「デビュー前夜」Vol.3  『100日後に別れる僕と彼』浅原ナオトインタビュー

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2016年にカクヨムで発表した『彼女が好きなものはホモであって僕ではない』(以下『カノホモ』)が話題を呼び、同作が書籍化されてデビューした浅原ナオトさん。ドラマや映画にもなった『カノホモ』は、カクヨム発の小説の可能性を広げる作品になりました。
今回の「デビュー前夜」インタビューでは、同じくカクヨムでの連載を元にした最新作『100日後に別れる僕と彼』が5月19日に
(一部書店では5月17日より)発売になる浅原さんに、デビュー前の話はもちろん、商業作家として実績を重ねてからも投稿を続けるカクヨムへの思いを伺いました。(構成協力/甲斐荘秀生)

出版が決まるまでのスピード感に驚き

――『カノホモ』をWeb媒体であるカクヨムで発表したのには、どんな理由があったのでしょうか?

浅原:『カノホモ』はすでに出来上がっていた原稿を少しずつ投稿する形で連載しました。何かの賞に応募して勝てる自信があったわけではないんですが、せっかく作品が出来上がったので他人からの評価を見たかった。そこで作品を生かす方法を考えたところWeb投稿しか思いつかなかったんです。当時は会社の仕事で中国に駐在していて、Webに発表するぐらいしか他人に見てもらう手段がなかったという事情もあります。

――いろいろなWeb小説サイトの中でカクヨムに投稿した決め手はありましたか?

浅原:いまでこそカクヨム発の作品の書籍化は珍しくありませんが、私が投稿し始めた2016年当時のカクヨムは黎明期で書籍化された作品も多くなかった。そんな中、当時カクヨム発で書籍化されていた作品の一つに柞刈湯葉さんの『横浜駅SF』があったんです。「これがアリだったら、僕の作品もアリなんじゃないか」というのは、カクヨムに投稿した理由のひとつでした。
 それに、当時は今のように文芸や純文学を扱うWeb小説サイトもなかったですよね。『カノホモ』は、カクヨムに投稿したことで結果的に人気が出たので、私にとってはタイミングが良かったと思います。

――『カノホモ』は、カクヨムで発表してすぐに人気が集まりましたよね。この反響を浅原さんはどう感じていましたか?

浅原:あの作品はタイトルとキャッチコピーがものすごく目立つので、ラブコメカテゴリーの上位に入ってからはクリックが集まってきて、連載を始めた初期から人気が出ましたね。
 その反響に対して、嬉しい気持ちは当然ありましたが、それ以上に「こういう作品でもちゃんと拾ってもらえるんだ」ということへの驚きが大きかったです。『カノホモ』ってWeb小説っぽい作品かというと、べつにそうでもないじゃないですか。だからウケるかどうかは正直分からなかったですし、「狭い層に刺さればいいかな」くらいの期待で公開したら、思いのほかバーッと盛り上がっていったことに驚きました。

――そこから出版が決まるまでは、どんな経緯があったのでしょうか?

浅原:カクヨムには、カノホモより前に一つ短編小説を上げていたんですが、声をかけてくれたKADOKAWAの編集さんは先にそちら短編を読んでくれていたらしいです。それが面白かったので「他に書いてないかな」と調べて見つけたのが『カノホモ』だったとのことで、読み終わってすぐに連絡をくれたとのことでした.
 私からすると、カクヨムに作品を投稿し始めてから2、3ヶ月で編集さんから声がかかったので、「こんなに早く、ポンポン進むものなんだ」というのは驚きでした。当時の担当編集さんからは「浅原さんの作品を読んでるときに、他の仕事が止まった」という言葉をもらったことが印象に残っています。編集さんの仕事の中で、優先順位に勝ったことがすごく嬉しかったですね。

同性愛者であることを隠して日々を過ごす高校生・安藤純は、BL(ボーイズ・ラブ)好きの同級生・三浦紗枝の告白を受け入れ、付き合うことに。しかし、純には身体を許す既婚の中年男性のパートナーがいて……。純、紗枝を応援するクラスメイト、唯一純の苦悩を受け入れ共有してくれるネット上の友人「ミスター・ファーレンハイト」……周囲との軋轢の中、すれ違う二人が導き出した理想の関係とは? 決して交わることのない少年と少女が、壊れそうな関係を必死に守ろうとする姿を追う感動の青春群像劇。

