第35話 敵機直上、急降下!
〈こちらVT-3、マッセイ少佐は戦死! VT-3は壊滅状態、以後はVT-6の指揮下に……〉
〈被弾した! 制御不能! 制御不能!〉
〈もう無理だよ! 魚雷を捨てて逃げよう、みんな死んじゃうよ!〉
〈最後まで戦うんだ! 私達の手で何としてもアカギを……う、うわあああ!〉
〈ワイルドキャットはどこ! 味方の戦闘機隊はいつになったら来るの! ねえ誰か!〉
〈駄目だ、こっちもゼロに回り込まれた!〉
〈ブレイク! ブレイク!〉
〈速い、後ろに付かれた、嫌だ、助けて、助け……〉
高度20000フィート。
どこまでも澄み切った青の世界で、死にゆく者達の声をクリスは聞いていた。
機体の下方に薄く広がる層雲の切れ目。はるかに見下ろす海面には無数の波紋が広がり、小さな水柱が上がっている。
エンタープライズとヨークタウンを発進したTBD雷撃機の、なれの果てだった。
〈マクラスキー司令……クリス、聞こえますか〉
無線機が最後に拾ったのはエンタープライズ雷撃隊の隊長、リンゼイ・スミス少佐の声だった。
〈雷撃隊はここまでのようです。クリス達にどうか、神のご加護が……〉
銃声と金属の破砕音が響き、通信はそこで途絶した。
後部座席で、機銃手のアリスティアが嗚咽を漏らしている。
隣からは副隊長を務めるマーガレットの4番機が、突入を求めるバンクをもう何度も振ってきていた。
しかしクリスは動かない。
その視線は林立する水柱の中央、海面に複雑な航跡を描き回避運動を続ける敵空母アカギに向けられている。
アカギの直上にたなびいた層雲を隠れ蓑にし、クリスはエンタープライズ爆撃機隊30機のSBDドーントレスを率いて、その時が訪れるのをじっと待っていた。
リンゼイ・スミスはペンサコラ海軍航空学校の同期で、クリスにとって数少ない友人と呼べる存在だった。休暇の時に実家の農場に招待され、彼女の母親のミートパイをご馳走になったこともある。雷撃隊の他の搭乗員達も、同じ艦で長く苦楽を共にした部下であり仲間だ。その彼女達が魚雷を一発も命中させられないままゼロファイターに嬲り殺される光景を、クリスは傍観し続けた。
悲しさも悔しさも怒りも、今は何も感じない。
自分達の帰りの燃料が無くなりつつあることさえ、どうでも良かった。
チャンスはただ一度きり。必中の距離と角度で、30発の500ポンド爆弾をあの空母に送り届ける。頭にあるのは、それだけだった。
PBY飛行艇からの事前の報告通り、この海域に敵の空母はアカギ1隻しか見つからなかった。そのたった1隻に、ヴィンランド屈指の雷撃隊が駆逐されかけている。
ゼロファイターの機動力と火力が圧倒的なだけではない。アカギの回避能力もまた卓越したものであることを、クリスは認めざるを得なかった。
先行したミッドウェー基地航空隊も合わせれば、アカギに対し雷撃を試みた友軍機の数は優に40機近くにのぼるはずだ。これが図上演習であれば、魚雷の数発はとっくに命中していなければおかしい。
だが、全方位から放たれる魚雷を、あの空母を操艦する葦原人は悪魔の仕業としか思えない回避運動でかわし続けた。旗艦空母は伊達ではないということか。
「アカギ」という葦原語はブリトン語で「赤い城」という意味だと部下達が噂しているのを、前に耳にしたことがある。邪悪な結界に守られた魔王の城を思わせる不吉な空母の名は、開戦以来のナグモ機動部隊の連戦連勝によってヴィンランドの兵士達に強い畏怖を刻んできた。
しかし、普段は常に他の空母を従え分厚い直掩に守られた魔王の城が、今は犠牲を払えば手の届くところにある。
敵の防空の要であるゼロファイターは、優秀な戦闘機だが化け物ではない。燃料も弾薬も限りがあり、操縦しているのは人間だ。波状攻撃を受ければ、必ず隙が生じる。
だからクリスは、空中集合を待たずに攻撃隊を小出しに出撃させるというレナ・スプルアンスの方針に黙って従ったのだ。クリスは少佐に過ぎないが、エンタープライズの全艦載機とその搭乗員の長として、航空戦の
クリスは、ホーネット攻撃隊の発艦を恐らくはわざと遅らせたメイベル・ミッチャー少将と自分が、同類の人間だという自覚を持っていた。
わざと先に行かせた仲間を生贄にしてでも、満腹になり動きの鈍った獲物を確実に仕留めようとする外道のハンター。
散り散りになって逃げだしたエンタープライズ雷撃隊の生き残りに対し、ゼロファイターが容赦の無い掃討戦を始めていた。
