山本五十子の決断

如月真弘

第1話 おめでとう! 君は大和に乗艦した最初の男性だよ


 有り得ないものが、見えた。

 鼻と喉は、焼けるように熱く。

 手と足は、鉛を流し込まれたように重く。

 辛うじて開けた目に映る、巨大な影。

 それは、見知っている・・・・・・が、決して見ることのできない・・・・・・・・・・・・はずのものだった。

 幻覚だろうか。もう頭が回らない。身体が下へ沈んでいく。ひどく苦しいけど、よくわからない。


 その時だ。誰かに、強く腕を掴まれたのは。


 沈んでいた身体が、急速に引き上げられていく。

 激しい水音。

 唇に柔らかいものが押し当てられ、新鮮な空気が送り込まれる。


 しっかり! もう大丈夫だよ!


 遠ざかる意識のどこかで、そんな声を聞いた気がして。そして――




「このシャツのボタン、きれいな虹色で光を通しますねえ。貝か何かでしょうか?」


「真珠貝やアワビとは手触りが違うな……こいつは天然素材じゃねえ。ひょっとして合成樹脂の類じゃねえか?」


「さすがはがき参謀長、育ちが良いだけあって服飾にお詳しいですねえ!」


「うるせえぞわたなべ参謀! しっかし、こんな高精度で加工された合成樹脂は見たことがねえな。そいつをシャツのボタンなんぞに使うとは……」


 どこかから、波の音がする。

 地面が僅かに揺れている。

 身体が冷たい。


「シャツにはMADE IN JAPAN、ズボンにはMADE IN CHINAと記されてます。MADE INはブリトン語で『そこで作られた』という意味だとして、後は恐らく国の名前だと思うんですけどお……」


「JAPAN? CHINA? そんな名前の国、あたしは聞いたことねえぞ」


「私もですよお。あ、手帳には葦原あしはら語が書いてあります、『生徒手帳』って。学生さんでしょうかあ……うわぁ、見て下さい参謀長! この手帳、文字が横書きで印刷してありますよお! 読み辛いですねえ! 生年月日、平成……平成っていつでしょう、元号みたいですけどお……」


「おい、この薄べったい板はなんだ? これ何かの機械じゃねえか?」


 まだ覚醒しきっていない、朦朧とした意識の中で、さっきから耳元でがさがさいう音と、人の話し声が聞こえてくる。

 2人分の女の声だ。ふわふわした声と、乱暴な声。


「……持ち物なんて、どうでもいい。重要なのは、ヒト男性と外見的特徴のよく似たこの生体が、海上を長時間死なずに漂流していたこと」


 3人目の陰気な、これまた女の声が、夢か現実かも判然としない会話に割り込んできた。


「……考えられるのはヒトの変異種、あるいは海底でヒトと全く異なる進化を遂げた水棲系未確認動物、海底人。早急に解剖して検証すべき」


「駄目ですよお黒島くろしま先任参謀! 解剖だなんて、山本長官にばれたら大目玉です! それに、私は海底人じゃなく未来人だって思います。科学が進歩して男の人でも海を泳げるようになった未来からいらした殿方に違いありません! 変わった服や手帳が証拠です!」


「へっ、渡辺も黒島もお子様だな。未来人も海底人もいるわけねえだろ。仮にも連合艦隊司令部の参謀なら、もっと常識的に物事を考えろよ」


「じゃあ参謀長は、この殿方のことをどう説明するんですかあ?」


「宇宙からの侵略者に決まってんだろうが! 今年の2月に、ロサンゼルスで謎の空襲騒ぎを傍受したよな。あたし達は空襲なんかしてねえのに、敵はロサンゼルス上空で勝手に何かと戦ってた。赤く光る物体がじぐざぐに飛行するのを、兵士や市民が大勢見たとか。あのロサンゼルス空襲こそ、宇宙人の侵略だったんだよ!」