文芸作家の「モデルケース」になれたのはうれしい

――カクヨムは多くの方に利用してもらい、異世界ものやラブコメを中心としたジャンルの作品を多く投稿していただいていますが、文芸作品も同じように大切にしたい思いが運営にはあります。ですからカクヨム出身の文芸作家として活躍されている浅原さんは、運営にとって嬉しい存在でもあります。
 特に文芸作品は、Webではなかなか人気が出にくいところがありますが、書籍を編集する側としては内容を重視して、書籍化する作品を探していると編集部の人間から聞きます。

浅原:編集者さんが人気だけでなく内容も見てくれているというのは、文芸に限らず感じています。異世界ものだと珪素さんが書かれている『異修羅』がすごく好きなんですが、あの作品も読者からの人気一辺倒ではなく、文章の技などが編集さんの心を掴んで、書籍や他のメディアに展開していったように感じますね。

――カクヨムのようなWeb小説媒体は、文芸作品を書く人にとって投稿する最初の選択肢にならない面も現状あるように思います。浅原さんも作品に自信があったらはじめから賞に出す選択肢もあったと仰いますが、この現状をどうお考えですか?

浅原:作ろうとして作れるものではないですが、「モデルケース」があると、後に続く人にとって分かりやすいと思うんです。例えば『同志少女よ、敵を撃て』の逢坂冬馬さんは、カクヨムで連載していた同作をアガサ・クリスティー賞に応募して、最終的に本屋大賞まで獲ったわけですよね(逢坂さんのインタビューはこちら)。もしあの作品が公募を経由せずカクヨム作品として出版されて本屋大賞を取っていたら、それが一つのモデルケースになったと思います。
 そういう作品が一つでも現れると、「そのルートがあるんだ」ということで後に続こうとする人が出てくるんじゃないかと。

――カクヨム発の小説がドラマや映画になるなんて以前は考えられなかったですから、浅原さんにはまさに『カノホモ』で一つのルートを開拓していただきましたね。

浅原:そうですね。『熊本くんの本棚』のキタハラさんもカクヨムからデビューされた方ですが、「『カノホモ』を読んで、「カクヨム、やるじゃん」と思ってカクヨムに投稿した」と言ってくれていたので嬉しかったです。
 単純に「面白かった」と感想をもらうのももちろん嬉しいですが、「自分も書き始めました」みたいことを言ってもらえるとすごく嬉しいですよね。自分が投稿したことで、いろいろな創作に火を付けることができたわけですから。

Webの読者の「応援」が原動力に

――今作の元になった原稿は、2021年9月から2022年2月にかけてカクヨムで『100日後に別れるかもしれないゲイカップル』という題名で連載されました。浅原さんのように実績のある文芸の作家さんが、先にカクヨムで連載してから書籍化するというのは珍しい制作プロセスかと思いますが、どういういきさつだったのでしょうか。

浅原:じつはカクヨムで連載を始めるよりも前に、別の出版社さんにプロットを見せていたんです。そこは文庫のレーベルで、この作品は明らかに文庫よりも単行本向きなので「これ、文庫じゃないですけど……」という体で提案したところ、結局企画が通りませんでした。そこで、「だったらカクヨムに書くか」ということを思いました。
 連載する前にKADOKAWA文芸の編集さんに話さない理由は全くないので、先にプロットを見てもらいました。そこで高い評価をいただけたので、「書き上がった時にいい作品になっていたら、改めてKADOKAWA文芸に相談できるな」と安心してカクヨムで書き始めたんです。

――浅原さんほど実績があれば、書き下ろしでの相談もできたかと思いますが、それでもカクヨムを選んでいただいた理由をお聞かせください。

浅原:いろいろな方法をやってみて分かったんですが、僕は締め切りがない状態でひとり書くことにまったく向いてないんです。そこで今作は、最初に導入になる一章だけは一気に投稿して、そこから先は書きながら五月雨式に投稿していきました。
 読んでくれる人がいると「続きを待っている人がいる」というプレッシャーがかかるので、それに応えるために「とりあえず書こう」という気持ちが湧いてきます。始めてしまったからには、途中でやめるわけにもいかないじゃないですか。その力を借りて完成に持っていくためにカクヨムで執筆したんです。
 僕の場合は書きたいものを周りの意見で変えることはあまりないので、読者の「反応」を参考にしたというよりも、読者の皆さんの「応援」に向けて書いていた感覚です。読者の人と相互コミュニケーションを取れる環境は作家にとって非常にいいものですから、そこはWeb小説投稿サイトの素晴らしいところだと思います。

