第44話 エピローグ

 帝都、赤レンガ。

 2カ月前に訪れた時よりじわりと蒸し暑くなったその部屋の会議机には、前と同じように海軍省と軍令部の高官達がずらりと並んでいる。上座では嶋野が、背もたれの大きな安楽椅子にふんぞり返って脚を組み、扇で自らをあおいでいた。

 一方、出入り口に最も近い末席には「連合艦隊」と紙が貼られた粗末なパイプ椅子が何脚か置かれ、そこに井上成実と、そして洋平の2人だけが座っていた。


「……遅いですわねえ。大事な戦訓研究会だというのに、山本さん達はまだ来ませんのぉ?」


 海軍大臣兼軍令部総長の気怠げな声は、むしろどこか楽しんでいるようにすら感じられた。「戦訓研究会」などとご大層な名前をつけているが、彼女がやりたいのは弾劾裁判だ。


「ねえ坊や。このままだと山本さん、今日の一番大事なところを見逃しちゃうのだけれど良いのかしら……ふふっ」


 嶋野は広げた扇子で口元を覆ってはいたが、嗜虐心にぎらつく目は隠しようもない。洋平は無言で頭を下げる。


「あら、つまらない。時間もありませんしもういいですわ。……伊藤さん、始めなさい」


 嶋野の声の温度が一気に下がる。

 命じられて席を立ったのは、軍令部次長のあの伊藤静だった。


「……今回、第四艦隊指揮下のアリューシャン攻略部隊は、アリューシャン作戦を独断で放棄、ダッチハーバー空襲を中止し反転しました。結果、アッツ・キスカ両島の占領は未達」


 静が硬い声で読み上げる罪状は、全て事実だった。

 洋平があの大和の夜、成実に頼んだことだ。

 霧のアリューシャンに占領する価値は無く、ヴィンランド軍にミッドウェー作戦を事前に知られている以上、陽動の効果も無いので攻略は完全に無意味。それ故の、史実を覆すアリューシャン部隊の反転。

 結果、急速南下した第四航空戦隊の戦闘機隊は大和の救援に間に合い、雷爆撃隊は敵空母ホーネットを撃沈した。

 だが。


「これは明らかに、大海令に背く行為です」


 嶋野の取り巻き達の幾本もの敵対的な視線が、成実に突き刺さる。


「井上中将、どういうことか説明して下さい」


 この会議室も戦場なのだと、洋平は思う。

 硝煙も、砲弾の落ちる波飛沫も、血と潮の香りも無い。ただ淀んで腐った海の臭いのする戦場。


「ご安心なさい、井上さん。貴女を海軍刑法違反で裁くつもりはありませんわ」


 検事から被告の陳述に移るのを遮るように、嶋野が割って入った。


「優秀な後輩の経歴に傷がつかないよう、先輩が庇うのが海軍の良き伝統……悪いようにはいたしませんことよ。たしか、兵学校の講師の椅子に空きがあったと思いますわ。貴女、普段周りから『井上先生』って呼ばれているんでしょう? 学校の先生なんて悪くないんじゃないかしら……」


 それが嶋野の慈悲などでは決してないことを、洋平は知っている。成実のような艦隊司令長官は親補職といって、形式上は聖上が任免する。実態は海軍大臣が人事権を握っているものの、聖上が任命した親任官である成実を海軍刑法違反で処罰となれば前代未聞だ。人事案を上奏した海軍省の責任問題になる。だから、これは茶番劇だ。

