第28話 十字輪形陣
洋平の着任後、赤城の羅針艦橋には「ダメージコントロールセンター」の看板が掲げられた。
中央には応急監視制御盤が設置されている。
海軍工廠から技術者を呼んで有り物の機材から組み立てて貰った、艦内の火災報知受信や防火設備の遠隔操作が一箇所でまとめて行えるコンソールだ。
急ごしらえの間に合わせなので、洗練されているとは言い難い。ただでさえ狭かった羅針艦橋はかさばる機械と縦横無尽に床を這い回るコード、それに常時待機するダメコン要員でいっぱいになり、艦隊司令部の面々は艦橋屋上の防空指揮所に身を寄せ合うことになった。
その防空指揮所に、1人の招かれざる客が引っ立てられていた。
「今すぐに降りてくれ」
洋平は険しい顔と口調で、もう何度目になるかわからない台詞を繰り返した。
「……嫌」
辛うじて聞き取れるレベルの、くぐもった返事。
黒島亀子は発見された時と同じ箱に依然納まったまま、自身と一緒に持ち込んだ例のウミガメ型クッションに顔をうずめている。
「嫌じゃない、大和に戻るんだ」
「……」
「寝るな! 亀子さんはこの作戦全体の立案者じゃないか、寿子さん困ってたぞ!」
業を煮やした洋平は、ウミガメを取り上げようと箱に手を突っ込み……途中でぐっと掴まれる。全く予想していなかった抵抗に、洋平はつんのめってもう少しで頭から箱にダイブしかけた。
「……あなたに、興味がある」
「へ?」
「あなたは、この作戦の最大のイレギュラー。あなたを監視したい」
亀子は寝ていなかった。深海魚のような目が、箱の中からこっちを見上げている。
洋平は一瞬気圧されかけたが、奥歯を噛み合わせて首を左右に振った。
「駄目だ。頼む、降りてくれ。亀子さんは今も、この先も、連合艦隊司令部に必要な存在なんだ」
言ってから、余計なことを言ってしまったともう一回首を振る。そんな洋平のことを亀子は暫く無言で眺めてから、もふもふしたウミガメ型クッションに顔を戻した。
「……あなたの指図は受けない」
「何で」
「……何故なら、あなたは中佐相当で私は大佐だから」
完全に忘れていた。
だがそっちがそういう論法で来るなら、こっちにも考えがある。
さっきから洋平達の後ろで不機嫌そうに腰に手を当てている、ボーイッシュな海軍乙女の方を振り返る。
「草鹿参謀長って少将ですよね。退艦するよう命令してくれませんか」
「ほう、命令してくれ? ボクとしては黒島大佐も嫌だけどそれより海軍乙女ですらないキミに真っ先に降りて欲しいところを
「あー……やっぱ命令しなくていいです」
臥薪嘗胆って何だよ。いや、意味知ってるけど。そのうち復讐でもされるんだろうか。
仕方なく洋平は草鹿のさらに後ろ、この艦で最高位の人物の方にちらりと目をやって、瞬時に後悔した。
「ひいぃ! 峰ちゃん、こっち見てるよぅ!」
「おい占い師君! 汐里さんを怖がらせるな!」
男性恐怖症もここまでくるといじめに近い。うんざりして顔を背けた洋平の隣で、箱がごとりと動いた。亀子が唐突に起き上がってむくむくと箱から這い出ると、怯える南雲に無遠慮に近付く。
「……南雲長官」
「ひゃ、ひゃいぃ!」
「お世話になります」
寝癖だらけの頭をぺこりと下げる。
洋平を含め、全員が呆気にとられた。
水底から聞こえてくるような不明瞭な物言いは相変わらずだったが、あの黒島亀子が、敬語を使っただと?
「こっ、こちらこそ、お、お世話になるますぅ!」
「……汐里さんが構わないなら、ボクから言うことは何もないな」
南雲があたふたとお辞儀し草鹿も肩をすくめ、乗艦が既成事実化していく。
洋平はそれでもなお亀子を降ろしたかったが、その時見張員からの報告が入った。
「見えてきました! 三戦一小隊の
洋平も首から下げていた双眼鏡を当て、ピントを合わせた。
第一航空艦隊は既に豊後水道を抜け、外洋に出ている。
東の海上に
洋平の知る歴史で瑞鶴は、ミッドウェー海戦に参加していない。前の珊瑚海海戦で多数の艦載機、特に艦爆と艦攻を失い戦力外とみなされたためだ。
だが今、あの空母には珊瑚海海戦を生き延びた瑞鶴戦闘機隊の零戦15機が搭載されている。機体だけなら他からでも調達できたかもしれないが、実戦経験のあるパイロットは貴重な存在だ。この15機は攻撃には加わらせず、艦隊直掩に専念して貰うことになっている。
また金剛と比叡も、本来なら南雲機動部隊でなく後続のミッドウェー攻略部隊に組み込まれるはずだった。
金剛型は最大速力30ノットという俊足で機動部隊に随伴できる高速戦艦だ。
出撃直前の慌ただしさに乗じ、洋平が連絡役の立場を最大限濫用して追加した戦力。
これで一航艦は空母5隻、金剛型戦艦については元からいた
南雲機動部隊は史実のレールを確かに外れたのだ。
だがそれを、わざわざ密航までして監視に来た作戦立案者が黙って見過ごすはずがない。
「……源葉参謀、何のつもり」