隊長機を失い完全に戦意を喪失した彼女達を執拗に追い、大口径機銃の斉射を浴びせる。翼をもぎ取られたTBDの胴体が膨れ上がったかと思うと、暗褐色の爆炎となって散華する。
他のTBDが、魚雷を海に捨てるのが見えた。いずれは追いつかれる無駄な足掻きだが、その無駄な足掻きが稼いでくれる僅かな時間が、今のクリスにとってこの上なく貴重だった。
ひどく長い数秒間の後。
全てのゼロファイターが追撃のためアカギの直上を離れ、低空に降りた。
その瞬間、クリスは操縦桿を思い切り倒す。
待ちかねていた配下の29機が即座に追従する。ぴたりと息の合った動きは、日頃の厳しい訓練の成果だ。それを背中だけで感じながら、蒼穹を斜めに裂いて降下する。
雲に入る。風防が白く霞み、機首が水の粒子を掻き分ける。薄い層雲はすぐに抜けた。これでもう、クリス達30機に身を隠すものは無い。
高度15000フィート。
急降下爆撃は、艦船などの移動目標に対する命中率を高めるための爆撃方法だ。
どれだけ深い降下角で突入できるか、引き起こし時の海面への激突を恐れずどれだけ低高度まで肉薄して爆弾を投下できるかが爆撃の成否を分ける。身体が浮き上がりそうになるのを踏ん張り、全力で操縦桿にのしかかりながら、照準器の先に標的を求め続ける。
高度10000フィート。
照準器を睨み、アカギとの誤差を微修正。突入針路クリア。
降下角60度。先頭のクリスの降下線を辿って、後続機も急降下する。
最も上手いクリスが見本を示し、後続の部下達がそれに倣うことで命中率を高めるやり方だ。
高度8000フィート。
クリスの意識は、SBDドーントレスと一つになる。降下線のイメージが鮮明になり、煙突の無い小さなアカギ艦橋の上に立つ葦原人1人1人の顔まではっきりわかる。見張員の少女達は、まだこちらに気付いていない。
高度6000フィート。
TBDを追い回していたゼロファイターのうち何機かが、慌てて翼を翻す気配がした。
もう遅い。クリスは歯を剥き出しにして、人前では決して見せない獰猛な笑みを浮かべる。
間抜けな衛兵ども、止められるものなら止めてみせろ。今から私が突き立てるこの槍で、お前達の不敗神話を終わらせてやる。
高度3000フィート。
爆撃照準器の十字架のセンターに、アカギの中部エレベーターが入っている。単縦陣で雪崩れ落ちてくる30機のドーントレスに、見張員がようやく気付いて叫び出す。対空砲火が湧き起こらないことに、クリスは少し拍子抜けする。
高度2000フィート。
並みのパイロットならもうとっくに投下して引き起こしに入っている高度だが、クリスはまだ降下をやめない。
腹に抱えた500ポンド爆弾を、より確実に命中させるため。
後少し。
高度1500フィート。
必中距離。
クリスは爆弾投下レバーを引いた。
雷撃を乗り切った赤城防空指揮所は、歓声に沸き返っていた。
見張員の水兵達はハイタッチを交わし、士官クラスは南雲を胴上げしようとして、毛を逆立てた草鹿に通せんぼされている。
お祭り騒ぎの中、洋平は頭上にたなびいている雲と、逃げる敵雷撃機を追って遠ざかる瑞鶴戦闘機隊とを注視していた。
「……このぐらいで十分でしょう。深追いせず赤城の直掩に戻るよう、戦闘機隊に指示を」
全員が静まり返る。草鹿が何か言おうとしたので、洋平はすかさず二の句を告げる。
「敵にはまだ爆撃機隊が残っていることを忘れないで下さい。こちらの直掩隊が雷撃機を掃討するために赤城を離れた隙をついて、急降下爆撃を仕掛けてくるはずです」
「わ、わかった。そう怖い顔をしないでくれ」
洋平の疑い過ぎだったのか気圧されたのかはわからないが、草鹿は反対しなかった。
探照灯が空へ向けられ、瑞鶴戦闘機隊に発光信号が送られる。
直チニ赤城上空ニ引キ返シ、敵ノ急降下爆撃ニ備エ。
洋平は再度、頭上の雲を睨んだ。天候は予報通り晴天へ向かい海域全体の雲量は減る一方なのに、この雲だけはなかなか赤城の上からどこうとしない。
いくつか開いた切れ目から、眩い光の束が海面に降り注いでいる。
今はその眺めを美しいと思う気になれない。洋平は初めて、目前の空に不吉なものを感じていた。
「あれ……戻ってこない」
探照灯を受け持つ水兵の声で、視線を水平に戻した洋平はぎょっとした。
敵機が魚雷を海に捨ててスピードを上げたのに、15機の零戦は追撃をやめようとしない!