 成実がゆっくりと席を立つ。

 眉根を微かに寄せ、嶋野を正面に見据えた顔は冴えた磁器のように白い。

 峻烈なその表情に危機感を覚え、洋平は半立ちになって成実をとめようとした時。


「見くびらないで。私はむしろ海軍刑法、抗命罪での処罰を希望するわ」


 磁器が割れるような錯覚。


「成実さん、ちょっと……」


「源葉君。ありがとう、こんな時代に来てくれて。だから君に迷惑はかけない。私1人が被るわ」


 銀縁眼鏡の中の成実の目が、悲壮な闘志に光っている。

 違う、そうじゃない。自分がここにいる目的を思い出し何とか穏便な言葉を考える内に、成実の舌鋒は本格化した。


「しかし、その前に。敵空母2隻が南太平洋に出現したとの有り得ない通信を送り、故意に現場を混乱させた中央の責任を問うのが先よ」


 会議机が微かにざわつく。そのざわつきを一睨みで沈黙させて、嶋野は余裕の笑みを浮かべながら首を横に振ってみせる。


「南太平洋に空母? そんな通信、私は知りませんわ。富岡さん、貴女知ってます?」


「いえ」


 嶋野の腹心の1人、富岡大佐が同じく首を横に振った。


「三代さんは?」


「知りません」


「じゃあ沢本さんは? 岡さんは? 福留さんは? あらあらあら」


 幹部達が次々と首を横に振っていく姿に、嶋野の両頬は扇では隠せないほどつり上がっていった。


「見ての通りですわ井上さん。そちらの受信ミスじゃありませんこと?」


「そんなはずはないわ」


「おーほっほっほ! 良いんですのよ井上さん、ミスはいつだってありますわ。そう、練習艦で井上さんの受け持ちの砲が偶然・・暴発したような」


 真っ赤なマニキュアの手が、扇をことりと机に落とす。口角が裂けたその顔に、洋平の前に立つ成実の肩でさえ、ぞわりと震えた。


「……貴女、まさか」


「あれはびっくりしましたわぁ。いけすかない帰国子女が消えてせいせいすると思っていたら、まさか山本さんが代わりに怪我をするなんて……卒業席次、私は実力であの子に勝ちたかったのに」


 洋平が動いた時には遅かった。

 堪えていたのだろう、この日初めてのブリトン語で聞き取れない呪詛を叫びながら、成実が嶋野に飛びかかる。

 嶋野は涼しげに目を細め、


「現行犯ですわ。……やりなさい」


 双子のような外見の富岡大佐と三代中佐が左右から成実を取り押さえ、容赦なく床に叩きつけた。

 成実がくぐもった呻きを漏らしながら、なおも立ち上がろうともがく。


「よくも……貴様のせいで五十子は……五十子がっ……」


「黙らせなさい」


 三代が成実の髪を掴み、身体ごと後ろから羽交い絞めにする。成実の眼鏡が吹き飛ぶ。


「誰のせいですって? 全部貴女のせいですわよ、井上さん。私の愛する山本さんと私との間に、貴女のような異物は要らないの」


「……その長くて尖った爪で、どうやって五十子を愛するというの」


 いつの間にか立って成実に近付いていた嶋野が、表情を一変させ成実の顔を蹴り上げようとした瞬間だった。


「私が送りましたっ!」


 その声はか細く、悲鳴のようで、しかし嶋野の足と、富岡と三代の暴行を止めた。


「……伊藤さん?」


 振り返った嶋野が、僅かに目を眇めた。

 他の幹部達もぽかんとしていた。公では常に無表情で、嶋野の忠実な側近として振る舞ってきた伊藤静が。


「『マーシャル諸島南方で西航する美空母2隻発見。美軍はポートモレスビー防衛のため豪州近海に兵力を集中せる疑あり』この虚偽の情報を打電したのは私です」


「ちょっと伊藤さん?」


「それだけではありません。敵がミッドウェー作戦を察知している兆候があるという大和田通信所の観測結果も、私が握り潰しました」


「伊藤さん、具合でも悪いのかしら?」


「全て嶋野閣下から指示されてやりました。逆らえば、私の同期や後輩達を陸戦隊送りにすると脅されました!」


 ざわめきは制御不能になる。

 富岡と三代が、逃げるように成実から離れる。

 嶋野は静に詰め寄った。


「……伊藤さん。貴女、こんなことをしてただで済むと」


 鬼の形相をした嶋野に、静は震えながらも、逆に一枚の紙を突き付けた。


「同期や後輩達、全員の血判状です! みんなで話し合って決めました。私達、歩きます! ポートモレスビーまで!」


「なんですってぇ!」


「私達は元より、御国のために死ぬ覚悟でした! この勝ち目のない戦争が始まると決まった時から。覚悟ができていないのは、根拠も無い『長期不敗』に縋り現実を見ようとしない貴女ですっ!」


