第10話 甘味処に来て甘い物を注文しないのはマナー違反だよ!
赤レンガを出ると、寿子が先頭を切って歩き出し、向かいの公園に入って行った。
無言。手には先ほど嶋野から貰った
公園内のゴミ箱まで来ると、寿子は渾身の力で羊羹を叩き込んだ。
「死ねえビッチ! ああっ、手に陰険ビッチ菌がついた汚らわしい! あいつ絶対に膜から声出てないですよお、そんなのが海軍乙女の長とかもうね! 首相と不倫してるって噂も本当みたいですし! おまけに連合艦隊所属艦艇を、長官に断りもなくマスコミに見学させるだなんて!」
赤レンガでの鬱憤を全部吐き出そうとするかのように寿子がビッチ連呼する一方、五十子は冷静にゴミ箱から羊羹の袋を取り出し、汚れを払っている。
「いけないよヤスちゃん、甘い物を粗末にしちゃ。甘い物に罪は無いよ」
のほほんとした五十子の物言いに対し、寿子は目を真っ赤にする。
大勢の前で喋るという慣れないことをした反動で無口になっていた洋平も、これにはさすがに黙っていられなかった。
「五十子さん……どうして怒らないの? あそこまで言われて」
「え、だってミッドウェー作戦は検討して貰えることになったし、洋平君が連合艦隊司令部にいることも駄目とは言われなかったし、お土産まで貰ったし。怒る理由が無いもの。それに嶋野さんの言う通り、わたしは貧しい田舎者だよ」
五十子は飄々とした顔で、彼女が綿菓子のようと表現した桜の樹々を眺めた。
花びらが風に舞っている。
限りなく白に近く、雪のようにも見える花弁に覆われた地面を踏んで、五十子は公園の奥へと歩いていく。
「わたしの故郷はね、
風が止み、花びらが音もなく五十子の肩に落ちる。
寿子と洋平があっけにとられて沈黙していると、五十子は振り返って肩をすくめた。
「さてと。洋平君の言いつけを破ることになるけど、甘い物食べていかない?」
前に洋平が言ったことを、まだ覚えていたらしい。てっきり持っている羊羹を食べるのかと思いきや、近くに知っている店があるらしく「こっちだよ」と歩き出す。
レンガ造りの官庁街に囲まれ、噴水や池のある広い公園には、花屋やレストラン、喫茶店などが並んでいた。
例の「村の鍛冶屋」を口ずさむ五十子の後に続きながら、洋平は赤レンガでのやり取りを振り返る。
あの嶋野という女の口から発せられる粘つくような言葉には嫌悪感しか無いが、組織としての嶋野達の性質には思い当たる節がある。
洋平のプレイしていた「提督たちの決断」に、作戦目標なるものが存在した。
クエストの一種で、資源や要衝の確保を理由に挙げてくるが、実際の戦況、敵艦隊の存在は考慮されておらず、連合艦隊司令長官であるプレイヤーから見て攻略すべき方面とはかけ離れた場所を攻略しろと指示されることが多い。
クエストを無視してプレイすることもできなくはないが、目標を達成するとボーナスが貰える。
ゲームの序盤から中盤にかけては常に金欠状態なので、ボーナスは喉から手が出るほど欲しい。さらに資金よりある意味深刻な問題として、作戦目標を達成しないと所属提督達の昇進が行われない。通常の海戦で手柄を立てても経験値は貯まるが、階級は上がらないのだ。
「提督たちの決断」では少将以上が空母に、中将以上が戦艦に乗れるようになっている。逆に言えば、どんなに能力のある提督でも昇進しないと戦艦や空母に乗せられない。結果、プレイヤーは作戦目標に従わざるを得ないシステムになっている。
隣を歩く寿子にこのことを話すと、「未来のゲームはリアルですねえ」としみじみ言われた。
「私達の海軍も同じですよお。連合艦隊司令長官は、国民からは海軍で一番偉い人みたいに思われてますけど、作戦目標は軍令部が決めますし、人事考課は海軍省人事局が決めるんです。中央の命令通りに戦わないと、手当も勲章も貰えないですからね。海軍乙女は実家に仕送りしてる子が多いですから、結構切実な問題なんです」
実家と聞いて洋平は思わず五十子の背中を見た。桜を眺めながら五十子はまた故郷のことを思い出していたんだろうか。
先ほどの謎めいた言葉。故郷が敗戦国ってどういう意味だろう。少なくとも葦原はまだ戦争に負けていない。
その五十子は、園内の一角にある甘味処の
「いらっしゃいませー……おやまあ、山本次官!」
「ご無沙汰です。おかみさん、元気にしてた?」
「はい、おかげさまでどうにか。山本次官こそお元気そうで……あらいけない、つい昔の呼び方が。今は連合艦隊の司令長官ですものね」
「えへへ、なんだか照れるなあ」
店主の中年女性と五十子は顔馴染みのようだ。奥のテーブルに腰を下ろすと、五十子は洋平と寿子にお品書きを広げてみせた。
「2人とも好きな物を頼んでいいよ~。あ、わたしは田舎汁粉とあんみつとあん団子ね!」
……奢ってもらう立場で言い辛いが、それはちょっと食べ過ぎじゃないのか?