「戦闘機隊に繰り返し信号を! 戻るまで続けて下さい!」
水兵が投光・遮光のブラインドを慌ただしく動かす音を聞きながら、洋平は滲んでくる嫌な汗を拭う。
誰も洋平が未来人だと信じていなかった出発前に、このことまで打ち合わせるのは無理だった。
今、赤城の直上はガラ空きだ。
雷撃機の対処で手薄になったところを急降下爆撃を受け、一度に3隻の空母が炎上した史実と運命的に酷似した状況。
瑞鶴戦闘機隊15機を直掩専用にとっておいたのはこの時のためと言っても過言ではないのに、みんな雷撃機を追うのに夢中で信号が見えていないのか。
こんなことは思いたくないが、まさか目先の撃墜数(スコア)に目が眩んで気付かないふりをしてるんじゃ……。
「……まあ、こうなるとは思ったけどね」
不意にそう呟いた草鹿を、洋平は凝視した。
「こうなると思ったって、どういう意味ですか」
思わず口調がきつくなる。
さっき何か言いたげだったが、洋平の戦術に思うところでもあるのか。
「え……いや、本当にわからないのかい?」
草鹿の顔に困惑が浮かんだのを見て、洋平は初めて自分がかなり苛立っていることに気付いて後悔する。草鹿は持って回った言い回しをするタイプの人間ではない。
草鹿は表情を曇らせ、それから、どこか申し訳なさそうに、
「キミが連れて来ると言い出した時から、気になっていたんだ。その……彼女達は五航戦だろう? 珊瑚海海戦で仲間を大勢亡くしたばかりじゃないか。ヴィンランドの機動部隊と会敵して、熱くなるなというのは無理な話だ。兵も人間だからね」
それは、これまで草鹿峰の発してきたどんな言葉よりも将官らしくて、洋平を打ちのめすものだった。
弔い合戦。逃げるTBDデヴァステイターを執拗に追いかけ、機銃弾を浴びせる悪鬼のような零戦の姿が、全く違うものとして見えてくる。
自分はさっき亀子に、何を偉そうに語っていたのか。
珊瑚海海戦で、五航戦は祥鳳を守ることができなかった。翌日にはヴィンランド機動部隊との正面衝突で五航戦自体が艦載機の8割を失い、翔鶴が大破。
あの15機は、その地獄の生き残りだ。
史実では休息と部隊の再編成を優先しミッドウェー海戦に参加しないのを捻じ曲げ、無理やりここへ連れてきたのは他ならぬ洋平だ。
ゲーム感覚は脱したつもりだった。しかしどこかで彼女達のことを都合の良い余剰戦力、15機の零戦とそれを操縦する熟練搭乗員という数字ではかり、人間の
今のこの状況は運命でも何でもない、洋平が招いたものだ。
「発光信号が見え辛いなら、無線はどうだろう。もう敵に見つかっているし無線封止を続ける理由も無い」
落ち込む洋平を、珍しく草鹿が目の前の課題に引き戻してくれる。そうだ、無線なら確実だ。あ、でも……。
「さっきの攻撃で、送信用の空中アンテナが切られましたよね。受信はできても送信は無理じゃないですか」
「ん? そうか……なら金剛に発光信号を送って、金剛から代わりに無線を打って貰えば」
「それだ!」
だがその時には、もう遅かったのだ。
洋平が草鹿と話している間も監視を続けていた見張員の1人が、悲鳴を上げる。
「敵機直上! 急降下ぁぁぁ!」
今度ばかりは運命的だった。
敵機直上、急降下。馴染み深い滅びの呪文。
弾かれたように空を仰いだ洋平の肉眼では、3機ほどの青灰色の敵機が逆落としで降ってくるのを追うのが精一杯だった。後続はもっと多いだろう。
SBDドーントレス。
「面舵いっぱい! 右舷停止、左舷前進いっぱぁい!」
最も迅速に対応したのは、南雲だった。だがその直後、蒼白な顔で振り返り、
「ごめんなさい、避け切れないですぅ! 皆さん伏せて下さいぃ!」