 混乱の中。

 大臣室の扉が、大きく開け放たれた。


「その言葉を待ってたぜ、伊藤先輩」


 長身にポニーテールをなびかせた少女が1人、部屋に入ってくる。

 宇垣束。嶋野は剣呑なまなざしを向けた。


「……宇垣さん? 今更何のご用ですの」


「別に。あたしは伝えることがあって来ただけだよ」


 束は嶋野の脇を素通りして窓辺へ向かい、大臣室の分厚いカーテンを開いた。


「陸軍憲兵隊が、外で待機してるぜ。嶋野先輩に、聴きたいことがあるそうだ」


 嶋野と取り巻き達が、一斉に窓際に駆け寄る。


「嶋野先輩が親しくしてた尾崎とかいう毎朝新聞の記者。彼女、実はルーシ連邦の工作員だったことが判明した。目的は葦原を対美開戦させること。そのための世論誘導、不安定化工作。……嶋野先輩、あんたは彼女に色々と便宜をはかったそうだな。例えば、普通は民間人が入れない軍の施設に案内したり」


 洋平も遅れて窓際に歩み寄り、正門の外を見下ろした。

 軍のトラックと黒塗りの車が停まり、陸軍の兵士と私服姿の男達が何やら押し問答をしている。


「内務省の特別高等警察も来ている。憲兵隊とどっちが先輩の身柄を押さえるかで小競り合いをしているぜ」


 床に倒れた成実を荒っぽく助け起こしながらそう言った束の声はあまりに淡々としていた。


「はっ、何を言ってますの? 尾崎なんて知りませんわ!」


 嶋野の裏返った声で、洋平は屋内に視線を戻す。あの大きな地球儀に、嶋野が爪を立てていた。


「それにルーシ連邦の工作ですって? これは私が始めた戦争ですわ! 私が種を蒔いて、水をやり、やっと芽が出た戦争ですの! 誰にも渡すものですか!」


 そうですわ、総理ならきっと。そう口走りながら、嶋野が黒電話をとる。


「この件は総理もご存知のことだ」


 だが束の冷たい宣告に、受話器を取り落とした。


「じゃなかったら陸軍の憲兵隊が動くわけがないだろ?」


 両肩を抱き、わなわなと震える嶋野に、束は無情に手を差し伸べる。


「さあ、行こうか」


「いっ、嫌ですわ! 誰か私を守って! 守りなさい!」


 彼女が見回したのは、忠実な彼女の側近達だった。


「岡さん! 貴女軍務局長でしょう! 何をぼさっとしてますの、守備隊を組織して籠城の用意を!」


「いえ、その……」


 呼ばれた少女が、気まずそうに嶋野から目をそらす。


「なっ……。福留さん!」

「……」

「富岡さん!」

「……」

「三代さん!」

「……」


 沈黙が続く。

 誰も、嶋野と目を合わせようとしない。

 最後に嶋野は、側近の中で一番年上に見える少女の名を呼んだ。


「沢本さん! 次官にしてあげた恩を忘れましたの!」


 沢本と呼ばれた少女が、ポケットから白い封筒を取り出す。鮮やかな墨で「辞表」と書かれていた。


「……私は本当は、三国同盟にも開戦にも反対でした。嶋野先輩から昇進の話を持ち掛けられ、欲に負けました。国には仕送りを待つ家族がいます。けれどもう、貴女の下で働くのはうんざりです……!」


