(ii-6・補遺)キャラに息吹を吹き込め
前稿『(ii-6)愛すべき登場人物』で書き漏らした、というかある意味前提になる部分について、別に項目を立てた方がいいのかなという気分になってきたので、ちょいとその補足をしておこうと思う。特に、プロ志望だとか、さらなる向上を求める熱心な書き手さんに向けて、ということになるかもしれないが。
前稿では作品の面白さを形作る条件の一つとして「キャラの楽しさ」を挙げ、そのキャラクターを立たせる、ということについては「特徴付ける」ことが肝要だと述べたわけだが――
それが生きるのは、まず、そのキャラクター・人物が、「人間として」しっかり描けていることが前提になることを、理解してもらいたい。まぁその「程度」というのが、他の項目で何度も触れたように「作品世界によって求められる程度は異なる」ので一概には言えないのだが。
「人間が描けてるかどうか」なんて大昔からある文芸批評家の決め台詞じゃんか、とか思わず先を読んでみて欲しい。アレとはちょっと違う意味合いだからして。
キャラを「人間として」描くということは、「キャラが、その世界で確かに生きているという息吹を、読者に感じさせること」だ。内面がどうとか人としての苦悩とかそういうものではない。
小説には無駄がないのも大事なのだが、だからといって、主人公が「ストーリーを進める以外の何もしない」というのは、キャラ・人物がストーリーに対して奉仕しすぎというものである。キャラクターは物語や作者の奴隷ではない。生きて、その作品世界の中に息づいていなければならないのだ。
それを感じさせるのは、キャラの生活する様子だったり、あるいは趣味興味の向かう先だったりする。
キャラが学生だったら? ――少ない小遣いに愚痴をこぼしながら、学校帰りにコンビニや駄菓子屋で買い食いをする。ちょっとバイト収入があった友人に誘われファミレスに行く。あるいは自らがバイトにいそしむ。授業は真面目に受けるタイプか、それともすぐに突っ伏して寝るタイプか。自宅で家族とはどんな会話をするだろうか、あるいは自宅とは学校の寮だろうか、それなら四六時中一緒になる友人達とは、学校と寮では違う話題を話したりするのだろうか。部屋に帰ってまずすることは、着替えか勉強かスマホいじりかパソコンでゲームか――
そういう描写をしょっちゅう入れろというわけではない。もちろん、世界観やストーリーを破壊しない内容でなければならない。だがこれらが「まったくない」と、そのキャラ・人物の「生きている空気」が作品の中に流れにくいのは確かである。
また「息吹」というのは、口調一つでも表現できる場合がある。
喋り方というものには、その人の人間性がかなり色濃く出るものだ。ニヒルな口調、陽気な口調、そういうものをキャラごとに意識するだけでも、彼らの「生きている息吹」は伝わってくるようになる。
何故なら口調とは、経験の積み重ねによって獲得されたその人だけの特質だからだ。
毎日毎日楽しいことばかりだ、と思っている人は、斜に構えて物事を見るような陰気な口調はしない。
日々何一つ楽しいことなんてない、という人は、天真爛漫な笑顔を浮かべて話したりはしない。
(なので、これを逆手に取ったキャラクター造形をすることは可能である)
人物・キャラの「息吹」とは、彼らが「生きている人間」なのだと読者が感じてくれた時に生まれる。生活の様子とか趣味興味、口調といったものは、それを読者に感じさせるための手段でしかない。
だからもちろん、それ以外の手段でもって、読者にそれを感じてもらえるようにしても、まったく構わない。ここでは過程よりも結果が重要である。これが果たされた時、読者の目には人物・キャラが、作品世界の中で、「生きた人間」として映っていることだろう。
実のところ、「キャラの楽しさ」というものは、こうした「生きた人間」としての下地があってこそのものだ。土台なく、建物だけを豪奢にしてもそれは不安定で、やがて崩れる運命にある。そういう張りぼてのようなキャラクターでは、いつか物語のうねりに耐えきれずに、どこかで馬脚を現し、作品の破綻を招くことだろう。
良いキャラクターを描くには、まず我々書き手側が、そのキャラクターを人間として見てやる必要がある。それあって初めて、我々はキャラを「物語を進めるための駒」ではなく、作品世界の中で「生きた人間」として、考え、描くことが出来るようになるのだ。
そこが土台とならねば、どんなに特徴付けしたキャラであっても、どこかしら空疎な存在として読者に見られてしまうだろう。
我々としてはそれを避け、愛すべき我が子同然であるキャラクターを、より良い形で読者に届けなければならない。そのための第一歩が実は、キャラクターに息吹を吹き込むということなのだ。
その手法は、実際問題として先に挙げた例のみに留まらない。書き手による手法の向き不向きというのもあるし、今ない手法をあなたが生み出さないとも限らない。
書き手であるあなたには、自らの武器となる手法を見つけ出して欲しいと願うものである。それは決してこの項目に述べたような分野に限らず、すべての「面白さ」において。
書き手としてのあなたの、最初にして最大の武器は、「あなた自身であること」なのだ。
という辺りでカッコよく本文は絞めておいて、だ。
ちょっと余談になるが、数段落上に書いた「ここでは過程よりも結果が重要である」なんて辺りで、ちょいと難しさがあるのだよなぁ、と思うので脱線してみよう。
レビューというか作品を読むに当たって、判断が難しい面がこの辺りに存在している。本稿内でわざわざ“作品世界の中で、「生きた人間」”とカギカッコの前に「作品世界」の語を入れたのはそのためだ。
「作品世界によって求められる程度は異なる」と最初の方で書いたのを見返して欲しい。
そして、『(ii-3)破綻のない世界観』の項で書いたこともまた思い返して欲しい。あるいは読み返して欲しい。
例えばゆるふわファンタジー世界で求められる「生きた人間」の程度と、ガチガチに固めた世界観のハイファンタジーに求められるそれとは、明らかに程度が違うのだ。
ゆるふわ世界の住人が、砂糖たっぷりの甘いお菓子を日常的に食べていても文句は言わないだろうと思う。逆にハイファンタジー世界の貧乏農夫が、日々の食事に香辛料を使った料理など食べていてはシラけられるだろう。
世界の求めに応じて、人間の有り様そのものが変わるからだ。
そのため、書く側と同様に、読むだけの側も、そうした「程度」を読み解いていく必要があるのだと心得てつつ、読んでいかなくてはならないのだ。いや一定の狭いジャンルだけを読む人なら基準は一つでも済むのだろうが、多趣味でどんなジャンルでも読むとか、参考にするためになるべく多種多様な作品を読むのだという人は、気を付けなければならない。そういう心得がない人が、ゆるふわファンタジーに「この時代に、砂糖がふんだんにあるわけないだろ」とか無粋なツッコミを入れてしまうのだよな。
読み専という方もカクヨムでは結構見かけるのだけれども、実はこのように、「読む」だけでも結構技術はいるのです。そのことを意識して、「読む技術の向上を意識して」読み続けると、今後の読書が楽しくなりますよ。その際に参考になるのは、小説ではなく「巧い人のレビュー」。間違いない。
それについては本作のヨム編『(六)書き手もいいけど「レビュアー」もね。』をご参照ください。
(という宣伝でオチにする)
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