「じゃあ私はところてんで」「僕は磯辺巻きを醤油で」
「ちょっとちょっと2人とも、甘味処に来て甘い物を注文しないのはマナー違反だよ!」
「えー、だって長官、好きな物を頼んでいいっておっしゃったじゃないですかあ」
「メニューに書いてある物を注文して何が悪いんだ」
おかみさんは洋平達の注文を微笑ましげに聞いて、奥へ引っ込む。
「このお店はね、わたしが海軍省で次官をしていた頃によく通ってたんだ。……ここは変わってないなあ」
古びているが手入れの行き届いた店内を見回しながら、五十子は懐かしそうにしみじみと言った。
つまり、赤レンガは五十子の古巣なのか。その頃はどんな風だったのだろう。
今を思うと、洋平は複雑な気持ちにならずにいられない。
おかみさんの代わりに、湯呑みを3つお盆に載せた幼い女の子が出てきた。頭には誰かとそっくりな赤いリボンをしている。五十子が首を傾げて、
「おかみさーん、この子は?」
「孫ですよ。息子が出征して嫁も昼間は軍需工場で働いてますから、ここで預かってるんです」
奥からおかみさんの返事。五十子は「そっか」と小さく呟いて、女の子にウインクした。
「えへへ、リボンお揃いだね!」
事件はそこで起きた。
幼い女の子はお盆を両手に頼りない足取りでこちらへゆっくり近付いていたが、五十子から話しかけられ驚いたようだ。
これがいけなかった。
注意が離れた足がもつれ、前のめりに転びかける。
洋平が腰を浮かした時には、既に椅子を蹴って立ち上がった五十子が幼女をお盆ごと抱きとめていた。
遅れて幼女の口から悲鳴が漏れる。正に一瞬の出来事だった。
「ふう。怪我は……無さそうだね。良かった」
五十子と一緒に安堵の溜め息をつこうとして、洋平は気付いた。
五十子の軍服の左腕がぐっしょり濡れて、湯気が上がっている。
湯呑みに入った熱いお茶を、もろに浴びたのだ。
「五十子さん!」
洋平は今度こそ立ち上がり、例によって白い手袋をしたままでいる五十子の左腕を掴む。
「ん? どうしたの洋平君、わたしなら別に大丈夫……」
「大丈夫なもんか! 火傷するから、早く脱いで! 寿子さんは氷を貰ってきて!」
「はい!」
寿子が厨房へ急ぐ。洋平は五十子の左手から無理やり手袋を引き剥がし、そこで息を呑んだ。
腕から手の甲、指の先まで、皮膚が変色した痛々しい
寿子と一緒に駆けてきたおかみさんが、五十子の左手を見て真っ青になった。
「ま、まあ大変!」
洋平も寿子もショックで立ち尽くす中、五十子は困ったように「あちゃー」と頭をかいた。
「いや、違うんだよみんな。これ、今のお茶でできた火傷じゃないから。兵学校時代の傷だよ」
「……え?」
冷静になってもう一度五十子の左手を見ると確かに古傷で、裂傷には
五十子はそれ以上見られたくないのか、さっさと手袋をはめてしまった。
「お姉ちゃん、手、痛くないの?」
女の子が、泣きそうな声でそう言った。五十子はしゃがんで、女の子と同じ目線になる。
「ごめん、驚かせちゃったね。お姉ちゃんおっちょこちょいだから、怪我をしちゃったんだ。昔のことだから、今はもう全然痛くないよ」
「お姉ちゃん、かわいそう」
黒島亀子の「可哀想」とは違い、この子のそれは純粋に相手の身を案じる「かわいそう」だろう。それでも五十子は思うところがあるのか、首を横に振った。
「可哀想じゃないよ。海軍に入って手は怪我しちゃったけど、その代わりかけがえのない仲間ができたから。過ごした日々は本当にきらきらで、この怪我も含めて全部大切な思い出。お姉ちゃんの自慢なんだ」
「なかま?」
「うん、お嬢ちゃんだと『ともだち』かな。あ、別に怪我しなくても友達はできるからね! お嬢ちゃんは、お父さんお母さんからもらった身体を粗末にしちゃダメだよ。お姉ちゃんとの約束だ!」
「うん!」
元気の良い返事に、五十子は微笑んで女の子の頭を撫でる。おかみさんもほっとした様子だった。
「ふーん。仲間、ですか。なんか、私達より先輩の人っぽいです。妬けますねえ」
寿子がちょっと不機嫌そうな顔をしている。しかし、すぐに表情を緩めて、
「でも、嶋野大臣から何を言われようと小揺るぎもしなかったのは納得できました。だって、あんな大怪我をしてても誰かのために笑ってられるんですから。やっぱり、山本長官は偉大なお方です」
その後出てきたこの店の磯辺巻きは、綺麗なきつね色に焼け醤油が香る逸品だった。
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