自治体に導入されたパートナーシップ制度を利用したことで受けたインタビューの様子が萌えるとSNSで広まり、世間の注目を集めることになった春日佑馬と長谷川樹のゲイのカップル。一躍時の人となったふたりに、映像制作会社のディレクター・茅野志穂が、性差別問題啓発のドキュメンタリー制作のため、のべ100日間にわたる長期取材をすることになった。ところが、佑馬と樹の関係はすでに破綻していた。しかし佑馬はドキュメンタリーの意義を感じ、あえて取材を受けることにしたのだった。当初取材を渋っていた樹だったが、佑馬に説得され、二人はカメラの前で仲のいいカップルを演じることに。一見、順調に進む取材。しかし、隠しきれなくなったふたりの溝が徐々に姿を現し始め、ドキュメンタリーは破綻に向かい……。

「リアルである」ことと「リアリティがある」ことは違う

――ここからは創作論について伺います。浅原さんの小説を読むと、映画やドラマを観ているような読感がありますが、やはり映像的に小説を書く感覚はありますか?

浅原:実は、映像的なことはあまり考えていないんです。僕は人の顔を覚えるのがとにかく苦手なんですよね。だから頭の中で俳優をイメージするようなことが全然できなくて、映像から入る作り方を苦手としている節があります。
 その代わりに「細かい起承転結をつけよう」ということは心掛けていて、それが結果的に連続ドラマみたいな読感になっているところはあると思います。長編小説の場合でも、大きな起承転結の中に細かい波を入れていかないと面白くないし、特にWebに連載するなら、それがないと途中で読者が飽きて離れてしまうので。
 それと、僕は登場人物の名前が決まっていなくても書けるタイプなんです。役柄を用意して「この役はこうで、あの役はああで」みたいな配置の仕方をして、世界観ではなく役柄から作品を創っていく。この作り方は、創作の方法として映画に似ているのかなという気もしています。

――浅原さんの作品は登場人物の心の機微が魅力なので、配役から作っていくというのは意外です。プロットが決まって書き始めてからは、また別のモードになるのでしょうか?

浅原:プロットを作るときは監督として、役者を動かしますが、執筆するときは僕自身が役者として登場人物を演じないと、人間像が出てきません。ですから小説を書きながらちゃんと人物に向き合って考え始めると、「こいつ、こうは動かないよな」とはじめに決めたプロットから齟齬が生じてしまうこともあります。
 僕は基本的に、書きながら登場人物を理解していくタイプなので、プロットの段階でキャラクター設定をバシッと詰めることはあまりしません。『100日後に別れる僕と彼』の主要な登場人物も、はじめ頭の中でイメージしていたのは「わりとリベラル寄りのゲイ」「わりと自由にやりたいゲイ」「若い映像ディレクター」「カメラマンの男性」くらいの設定です。
 その代わり書き始めると、主要人物だけでなく脇役に関しても、シンクロ度の高い低いはもちろんありますが、基本的に登場する人には全体的に中に入って考えようとしています。物語の中で実際に走らせてみると、人間だから、当初の想定とはちょっと違うものが出てくるんですよね。

――『100日後に別れる僕と彼』は、課題を抱えたゲイカップル二人のドキュメンタリードラマである一方で、それを撮影している映像ディレクターの志穂の社会人としての様々な悩みについても描かれています。志穂の心理描写に関して、浅原さんご自身の会社員としての経験が生かされている部分はありますか?

浅原:今作は僕にとってはじめての「お仕事小説」ですが、僕自身の仕事の経験はあまり生きていない気がします。というのも、志穂が抱えている悩みは基本的に「志穂が女性であること」に起因しているので、そうなると僕の体験は全く使えないんですよね(笑)。
 志穂の描写の上で一番参考にしたのは、おそらくTwitterですね。

――Twitterですか!?

