第43話 聴こえるよ、きみの音
甘い物は嫌いだ。
今も鮮明に思い出せる、アナポリスの学食。
長テーブルの隅にぽつんと座り、彼女は自分のコーヒーカップに延々と角砂糖を落とし続けていた。
周りを歩く生徒達の間から、くすくすと嫌な笑いが漏れる。
「ねえ見てあれ。砂糖をあんなに」
「葦原海軍の留学生でしょう? やっぱりサルは野蛮ね」
「学校も何を考えているのかしら。劣等人種にアナポリスの敷居をまたがせるだなんて」
「行きましょう、ニミッツさん」
「……皆さんは先に食べていて下さい」
驚くクラスメート達をよそに、セシリアは彼女のテーブルに足を運んだ。
近付くとまず、卓上に置かれた縦横9マスのゲーム盤に目が留まる。
葦原のショウギだ。チェスではとった駒は殺されるのに対して、ショウギでは敵の駒を自分の味方にできるという。
いかにも内戦しか起こらない島国で発達しそうなゲームだと、セシリアは批判的な感想を抱いた。
それにしても。
「……貴女、コーヒーに砂糖を入れ過ぎでは?」
後で聞いた話では、彼女に話しかけたのは自分が最初だったらしい。
葦原の留学生は、リボンの髪飾りのついた頭をゆっくり持ち上げた。セシリアと目を合わせる。
「仮想敵国の物資を、少しでも使ってやろうと思ってね」
流暢なブリトン語だった。
その言葉よりも彼女の瞳に宿る力に気圧されて、セシリアは気付いたら1歩後退っていた。
だが、彼女はすぐに相好を崩した。
「えへへ、なーんちゃって。冗談だよ」
「……」
「凄い国だね~、ヴィンランドって! お砂糖もお塩も、わたしの国では貴重品なのにこの国ではタダ同然。正直、ヴィンランドだけは敵に回したくないなあ」
何と答えたらいいのか、返事に困っていると。彼女は本当に邪気の無い笑顔で、手を差し伸べてきたのだ。
「わたしは山本五十子! あなたの名前は?」
「私は――」
「ニミッツ提督。最新の敵情報告がまとまりました」
情報参謀のミリーナ・レイトンが入室してきた。
セシリアは顔を上げる。
「敵の正規空母は5隻以上、加えて北方より空母2隻。また敵戦艦はヤマトの他に最低10隻。葦原海軍はこの海域に全戦力を投入しています」
「こちらの損害は」
「我が軍は空母ヨークタウン、ホーネット、重巡ポートランドが沈没。……なおホーネットのミッチャー少将は、戦死されたとのことです」
「そう」
セシリアは何事も無かったかのように、チェス盤に目を落とした。
「エンタープライズのレナ・スプルアンスに、残存艦隊をまとめて引き上げるよう命じなさい」
「提督。第1任務部隊より、夜戦を敢行し空母の弔い合戦がしたいと……」
「第1任務部隊も撤収させなさい。ミッドウェーでの勝敗は決しました」
ミリーナは一礼して退室した。
セシリアはチェス盤の横に手を伸ばし、置かれたドーナツを一かじりする。
「……やっぱり私には甘過ぎます、イソコ」
先頭の敵重巡が轟沈し、空に真っ黒な塵芥を噴き上げた。
長門率いる戦艦部隊は、残る重巡1隻との砲撃戦に移行する。
成実は手信号で戦闘機隊を集合させ、敵駆逐艦に向かっていく。沈めることはできなくても、機銃掃射で魚雷発射管の破壊を試みるつもりだろう。
「ははっ、どうだい! これが帝政葦原海軍の真の力さ!」
操縦席の草鹿峰は誇らしげだ。
「さあ、ボク達も行こうじゃないか」
「待って下さい!」
草鹿が十三試艦爆の機首を敵艦隊に向けようとするのを、洋平は止めた。
振り返った彼女の理由を問い質す目に、いつものように即答できない。
――五十子から離れたくない。
この状況で洋平の胸に宿ったのは、何故だかそんな感情だった。
急降下爆撃の際に見張員を退避させたのか、大和の防空指揮所に立っているのは五十子一人だ。
早く五十子の身が安全にならないと、心が落ち着かない。
「……空に、ちぎれ雲が出始めました。敵の攻撃隊の生き残りが、まだどこかにいるかも……」
後付けの理由を説明しようとした、その時だった。
視界の隅、白い断雲の1つに、洋平は不穏な影を認める。
振り向いた瞬間、雲を突き抜け敵機が現れた。
ドーントレス!