「な、なんですってえ! それは本当ですか参謀長!」


「……いいから解剖。解剖すれば、海底人か宇宙人かはっきりする。このヒト型オス生体が海に入って死ななかった理由を解明し一般の葦原男子にも応用できれば、海軍の兵力は倍増、戦局は一変する。山本長官も喜ぶ」


「だから駄目ですってばあ黒島参謀! それと、もし男の人が海を泳げるようになったって海軍は男子禁制ですからねえ! じゃないと私の夢が壊れます!」


「渡辺の戯言はさておき、この大和やまとを見られちまった以上こいつを生かして陸に帰すわけにはいかねえんじゃねえか?」


「……珍しい、参謀長と意見が一致した。解剖する」


 解剖。

 非常に物騒なその言葉は、息遣いまではっきり聞こえた。

 聴覚情報が鮮明過ぎる。これは、夢の中の会話じゃない。

 げん洋平ようへいは、もう少しだけ眠りたいといっている目蓋を強引にこじ開けた。

 何度かまばたきして、まず自分の状態を確認する。

 濡れた下着の上に、浴衣のようなものを着せられて、硬いベッドに横になっている。全身がべたべたしていて、口の周りを舐めるとやけに塩辛い。海水? いや、そもそも、ここはどこだ?


「あっ、お目覚めのようですよお」


 ベッドの横から声がした。

 振り向くと目に飛び込んできたのは、背後から蛍光灯の光を浴びた3人の人影だった。


「……生体、活動を再開」


 死んだ魚のような目でこちらをじとーっと見ている小柄な女が、むっつりとそう呟いた。寝癖をそのままにしたような、あちこちがはねたショートヘア。

 間違いない、さっきから文章をぶつ切りにしたような喋り方で、何度も「解剖」と繰り返している人物だ。


「その実験動物みたいな言い方やめてあげましょうよお、黒島参謀。あのお、未来人さん? お具合はいかがですかあ?」


 天気でも訊ねるような調子でこちらを覗き込んできたのは、栗色を帯びたセミロングに黄色いカチューシャをつけた女。

 それを押しのけた長身は、ポニーテールで目つきの悪い、これまた女だ。への字に曲げた口に、竹串のようなものをくわえている。


「だから、宇宙人だっつってんだろ、宇宙人に葦原語が通じるわけねえだろうが! いいからここはあたしに任せな。えーっと、ワレワレハ、チキュウジン、ダ」


 彼女達3人は、見たところ中学生から高校生くらいだった。洋平にとっては苦手な人種だ。

 だが、着ているものがおかしい。3人揃って白い学ランのような5つボタンの上着を身に着け、肩から胸にかけては金モールをぶら下げている。コスプレ衣装だろうか? 参謀さんぼう飾緒しょくしょ付きの旧海軍士官の夏服と、よく似ている気がするのだが……。


「対話を試みるも反応なし。人語を解さない模様。やむを得ず解剖する」


 寝癖ショートの少女が指を突き付けて、眠そうな声で宣告した。

 その後ろで目つきの悪いポニーテールが、「ファーストコンタクトは失敗か……」などと独りごちながら、模造品には見えない使い込まれたライフルを取り出し、ボルトアクションの音を響かせる。

 ことここに至って洋平は、目覚める前後から耳元で彼女達が繰り広げてきた会話のテーマが、自分の生殺与奪についてだということにようやく気付いた。


「うわあああ! 猟奇コスプレ集団だ! 誰かぁ!」


「……逃げちゃいましたねえ。というか、普通に葦原語喋れるじゃないですかあ」

「あの宇宙人、今なんかすげえ失礼なこと言わなかったか……? とにかく追え! 抵抗するようなら射殺しろ!」

「射殺は駄目、生け捕り! 生け捕りにして解剖!」


 どっちにしろ殺す気まんまんじゃないか! と心の中で叫びながら通路に飛び出す。

 幸い扉は開けっ放しだったが、ごついレバーがついていて、かなり分厚かった。まるで船の水密扉だ。

 狭い通路を何度も転びそうになりつつ全力で走りながら、洋平は改めて自問する。

 ここは、どこだ? 