 彼女は最後に成実と静に姿勢を正し、深々と頭を下げた。


「ごめんなさい。私達には、勇気が無かった」




 石造りの玄関ホールを、嶋野を連行して歩く。束、成実、静、それに洋平で。


「嫌ですわ! 拷問されるくらいなら、死んだ方がましですわ!」


 嶋野の狂態は最初からみれば弱まっていたが、それでも相当なもので、洋平は彼女のマニキュアでこっちが怪我をさせられないか心配だった。


「ねえ坊や! 貴方、未来を知っているんでしょう! 私はこれからどうなるの! 教えなさい!」


 一度は偽者だと結論付けたはずの洋平に対してさえ、こうして未来の知識を求めてくる。だが洋平には、首を振ることしかできない。


「知りません。この世界はもう、僕の知っている歴史を外れています」


「何を言ってますの……嫌っ、嫌あああ! お願い殺して、お願いですわ誰かあ!」


 憲兵隊と特高警察の姿が目に入ったからだろう。嶋野が床に身を投げ出し、絶叫した時だった。

 タイヤが金切り声を上げる音。

 憲兵と特高が群がる正門に一台のタクシーが割り込み、轢かれかけた男達が怒声をあげる。

 タクシーはスピードを落とさないまま構内に進入し、正面玄関に荒っぽく停車した。

 その瞬間、束の態度が豹変した。


「下がれドブネズミ! 彼女の身柄は海軍が保護する! 邪魔立てするなら容赦しねえぞ!」


 鋭い目つきで正門前の男達を睥睨する。


「……宇垣さん?」


 成実が驚いたような、呆れたような声を出した。


「いいか、帝都湾内に連合艦隊が展開中だ! 砲の照準は陸軍省と内務省に向けられている! 憲兵隊も特高も、直ちに解散しろ!」


 はったりなのを、洋平は知っていた。連合艦隊は確かに本国に帰投しているが、大半が呉や佐世保のドックで入渠・補給中だ。

 だが、男達はそれを知らない。それどころか数年前この国でクーデタが起きた時は、鎮圧のために海軍の戦艦が帝都に砲の照準を合わせることが実際にあったと聞く。その時の記憶が脳裏をよぎったのだろう、男達は青ざめ、悪態をつきながらも各々の車に乗って退散していく。


「宇垣さん……貴女、私のために」


 茫洋と、嶋野が呟いた。宇垣束は振り返ってこれ以上ないほど苦い顔をする。


「あんたのためじゃねえよ。頼まれたからだ」


「え……」


 もはや何の遠慮もない態度で、束は嶋野に向かって指を突き付け、吐き捨てるように言った。


「聞け。あんたは最低の先輩だった。よくもみんなを散々苦しめてくれたな。……だけど、そんなあんたでも『同じ海軍乙女の仲間だから守りたい』そんなどうしようもなく甘っちょろい、お人好しがいるんだよ」


 そういうことだ。洋平は肩をすくめるしかない。

 成実と静が、驚いたように束と洋平を交互に見ている。

 茫洋としていた嶋野の顔が、徐々に歪んでいく。扇を途中で落としたせいで、もう感情を隠せるものは何もない。

 タクシーの後部座席が開き、赤いリボンが零れる。


「嶋野さん、乗って」


 その時嶋野の顔に去来したのは、屈辱、憎しみ、それ以外に洋平には正体のわからないものだった。


「……山本さん、貴女が憎い」

 

 結局、嶋野が五十子にぶつけたのは、やはり憎しみだった。


「私は貴女みたいになりたかった。……でも私には、そんな風になれなかった」


「そのままでいいんだよ、――ちゃん」


 五十子は小声で、聞いたことのない名前を呟く。

 顔を覆った嶋野を優しく後部座席に乗せ、五十子は外から扉を閉める。

 束が助手席に乗り込み、タクシーは走り出す。行き先は芝浦埠頭。そこから沖へ出てしまえば、この世界の男達には手出しできない。

 