「草鹿さん、割り込んでっっっ!」
「姉御の仇ぃぃぃ!」
ロディーが投下した爆弾は、第二主砲の天蓋に命中した。引き起こさず、そのまま巨大な戦艦の艦橋へ照準を合わせる。
刹那、目の前を葦原新型機のプロペラが踊った。
衝突ぎりぎりの超至近距離。
後席の搭乗員が機銃をロディーに旋回させ、血走った目を見開いていた。
マズルフラッシュ。激しい被弾にドーントレスが震え――1発の7・7ミリ弾が、ロディーの心臓を貫く。
だがロディーの手は、既に引き金を引いていた。
ロディー機の前部機銃弾が十三試艦爆と、大和の艦橋に降り注ぐ。測距儀はレンズを割られ、照準指揮装置のラッタルが吹き飛ぶ。
機銃掃射は、防空指揮所にも無数の弾痕を穿った。
一瞬の出来事だった。
ロディー機は黒煙を吐きながら海面に激突し、砕け散った。
五十子が倒れるのが見えた。頭の周りに、赤いものが拡がっていた。
「油圧低下! 脱出するぞ!」
どこか遠くで草鹿が叫んでいる。だが、洋平の頭には届かない。
一瞬だった。虫は知らせていたのに。あまりにも急過ぎた。
「急げ! 機体が海に墜ちる!」
十三試艦爆が高度を落としていく。
草鹿が落下傘を背に、「先に行くぞ!」と飛び降りる。
草鹿は生き延びることに懸命だ。当然だ、彼女には、帰って守りたいひとがいる。
洋平には、もういない。
五十子が死んだ。
守れなかった。救えなかった。それどころか、史実より1年も早く死なせてしまった。洋平のせいで。
機体が海面に触れ、大きくバウンドする。翼がしなったと思うと、ばらばらになる。残った胴体も、急速に海中へ没していく。
今度こそ、本当に死ぬ。それで良いと思った。
思えば自分は、元の世界でも大切なものを何一つ守れなかった。この世界でも同じだっただけだ。
海水と一緒に、あの憂鬱でどうしようもない感覚が洋平を浸していく。
早く溺れたい。そう思いながら洋平は、海中から空を見上げた。
口から大量の気泡が吐き出され、海面の太陽へ上がっていく。
その太陽が、大きく揺らめいた。
――人の影?
上から伸ばされた手に、腕を掴まれる。
唇に柔らかな感触。新鮮な空気が送り込まれてくる。
身体が力強く海面へと引き上げられる。
これは……
「何度だって助けるよ!」
この声は。
「……五十子……さん……?」
きらきらと輝く大きな瞳。
人懐っこい笑顔。
五十子だ。他の誰でもない、山本五十子だ。
でも五十子は、確かにさっき。
「……五十子さん……僕達は、死んだの……?」
混乱した思考の末に、洋平はそんな言葉を呟く。
五十子は首を横に振る。水滴が光を弾いた。
「生きてるよ。だって、ほら」
五十子は、洋平を抱き締める。
「聴こえるよ、洋平君の音。どくんどくん、って」
胸に寄せられた、五十子の頭。
海水を吸ってぐっしょり濡れた、赤いリボンの髪飾り。
そうか、あの赤はリボンだったのか。色、元に戻してたんだ。
「……洋平君も、聴いてみて」
「え……」
今度は洋平の頭が、五十子の胸に押し当てられる。
不思議だった。
戦闘は終わっていない。遠くではまだ砲声と爆音が轟いているのに、今この場所は、こんなにも静かで。
揺れる波の音。海面を吹く風の音。そしてゆったりと優しい、五十子の鼓動。
「……ああ、聴こえる。五十子さんの音」
五十子が生きている。
「洋平君……泣いてるの?」
五十子の姿が滲んだ。
海水とは違う塩辛いものが溢れ、止まらなかった。
大和から内火艇が近付いてくる。
この数時間後、ミッドウェー基地守備隊は葦原軍に降伏した。
ミッドウェー海戦は、幕を閉じた。
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