 混乱する頭を落ち着かせて、こうなる前の記憶を順を追って整理する。

 そうだ。修学旅行で広島に来ていたんだ。

 今日は自由行動の日。海戦オタクの自分は、迷わず呉の「大和ミュージアム」を行き先に選んだ。

 生憎の雨だったが、呉駅とミュージアムを繋ぐ歩道橋からは、海上自衛隊の基地と現役の護衛艦の姿を見ることができた。歩道橋を下りてミュージアムの玄関横に並んだ戦艦陸奥の引き揚げ品を眺めながら、まずは海自の潜水艦に無料で乗れる「てつのくじら館」へ行き、それから改めてミュージアムに入った。戦艦金剛で使われていた本物のボイラーもある展示コーナーを見て回って、最後に吹き抜けのホールに置かれた10分の1スケールの戦艦大和の前で立ち止まった。

 船渠ドックに見立てすり鉢状になったホールに横たわる巨大模型の存在感に圧倒されつつも、本物の迫力はこんなものじゃなかったんだろうな、見てみたかったな、などと、かなうはずもないことを考えて……。

 記憶は、そこでぷっつり途切れている。

 思い出せない。

 ミュージアムを出た記憶も、呉から広島に戻った記憶も無い。

 ということは、ここはまだミュージアムの中なのか。

 しかし、あんな場所で寝ていた理由も、あのコスプレ少女達が何者なのかも、心当たりがまるでない。


「……くっ!」


 懸命に記憶を掘り起こそうとすると、何故かひどい胸の痛みと息苦しさに襲われて、洋平は思わず壁に手をついた。

 あてもなく、一体どのくらい走ったのだろう。通路の先に階段が見えた。これもまるで船のラッタルみたいで、角度が60度はある。ラッタルの先にはハンドル付きの水密扉があり、今は開け放たれていて、そこから光が射し込んでいる。

 ラッタルを昇りきると、眩い陽光に目が眩んだ。

 潮騒のような音が聞こえる。ねっとりとした風、海鳥の鳴き声、濃密な海の匂い。足元が、リノリウム張りの床から木張りの甲板に代わっている。

 顔を上げて後ろを振り返った洋平は、一瞬、まだ夢を見ているのではないかと疑った。


「……大和やまとの、艦橋?」


 茫然として、洋平はかすれた声を出す。

 洋平のような人間に限らず多くの日本人にとって馴染み深い、しかし実物を見ることはかなわないはずのもの。

 大和型戦艦の前檣楼が、そこにそびえ立っていた。

 米軍から仏塔パゴダと揶揄された長門以前の日本戦艦の脚檣楼とは異なりすっきりとした、しかし巨大な筒型の塔。

 15メートル測距儀を頂上に戴き、上層に昼戦用の第一艦橋、中層に夜戦用の第二艦橋、その下に厚さ500ミリの甲鉄で覆われた堅牢な司令塔がせり出している。

 10分の1模型とは、文字通りスケールが違う。艦橋の高さは洋平が立っている甲板から見上げても、優に30メートル近い。ねずみ色の塗装も、質感がまるで違って見える。

 本物? 

 馬鹿な、あり得ない。洋平の常識が否定する。大和は1945年4月7日、沖縄特攻に向かう途上の坊ノ岬沖で、姉妹艦の武蔵は1944年10月24日レイテ沖海戦に向かう途上のジブヤン海で、ともに数百機におよぶ米軍機の集中攻撃に晒され海底深くに沈んでいるのだ。

 では目の前の、どう見ても本物にしか見えないものをどう説明する?

 唯一考えられるのは、本物そっくりのセットか何かだ。何年か前、映画撮影のため数億円を投じて大和の原寸大ロケセットが組まれたことがあった。しかし再現されたのは前半分で、しかも艦橋は建築基準法に触れるので建てられず「大和ミュージアム」の模型を合成して補ったと聞く。そのセットも、今は解体されて残っていないはずだ。

 屹立する艦橋から視線を下ろした洋平は、艦橋側面の広々とした甲板上に副砲の15・5センチ3連装砲が竣工時のまま鎮座しているのを見て困惑する。おかしい。何故わざわざ、あの副砲が再現されている?