浅原:はい。Twitterは、人の日常を見るツールとして非常に有効だと思います。いろいろな愚痴が流れてくるので、そういうものを拾い上げるのですが、投稿の内容をそのまま書いても面白くないので、その愚痴の先にある感情や悩みに入り込んで想像していくわけです。
 似たような日常観察ツールだと、昔は2ちゃんねるの「生活板まとめ」を見ていて、特に理不尽な理由で恋が冷める「理不尽冷め」というジャンルが好きでした。すごく完璧な彼氏と、奈良公園の土産物屋の2階の食堂に入って、彼氏の頼んだ海老天丼の衣がありえないくらいふやけていて、それを見た瞬間に冷めた、という理不尽冷めエピソードをTwitterで紹介してバズったこともあります。めちゃくちゃ面白くないですか?

――なんて理不尽な(笑)。

浅原:ですよね(笑)。そういう話を表面で留めずに深掘りして想像していくと、ちゃんと人間が出てくるんですよ。
 ただ、リアルな人間をリアルに書くことにはそこまで拘りません。基本的に現実の人間は、時と場合によって変わる一貫性がない生き物なので、小説でそれをそのまま書くと「何を考えているか分からない人」になってしまうんですよね。

――「人間をそのまま描いても、何を考えているか分からない」。目から鱗です。

浅原:思考だけでなく話す内容にしても、普段の会話を書き起こしても何を言っているのか分からなくて、小説の会話にはなりませんよね。だからリアルな人間をそのまま描くのではなく、ある程度は物語的に脚色して、キャラクターとしての一貫性を持たせるようにしています。
 リアリティとは「理解ができる」ということです。逆に、受け手が理解できなければ、それはリアリティではなくなってしまう。だから小説にするためにはそこをコントロールしないといけない。「リアルである」ことと「リアリティがある」ことは違うと思っています。

会社の存在が、創作のゆとりを生んでいる

――浅原さんは、日中は会社員として働きつつ、小説家としての創作活動をされています。ふたつの仕事を両立する上ではどんなことに気をつけていますか?

浅原:いやあ、そういうのは残念ながらないんですよね(笑)。そもそも僕は「両立できている」と言っていいのか……。今は専業で作家をやっている岩井圭也さん(『永遠についての証明』など)と交流があるのですが、彼は兼業の頃からものすごく多作な上に、巻末に参考文献が沢山載っているような手間がかかった文章を書くんですよ。そういう人を見ているので、僕も形の上では「両立できている」のでしょうが、自分では「このペースで果たして両立できていると言っていいのか」という思いがあります。
 今年の2月に出た『余命半年の小笠原先輩は、いつも笑ってる』(スターツ出版)は、元々カクヨムに最初の1章だけ載っていた作品です。それを読んでもらった出版社さんから「うちで出しませんか?」と声をかけてもらい、2章以降はWeb連載ではなく裏で書いて完成させたんですが……僕は裏で書くのに向いてないと実感しましたね。じつは他にも、裏で何年も書いているのに完成していない作品があるんです……。
 そういう意味で、『100日後に別れる僕と彼』の元になった作品をカクヨムに連載して自分にプレッシャーをかけたのは、会社の仕事と創作が両立できていない自分にとって、両立させるための手段だったんです。

――ご自身では「会社員と作家を両立できていない」と思われているわけですが、将来的に専業作家になるつもりはありますか?

浅原:専業になるメリットがそんなにないと思うので、現在は考えていません。今は年に平均1作のペースで刊行していますが、これがもっと多作で、すごく売れているんだったら賭けてもいいかなと思うかもしれないけれど、さすがにまだ怖いですね。
 今の僕は、会社の収入があるから経済的な余裕があり、最悪、小説を書かなくてもいいわけです。「書かなくてもいいのに書いている」という余裕があるから、面白い作品を創れている面はあると思います。今の状態で専業になってしまうと、地盤が整っていない上で執筆することになる。「会社員」という立場が僕に人間的なゆとりを持たせてくれてるんじゃないかな、という予感はちょっとありますね。

『100日後に別れる僕と彼』の作品に踏み込んだインタビューはKADOKAWA文芸WEBマガジンのカドブンでも掲載しています。ぜひ併せてごらんください!

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