「汐里さん!」
将兵達が防弾板に隠れる中、草鹿が身を投げ出して南雲に覆い被さった。純白のマントが、床一面に広がる。
「峰ちゃん」
庇われた南雲は半身を起こし、草鹿を抱き締めた。
それはまるで、映画のワンシーンのようで。
「……まだ終わりません!」
洋平はラッタルを駆け下りる。
これからやることに、成功する保証は全く無い。
洋平が乗り込んでから、ミッドウェー作戦のために赤城が柱島泊地を発つまで一月未満。
艦をドック入りさせる時間は無く、本格的な工事はできなかった。
そもそも洋平は、こういったことの専門家でも何でもない。
できたのは、海軍工廠の技術者に洋平のアイデアを伝えて、後はこの時代の技術とありあわせの材料で応急措置を施して貰っただけだ。仕掛けがきちんと機能するかも、期待通りの効果が得られるかもわからない。
それでも、やるしかない。これが残された最後の手段だ。
暗い羅針艦橋に入ると、一気に気温が数度下がったように感じられた。
掲げられた「ダメージコントロールセンター」の看板の下。
コードだらけの不格好な機械を囲む椅子に数人のダメコン要員が腰掛け、卓上の艦内電話でどこかと通話している。
今からで間に合うだろうか、やっぱり自分がここへ詰めておくんだった……しても仕方の無い後悔を振り払うように、洋平は声を張り上げた。
「急降下爆撃です、今すぐ設備を起動させて下さい! 退避指令の放送を行ってから区画ごとの防火扉の閉鎖! その後ボンベの開放を……」
「……うるさい」
緊張感の欠片も無い、くぐもった声に遮られた。
明滅する消火設備制御盤のランプにぼんやり照らされた、寝癖でぐしゃぐしゃの頭がゆっくりとこちらを振り返る。
「亀子さん!」
「……もう始めてる」
一度は寝落ちしたのだろう。頬にはコンソールの跡がくっきりついていたけれど。
当たり前のように席につき、他の少女達を監督している亀子に洋平は驚きを隠せない。
「どうして……その機械、仕組みとかわかるの?」
「……さっき、マニュアルを読んだ」
眠そうな天才はそれだけ言うと、コンソールに向き直った。
頭上からはもう、不気味な爆音が響き始めていた。
対空砲火が沈黙している分、艦橋の中にいてもはっきり聞こえる。
ドーントレスが降りてくる。この艦を葬るために。
鍛鋼の弾頭は無装甲の飛行甲板を容易に貫ける強度であり、内部の炸薬は格納庫を焼き尽くすに十分な量だろう。
しかし。
「飛行甲板、全航空燃料ポンプの閉塞完了!」
「上部格納甲板前方、中央、及び後方の防火扉、閉鎖完了しました!」
「中部格納甲板、爆弾庫及び魚雷庫の閉鎖完了!」
「上部・中部格納甲板の航空燃料ポンプ全て閉塞完了、軽質油庫の閉鎖完了!」
「揚弾機構の停止及び閉塞確認。前方及び後方揚弾筒の安全点検全て完了!」
「防火要員の上部格納甲板からの退避完了、一般乗組員の喫水線下への退避もう間もなく完了します!」
ダメコン要員の報告の声が重なる。
亀子は頷くと、相変わらず何の迫力も無い、今にも寝そうな声で命じた。
「……上部格納甲板に、炭酸ガス注入開始」
「了解! 前方、注入開始して下さい!」「中央、注入開始!」「後方、注入開始!」
これでやれることは、全てやった。
洋平は天井を睨み上げる。
あの日横須賀で聞いたのと同じ、爆弾投下の音が聞こえる。
空気を引き裂く、魔女の口笛のようなおぞましい響き。
それが聞こえなくなった直後。
初めての被弾の衝撃が、赤城艦橋を揺さぶった。
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