 大和は1944年の改造で両舷の副砲を撤去して、代わりに対空兵装を増強している。12・7センチ連装高角砲を6基から12基に増やして段重ねにし、この状態が有名な某宇宙戦艦のモデルにもなっている。対空機銃も25ミリ3連装機銃が8基しか無かったのを52基に増やすなど、沖縄特攻に向けて出撃する最終時には164挺もの対空機銃が左右の甲板を針山のように覆っていた。

 ミュージアムに置いてある模型が正にこれで、世間の圧倒的多数が「大和」と聞いて思い浮かべるのは最終形態の姿なのだ。

 つまり。「大和ミュージアム」なり映画会社なりが1分の1スケールの大和を復元しようと企画したとしても、マイナーな改造前の姿を選ぶとは考えにくいのだ。


「測距儀にも、まだ電探が付いてない……間違いない、ミッドウェー海戦頃の状態だ。ミッドウェー海戦の映画に使うセット? いや、ミッドウェーの映画なら赤城のセットは作っても大和のセットは作らないだろ。それもこんな、大がかりな……」


 あまりに突飛な光景を前に想像力がかえって働かず、停滞した常識が頭の中を堂々巡りする。

 そんな洋平の思考を断ち切って、彼方から雷鳴のような音が響いてきた。 

 空を見上げる。

 呉に着いた時は雨が降っていたはずなのに、いつの間に晴れたのだろう。

 抜けるような青い空に、太陽の光をきらりと反射して銀色に光る物体が複数。

 雷鳴が大きくなった。違う、これは飛行機のプロペラの音だ。みるみる接近して頭上を通過するプロペラ機の編隊を、洋平は信じられない思いで見守った。


「……九六式艦戦? 何で……」


 ずんぐりしていて愛嬌のある黒いエンジンカウル、楕円形の主翼と固定脚。大戦時には既に第一線を退いて本国の基地や小型空母に配備されていたので後継の零式艦上戦闘機ほど一般には知られていないが、海軍初の画期的な全金属単葉戦闘機だ。

 そして洋平の知る限り九六式艦戦に、飛行可能な実機やレプリカ機は存在しない。

 飛んでいく九六式艦戦を見つめて立ち尽くしていると、


「いたぞお!」


 洋平が出てきた水密扉の奥から、さっきの3人組が追いかけてきた。

 しまった。この人達のことをすっかり忘れていた。


「なんで逃げるんですかあ未来人さん! 私達何もしませんからあ!」

「宇宙からのスパイだ、殺せー!」

「違う、海底人! 生け捕り!」


 先頭の黄色カチューシャの少女が何を言おうと、後ろでわめく二人のせいで説得力が無い。

 どうしようか、携帯で110番を……駄目だ、持ち物どころか自分の服さえない。

 この船から逃げる……出口はどこだ? さっきから波で揺れてるし、ここは「大和ミュージアム」の館内ではなく、明らかに海の上だ。

 洋平があれこれ迷っている内に甲板に駆け上がってきた三人は、洋平を取り囲もうとしたところで、何故か凍りついたように動きを止めた。


「……長官」


 寝癖頭のむっつり少女が、小さく呟いた。硬直した三人は、洋平ではなくその背後を凝視している。洋平も、つられて振り返った。

 大和型戦艦の命といっていい46センチ3連装砲、一番二番砲塔の後ろ姿が見える。流線形を描いて艦首へ至る甲板には勾配がついていて、艦首が盛り上がり、主砲塔付近が低く、真ん中にかけて再び高くなっている。

 俗に言う「大和坂」だ。

 その「大和坂」の前の方で、数人の少女達が何やら騒いでいる。


「長官がんばれー!」「あと少しです!」


 耳を澄ますと、そんな声援が聞こえてくる。

 そして少女達の中心には、異様な人影。

 真っ白い海苔無しおにぎりのような頭部で、両手を高く万歳させた怪人が、ゆらゆらと動いている……?


