作者はそのことを、一から十まで描写する必要はない。冬の寒い日に並んで歩く高校生男女がいて、少年が少女の手を握って自分のポケットに突っ込む様子を描いたら、二人が(お付き合い済みかどうかはさておき)恋仲であることをわざわざ付け加えて説明する必要はない――と説明すると例として伝わるだろうか?

 それを書いて読ませなくても、別のことが書いてあれば、想起させることができる――ということは多い。

 通常、小説では大なり小なり、そうしたことで説明を省いたり、描写を抑えたりする。出来事に対して一から十まで理由から過程から結果まで書いていたら、うざったいからだ。


 ひるがえって本作では、読者どころか書こうとしている自分自身でさえ、こんな極限は体験したことがない、というシロモノだ。

 ただ寒い、とだけ書いては凍土の極限さが伝わらない。ではどうするか――それを書くしかないではないか。

 ということで、本作ではどうしても「描写ですべてを説明し、描く」必要があった。読者が体験したこともないような状況を、あたかも体験しているかのように読ませねばならないと思った。寒さや、一歩を踏み出すつらさ、主人公の意志の強靱さ、そういったものすべてが伝わるように、書かねばならない。


 読者からすれば、普通なら小説を読んでいれば、少しばかりは「共感」や「知識」によって、文面・文意を補完しているはずなのだ。言うなれば作者と読者は、双方向アプローチによって物語を「完成」に導いているのである。

 ところが本作では、作者側からのアプローチする余裕がなかった。読者の内側からそうしたものを引き出そうという意識自体がなく、圧倒的な情報量を文章に詰め込むことを選んだのである。


 本作の息苦しさの理由には、そうした「文面から迫ってくるものの多さ」があるのではないかな、と二十年近く経って思う。


 ただ不安に思っていたのは、ぶっちゃけた話、俺は雪の中を歩くなんて体験そのものをほとんどしたことがない。スキーだって高校の修学旅行で一度しか行ったことがないのだ(当時、生まれ育った東京都下から出たことがなかった)。

 映像や書物で見聞した“疑似体験”を駆使して想像して書いたものなので、実体験的にはどうなのだろうな、という不安があったのだ。書き上げて、まぁせめて“良いウソ”になっているのではないかと納得できたのでよかったが。

 よく考えたら、デビュー作もそういう作りだった。ハリウッドアクション映画を文字で完全再現、という作品なのだが(現在は電子書籍で改訂版を入手可能)、主人公の破天荒なアクションを“体験”してもらうため、想像と工夫を凝らしたのだった。ビルから落ちた経験があるのはジャッキー・チェンくらいだろうし。

 要するに癖か。合点がいった。




 さて描写の息苦しさとは別に、今になって気付いた点がもう一つあった。


 本作のレビュー文で、「映像的である」ような評価をいただいている。これはもともと自分の文体の特徴だと思っていて、言うなれば「映像を喚起する書き方が出来る」のだと考えているわけなのだが。


 本作の冒頭を読み返して、その「映像を喚起」する理由の一端が分かった。

 自分の書き方として、「イメージとして浮かんでいる映像を文章に翻訳している」ということが第一にある。その観点から冒頭部を読み解こうと試みると――


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 天に太陽の姿はなく、光は分厚い雲の隙間から溜息のように洩れているだけであった。暗色の雲が万年雪の大地に覆い被さり、強烈な風を叩き付けている。風が雪を巻き、雪が風を呑む。獣の哮りのように吹雪が荒れる。巻き上げられた雪が世界を漂白し、雪と氷の果てを見極めることさえ不可能であった。

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『天に太陽の姿はなく』……カメラはまず上に向けられている。遠景。太陽が見えないということは、かなり暗いのであろう。


『光は分厚い雲の~~洩れているだけであった』……カメラには一面の雲が映っている。その雲から「光が洩れている」という表現により、雲から地表へ向かう動きが生まれる。アングルは下へ流れていく。


『暗色の雲が万年雪の大地に覆い被さり』……映像はやや引き気味に、雲と雪の大地をフレームに収める。


『強烈な風を叩き付けている』……雲から、つまり上空から吹き付ける風。これも上から下の動きを生み、カメラはさらに下へと流れていく。


『風が雪を巻き、雪が風を呑む』……下へ流れたカメラが、地面近くの様子を収める。地吹雪のように雪が舞い上がっている。またこれは、風と雪のウロボロス、陰陽の太極、循環のイメージでもある。この寒い環境や吹雪に終わりがないことを示唆する。


『獣の哮りのように吹雪が荒れる』……映像に音が重なって、吹雪のイメージを強める。また「獣の哮り」というイメージは敵対的であり、この吹雪が、この場にいる者(=読者)にとって敵であり危険な存在だと印象づける。


『巻き上げられた雪が世界を漂白し』……地面の雪が舞って世界(=視界全体)を染め上げるという表現により、下から上へ、ミクロからマクロへの動きが生まれる。カメラアングルは地表から上へ、そして広角に変化していき、全周を視界に収める。


『雪と氷の果てを見極めることさえ不可能であった』……世界全体の映像、その地平はぼんやりとしてハッキリしない。染め上げられた世界の果てを曖昧に描き、果てのなさを伝える。




 最初に、はるかな天を映したところから下へ下へと映像が動いていき、地表では近くの雪の様子が映し出される。を映した後にまた上へ、同時に遠くへと動き、地平を望んだところで冒頭文(の映像)は終わる。

 アングルが立体的に動いていき、世界の高さと奥行きを見せている。


 スチル(静止画)ではなく、ムービー(動画)として描けていたようなのだ。


 日頃から書き出しには気を配っているつもりだが、この時は「ここがどんな場所であるのか」を描くのに腐心していたらしい。その結果として、映画のワンシーンのようなカメラアングル移動による空間表現、みたいなことが、出来ていたようだ。


 わざとこれやってたらたいしたものだが、狙ってやったわけではないところがナンだな。この時はたまたま、そういう映像がまず浮かんでいた、というだけに過ぎない。


 とは言え、そのことに今気付いたのだから、次からはこれを意図して文章に盛り込むことは可能なはず。今後の武器とするために磨いていきたいと思う次第である。





 あんまり反省していないがこの辺で。出来の良い作品くらい反省せずに過ごしたいのだよ……


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