 赤レンガの前に静けさが戻って、束や大勢の少女達が口にしてきた言葉を、洋平は胸の中で反芻する。

 本当に、五十子は優し過ぎる。





 赤レンガ前の公園にあるいつぞやの甘味処では、大勢の海軍乙女達が五十子を待っていた。

 これからミッドウェー海戦の慰労会が始まるのだ。

 だが仰々しい訓示も万歳三唱も無く、五十子がいきなりエプロンをつけて厨房に入っていったのは、全員面食らった。


「今日は人数が多いからね。おかみさん、わたしも手伝うよ!」

「あらまあ」


 馴染みの女店主も、目をぱちくりさせている。


「あ、お姉ちゃんだ!」


 いつぞやの五十子とお揃いのリボンの子も一緒だ。

 だが、連合艦隊司令長官をエプロン姿にさせて部下達がただ座っているわけにもいかず、何人もが手伝いを申し出たが、狭い厨房では外で待つしかない有様だった。


「……今日は謝りたい。皆に」


 五十子を待つ間。立ち上がって全員にそう告げたのは、意外なことに先任参謀の黒島亀子だった。


「あ、謝りたい? 黒島参謀がですかあ? 日頃のだらしない昼夜逆転生活? あ、宇垣さんの日記で自分の悪口が書いてあるところを勝手に破ったことなら、本人が来てから謝った方が良いですよお?」


 渡辺寿子が茶々を入れるが、亀子は驚く皆に頭を下げた。


「……私の作戦は複雑で、詳しい説明が必要なのに、現場の部隊とのコミュニケーションを軽視し、何が真の作戦目的かを共有していなかった」


 最後に、少し潤んだ瞳で洋平を見ながら、


「ミッドウェー作戦は……完璧な作戦ではなかった」


 それでいい、と洋平は思う。気付いて、成長すればいいんだ。

 亀子には作戦を立てる素晴らしい才能があるんだから。

 そして、頭の中の作戦をみんなに話してくれればいい。いつだったか、洋平に話してくれたみたいに。

 間髪を入れずに、今度は南雲と草鹿が立ち上がった。


「あっ、あのぅ、私達……」

「ボクのせいだ! 占い師君の……いいや、源葉君の意見をもっと早く聞いていれば、赤城を燃やさずに済んだ。それどころか、もう少しで艦隊を全滅させるところだった。この通りだ、すまなかった!」


「はは……いや、僕じゃなくて五十子さんに言って下さい。僕はただ、五十子さんの意思で動いただけですから」


 初めて名前で呼ばれて照れ笑いをしながら、南雲も草鹿もきっと何のお咎めも無いだろうなと洋平は思った。もし南雲と草鹿が史実通り空母4隻沈めて帰ってきたとしても、五十子は2人を一言も責めたりはしなかっただろうから。

 そう思っていると、厨房から五十子本人が現れた。可愛らしいピンクのエプロン姿で、何やら異様に甘い匂いと共に。


「お待たせ~。前に峰ちゃんからお土産でもらったココナッツジャムで、ぜんざいを作ってみたんだ! ココナッツぜんざいだよ、ココナッツぜんざい!」


 その得体の知れない色と芳香に、厨房近くにいた数名の士官が悶絶する。


「うう……どうしよう峰ちゃん、やっぱり山本長官怒ってるよぅ、これ罰ゲームだよぅ……」

「大丈夫だよ~、お土産買ってきてくれた汐里ちゃんと峰ちゃんには一番多いのをあげるからね!」

「ひうううううぅ!」


 南雲がぷくぷくと泡を吹きながら草鹿の胸に倒れこんだ。寿子が口にハンカチを当てながら、


「ひどい……トメニアですら使用を自粛している毒ガス兵器を! 長官はもう料理作るのやめて下さい!」

「えー、ひどいのはヤスちゃんだよ! これ、自分でも試食したけど甘くて美味しかったよ!」

「長官の『甘くて美味しい』は何の参考にもなりません!」


 阿鼻叫喚の状況と化した甘味処からこっそり抜け出すと、外のベンチに先客を見つけた。

 ワンサイドアップにビー玉を付けた少女。 


「あ、未来から来たお兄ちゃん! お疲れ様なの!」

「……多恵さん」


 二航戦司令官、楠木多恵がちゃっかり外に避難して、みたらし団子をぱくついている。


「ミッドウェーでは指揮権を渡して貰えたおかげで、敵空母にしっかりとどめを刺してやれたの! 普段の辛い練習の成果が発揮できたって、搭乗員の子達も大喜びしてるの。あれ、お兄ちゃんがしてくれたんだよね?」