「だめえええっ、殿方は見ちゃいけませんっ!」


「え……うわあああ!」


 この3人の中では比較的まともだったはずの黄色カチューシャの少女が血相を変えて飛びかかってきて、不意を突かれた洋平はそのまま甲板に倒される。


「覗きが目的で地球に来たのか、この変態宇宙人めっ!」


 ポニーテールと寝癖ショートも、洋平を組み伏せにかかった。3人分の体重に悶絶しそうになりながら、洋平はおにぎり頭の怪人から目を離せなかった。

 それが怪人などではなく逆立ちした人間だとわかったのは、くるっ、しゅたっと体操選手のように見事に姿勢を戻した時だ。


「いっえい! これで賭けはわたしの勝ちだね!」


 明るい声の、少女だった。

 頭には潮風に揺れる赤いリボンの髪飾り。3人組と同じ、白い詰襟の制服を身に着けている。


「参りました!」「まさか本当に逆立ちで大和の甲板一周しちゃうだなんて、長官ヤバ過ぎです!」


 おにぎり怪人改め逆立ちをしていたリボンの少女は、ギャラリーの喝采を浴びながら大きくガッツポーズしている。

 待てよ? 逆立ちしていたということは、つまり手だと思っていたのは足で、それで頭のおにぎりみたいに見えていたのは、もしや……。


「あ、ヤスちゃんだ! たばねちゃんにかめちゃんも、そこで何してるの?」


 リボンの少女が、こっちに近付いてくる。

 気取らない満面の笑顔が太陽みたいに眩しい。


「長官! 何してるの、はこっちの台詞ですよお!」


 洋平の身体を圧迫する体重が一人分軽くなった。

 黄色カチューシャの子が、逆立ちの少女に敬礼しつつ非難の声をあげる。といっても声がふわふわしているので、全然怖くない。

 リボンの少女は肘を横に張らない海軍式の答礼をしてみせてから、ちょこんと首を傾げた。


「ん? ……おっといけない、わたしとしたことが。無帽で敬礼とは失礼だったね、えへへ」


「気にするとこ、そこじゃないですよお! こらあ、貴女達! また軍楽兵ですねえ! 山本長官は貴女達の遊び友達じゃないんです、階級をわきまえなさい!」


 ……え? 今この子、山本長官って言わなかったか?

 山本長官と言われて洋平の頭に浮かぶのは勿論、連合艦隊司令長官、山本五十六やまもといそろくだ。洋平が愛好する海戦シミュレーションゲーム「提督たちの決断」の主人公であり、動かせる提督の中で最強のキャラクターでもある。どうして今、その名前が出てくるのか。


「いいんだよヤスちゃん、わたしがやろうって言ったんだから。それより今の見ててくれた? 遂にやりました、逆立ちで大和一周っ!」


「スカートで逆立ちはやめて下さい! 長官のパ、パ、下着が丸見えですよお!」


 ……ああ。やっぱりあれは、おにぎりじゃなくてアレだったのか。


「えー、別にいいよパンツくらい。女の子しか見てないんだし……」


 リボンの少女のいたずらっぽいきらきらした目が、洋平を下に敷く格好の2人のところでとまる。

 甲板にうつ伏せになっている洋平と、目があった。


「……ヤスちゃん、は医務室で面会謝絶と言ったはずだよね。どうして束ちゃんと亀ちゃんのお尻の下にいるのかな?」


「えっ、男?」「うわあ、男がいる!」「うっそぉ、なんで艦に男が?」


 ギャラリーの少女達がざわめく。この場で性別が男なのは洋平ただ一人。四方八方から奇異の視線を浴びせられ、まるで女子校に無断で侵入して捕まった不審者のような肩身の狭さを味わう。


「ええと……これにはですねえ、色々と事情があってえ……」


「怪しいから所持品を調べるべきだと言い出したのは、宇垣参謀長」


「ああっ、きたねえぞ黒島! 最初に医務室に入ってったのはてめえだろうが!」


 黄色カチューシャの子は一転して低姿勢になり、洋平を組み敷いている寝癖ショートとポニーテールが言い争いを始める。

 混乱に拍車がかかる洋平に、不意に、白い革手袋をした手が差し伸べられた。全員がぴたりと黙る。寝癖ショートとポニーテールの2人が、洋平の上から退く。

 リボンの少女が腰をかがめ、洋平の目線で微笑みかけていた。


「目が覚めたんだね。おめでとう! 君はこの大和に乗艦した、初めての男の人だよ」


 大和と、リボンの少女は確かにそう言った。


「名前、聞いてもいいかな?」


「……洋平ようへいげん洋平ようへい


 考える前に名乗ってしまっていた。

 格好だけでいえば洋平を散々な目にあわせた3人組と同類のはずなのに、彼女には、不思議と人を安心させる何かがあった。

 手を引いてもらい、ようやく立ち上がる。

 洋平は、彼女の印象を少しだけ改めた。遠目では、リボンの髪飾りや小柄な体格、茶目っ気のある喋り方から子どもっぽく見えたが、間近で見ると、少女といえるほど幼くはなかった。

 人懐っこい笑みをたやさない顔には、しかしどこか落ち着きがあって、幾つもの異なる光彩を宿す大きな瞳は、捉えどころが無い。

 洋平の自己紹介に、彼女は微かに怪訝そうな顔をした。


「ようへいって、ひょっとして太平洋の洋に平?」


 洋平が頷くと、後ろの方で再びざわめきが起きる。


「男なのに、名前にさんずい? それって禁忌なんじゃ……」「偽名だって絶対」「男の子の名前にさんずいを入れる親なんて、いるわけないじゃん」


 無遠慮なヤジが飛ぶ。自分の名前に他人から文句を言われるのは初めてだったが、洋平はあいにく、怒るどころではなかった。

 目が覚めたら何故か乗っていた、沈んだはずの戦艦。現存しないはずの戦闘機。そして、この不思議な少女達。謎は深まるばかりだ。


「洋平君、か。なるほど、君は海に愛されているんだね」


 質問の主であるリボンの子は、納得したように大きく頷いた。

 彼女の白い制服には、よく見ると肩章がついている。太い金線に、桜が3つ。

 旧海軍で、大将がつけていた肩章。

 そして白い制服も、下がミニスカートであることを除けば、旧海軍の第二種軍装にそっくりだ。

 あくまでも常識で考えるなら、この大和を忠実に再現した船は一般公開中の映画のセットか博物館かで、そこへ軍オタ女子が集まってコスプレ姿でオフでもやっていることになる。

 だとすれば、迷惑極まりない。一般人も訪れるかもしれない公共の場所で、集団で、しかも旧軍のコスプレという政治的に微妙な格好で大騒ぎ。

 「オタクの迷惑行為」を嬉々として報じる、マスコミの悪意と偏見に満ちた記事が目に浮かぶようだ。

 ただでさえ自分達は「右翼的な~」「軍靴の音が~」などと、都合のいいレッテルを貼られ槍玉にあげられることが多い。一部の目立ちたがる人の行為で迫害を受けるのは、マナーを守っている大多数のオタクなんだと、できることなら声を大にして言いたい。


「あ、あのさあ、ちょっといいかな」


 実際には声が擦れて予定した声量には遠く及ばなかったが、それでも目の前にいるリーダー格と思しきリボンの子に一言いってやろうと前置きを口に出した時。

 上空を今度は先程の倍以上の数の九六式艦戦が飛んでいき、洋平はいったん口を閉じた。

 頭の中で、先ほどからある疑問が芽生えつつあった。常識で考えるなら、それは一蹴すべき妄想の類だった。だが、既に洋平の常識は何度も覆されている。おかしな人扱いされるのを覚悟で、洋平はその疑問を口に出した。