「それは……」


 思わず、声が詰まりかけた。

 洋平は知っている。洋平の歴史で多恵と同じ役職にいた闘将は、あの海戦で帰らぬ人となった。

 けれど多恵はこうして今も生きて、団子を食べている。

 洋平達は、確かに運命に勝ったのだ。


「あ、たばねえなの!」


 その声で洋平は我に返った。

 多恵が駆け寄っていって、長身の人影に抱き着く。

 嶋野を船まで送り届けたのだろう。無表情で、束が多恵の抱擁を受け止めていた。


「たばねえ、久しぶりなの! 帰国した後も全然会ってくれないから……」


「どの面下げて会えってんだ」


 低く唸るように、束が答える。


「あたしはな、多恵を殺そうとしたんだぞ」


 楠木多恵は、二航戦司令官はビー玉の髪飾りを揺らして、ふんわり笑った。


「それでもたばねえは、多恵の大事な友達なの」


「……そうかよ」


 束の鉄面皮が、軋む音が聞こえた気がした。


「てめえはどうするんだ」


 呼ばれて、束の目が洋平に向けられていることに気付く。


「ミッドウェー海戦に勝っちまったから歴史が変わって、未来の知識が役に立たなくなったんだろう? 海軍、辞めんのか」


 洋平は、すぐには答えず、未だに騒乱が続いている甘味処の方を見た。

 誰も食べてくれないことに腹を立てた五十子が、自ら味わって「うーん、甘い!」と言っている。

 寿子が他の海軍乙女達に防毒面の着用を呼び掛けている。

 洋平は首を横に振った。


「それも考えましたが……辞めませんよ。五十子さんを守るのが、僕がこの世界にいる意味なんだって、今はそう思えるんです」


 束が片頬を吊り上げた。


「はあい、もうおしまい! 写真屋さんが来ましたよお! 長官はその化学兵器をどっかへしまって下さい! 全員集合!」


 寿子の呼び掛けに、多恵が甘味処に走っていき、洋平と束だけになる。

 そういえば、全員で記念撮影をするって言ってたな。


「あ、そこ、井上さん! 山本長官の手握ろうとするのやめて下さい! 南雲さんと草鹿さんは、せめて今だけは抱き合うの自重して下さい! 黒島参謀、寝ないで! あれ、宇垣さんと未来人さんはどこいったんですかあ!」


 仕方なく中に入ろうとした洋平の襟首を、後ろから誰かが乱暴に引っ掴んだ。

 誰か、といってもここには束しかいない。


「ちょっ痛いです。というか束さんも早く……」

「てめえにはミッドウェーで借りができた。この作品のサブタイトル、てめえに付ける権利をやろう」


 そう言って束がずいっと突き出してきたのは、以前彼女がこの戦争が終わったら出版社に応募するといっていた本、「戦いで海の藻屑と消える覚悟をした女達の記録」、略して「藻女録もじょろく」だ。


「タイトルがだせえとてめえに言われてから長いこと考えたが、やっぱりタイトルは変えられねえ。そこで、出版社が食いつくようなサブタイトルをてめえに付けてもらうことにした」

「いや、そんな、僕なんかに言われても……」

「それで貸し借り無しだっつってんだろ! いいから早く書け!」


 自分なんかが決めていいのかと迷う素振りはしたものの、いざ決めるとなると、そんなに迷わなかったように思う。

 ペンを借りて、彼女のタイトルの横に小さく。

 「山本五十子の決断」と書き加えた。





「皆さん、手に乾杯用のラムネは持ちましたかあ? もう撮りますよお!」

「あ、洋平君いた! こっちこっち!」


 元の世界の集合写真ではいつも端っこが指定席だったのに、五十子に強引に捕まってしまった。


「やっぱりセンターは山本長官と、ミッドウェー海戦の裏の功労者で!」


 寿子達も適当なことを言って囃し立てる。

 勘弁してくれと思ったが、直後、五十子を見て洋平はどうでもよくなった。

 五十子。

 弾けるような五十子の笑顔、それは嬉しくて、眩しくて。

 洋平は誓う。

 夢、希望、これから生きていくあらゆる喜びのために。

 2人で、戦争を終わらせようと。





(山本五十子の決断 完)

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