「……今って、何年何月何日?」


 海軍大将の肩章をつけた少女は、洋平の質問を嘲笑しなかった。


「今日は、こうぶん17年の4月8日だよ」


 答える彼女の表情に、からかっている様子は無い。興味深そうに、洋平の顔を伺ってはいるが。

 こうぶん? 聞いたことがない元号だ。

 しかし、洋平の疑問、その先に浮かんだ考えは、像を結びつつあった。

 数秒の逡巡の後。

 洋平は、薄氷と化した常識を、自分から踏み抜くことを選んだ。


「西暦だと何年? ……1940年代の前半じゃないかと思うんだけど」


「西暦? ああ、伴天連暦ばてれんれきのことなら、1942年だよ。1942年の、4月8日」


 ごくあっさりとした声で、リボンの子はその日付を繰り返した。

 仮にそれが西暦とするならば、洋平にとっての現代から70年以上も過去だ。

 史実通りなら、ミッドウェー海戦の約2カ月前。確かに、大和の艤装とも合致する。

 想像していたとはいえ、実際に他人の口から宣告されるのは衝撃的だった。洋平はリボンの子から視線をそらし、例の3人組のうち寝癖ショートの子に訊ねる。


「……さっき、僕が海の上を漂流してたって言った?」


「言った。あなたは昨日本艦付近の海上で発見され、山本長官が救助した。救助時には気を失っていて、以後丸一日意識不明の状態だった。ただし発見時の状況から、自力で泳いできたと思われる」


 寝癖ショートが淡々と答える。三たび、ギャラリーからざわめきが起きた。「男が海を泳いだ?」「絶対あり得ない!」「なんで生きてるの?」等々。洋平としては、こちらが聞きたい気分だ。僕が、泳いでここまできた? 「大和ミュージアム」にいたはずなのに一体何故。洋平は頭を抱えた。


「どうしたの、洋平君! 頭が痛むの?」


 リボンの子が、心配そうに覗き込んでくる。駄目だ、何も思い出せない。


「……記憶が、無いんだ。僕が、どうやってここまで来たのか。目が覚めたらここにいて、その人達がいて。……ここは、この艦がいるこの場所は、一体どこなんだ?」


「悪いが宇宙人、艦隊の泊地は軍機だ。てめえに知られるわけには……」


 ポニーテールの口上を、リボンの子が途中で遮る。


「瀬戸内海だよ、広島湾の沖。北にあるはしらじまの名前をとって、わたしたちはここをはしらじまはくって呼んでる。どう、何か思い出せそう?」


「山本長官!」


「構わないよ、束ちゃん。この程度のこと、地元の人なら誰でも知ってるよ」


 おかげでここが「大和ミュージアム」でないことは再確認できたわけだが、そんなことはもはや、瑣末に思えた。

 山本長官。目つきの悪いポニーテールは、リボンの子のことをはっきりとそう呼んだ。ここが現代でない以上、軍オタ女子のなりきりとかでは済まされない。まさか、この子が。


「君が……連合艦隊司令長官の、山本五十六やまもといそろくなの?」


 大将の肩章をつけ、皆に長官と呼ばれる少女は、洋平の問いに一瞬きょとんとしてから、首を横に振った。


「惜しい、ちょっと違うかな。わたしは五十子いそこ山本やまもと五十子いそこだよ」


 それから少し恥ずかしそうに、


「わたし、父親が50歳の時に生まれたからね、それで五十子って名前なんだ。……えへへ、自分でもちょっと変な名前かなって」


 そう言って笑う彼女は、身に付けた軍装を除けば、どこにでもいそうな普通の女の子だった。


「山本、五十子……」


 子どもっぽいリボンをつけ、逆立ちをして無邪気に笑う女の子。

 彼女が連合艦隊司令長官とは、にわかには信じ難い。

 けれど巨大な戦艦大和は、質量を伴った紛れもない現実として、洋平の前に厳然と存在していた。

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