亀子の顔を見るのが怖くて振り返れない。声からは感情の起伏が読み取れないが、十中八九、自分が立てた作戦を勝手に改変されて怒っているに違いない。しかもこれはまだ改変の序の口だ。
「後できちんと説明する。……草鹿参謀長、打ち合わせ通りよろしくお願いします」
草鹿は眉間に
「全艦に下令、十字輪形陣!」
赤城より発光信号が出されてから数十分かけて、艦隊は新しい陣形に移行した。
まず瑞鶴の縦横を、進行方向から時計回りに金剛、比叡、榛名、霧島が囲む。
金剛型4隻の延長線上に、残りの空母4隻が繋がる。
上空から俯瞰すれば十字架のように見えるであろうことから、洋平によって「十字輪形陣」と名付けられた陣形だ。
瑞鶴を中心にした十字架の先端には赤城、左右に加賀と蒼龍、しんがりが飛龍。
各空母にはそれぞれ3隻の巡洋艦または駆逐艦が護衛についている。
「続いて、散開!」
草鹿の号令で、今度は外側の空母4隻が中心の瑞鶴から距離を取り始めた。
先頭を行く赤城も速力を上げ、やがて後方に見える物は金剛の艦橋だけになった。その艦橋がチカチカ瞬く。
サーチライトの投光・遮光を利用したモールス信号は、無線封止中の艦隊の最も手頃な通信手段だ。
「金剛より、飛龍・楠木司令官からの信号を転送! え、『ヤキトリガ恋シイ』……? い、以上です!」
「焼き鳥だって? 全くあの食いしん坊ときたら、作戦前だというのに緊張感がまるで無い」
草鹿達が呆れる中、洋平だけは顔を綻ばせた。
二航戦司令官の楠木多恵とは出撃前に話すことはできなかったが、今のは恐らく、この中で唯一意味のわかる洋平に向けた多恵からの挨拶だ。
「成功ですね。艦橋の高い戦艦を間に挟めば、こうして空母を分散させても素早く連絡を取り合えることが実証されました。確かに受信した旨、飛龍の楠木司令官宛に返信して下さい」
赤城からも、防空指揮所に据え付けられた60センチ信号探照灯のブラインドをレバーでがしゃがしゃと開閉させて、視認できる金剛に向け信号を送る。受け取った金剛は後方の空母瑞鶴へ、瑞鶴はそのさらに後方の戦艦榛名へとリレーして、しんがりの飛龍へと届く仕組みだ。
電探が実用化される以前の戦艦の艦橋は、より遠くの敵艦を発見し照準し弾着観測するために高く高く進化していった。洋平の知る歴史ではサマール沖海戦で大和と長門が、35キロメートル離れた米護衛空母群を発見。金剛型の場合でも艦橋の光学観測可能距離は概ね24キロと言われている。
つまり、金剛型に中継させれば味方空母同士の距離を48キロ取っても艦隊行動に支障は無いということだ。
「……これが、金剛型を4隻に増やした理由?」
隣で防弾板に爪先立ちしていた亀子が訊ねてくる。よくわからないが、心配したほど怒ってなさそうだなと安堵しつつ、洋平は頷く。
「そうだよ。艦隊としての指揮系統を維持し攻撃力の集中も可能なまま、防御上の弱点である空母は散開させる。48キロあれば、敵の爆撃機が最高速度で飛んだとしても7分はかかる。つまり発見されても、全ての空母が一度に損害を被るリスクは低くなる」
全滅は免れる、という言葉が喉元まで出かけたのを抑える。いや、仮に言っていたとしても誰にも聞かれなかっただろう。先ほどから歯をぎりぎりいわせていた草鹿が、ついに激発したからだ。
「こっちの攻撃隊が空中集合するのも、それだけ遅れるってことじゃないかっ! もう限界だ、これ本当に山本長官の意向なのか? 今までの集団運用と比べてあらゆる面で非効率だし、大体敵襲ばかり恐れてこんなみっともない陣形を思いつく精神が不健全だ!」
また始まった。五十子の意向云々は完全に捏造なので、そこは聞かなかったことにしつつ、
「不健全? じゃあ言わせてもらいますが、奇襲するのはそもそも健全なんですか」
正々堂々と信号弾でも打ち上げて、よーいドンで攻めたら良いんじゃないか。
「そういうことを言ってるんじゃない! これではまるでボク達が、上空で艦隊の盾となってくれる搭乗員の技量を信じられないと言ってるも同然じゃないか!」
「我々の仕事はパイロットの技量を盲信することではなく、彼女達が帰る母艦を守るためにベストを尽くすことです。草鹿さんの言う通りにして沈んだ祥鳳のパイロット達はどうなりました!」
紅潮していた草鹿の顔がみるみる蒼褪めていくのを見て、言葉が過ぎたことに気付く。軍刀で斬られるかもと思った時、口を開いたのは意外な人物だった。
「あ、あのぅ……」
ショートボブの少女に、全員の注目が集まる。
挙げた手はぷるぷる震えていたし、草鹿の背中に身を隠しながらではあったが。南雲汐里が洋平に話しかけるのは、多分これが初めてだった。
「空のことはよくわからないけど……」と機動部隊指揮官にあるまじき前置きをしてから、
「護衛の艦も分散しちゃってて……対潜や、対水上警戒が心配ですぅ」
言われたことが至極まっとうだったので、洋平は思わず南雲を二度見してしまった。
「ひうっ!」
「あ……いや、すみません。南雲長官のおっしゃる通りです。ただ、僕の知っているミッドウェー海戦では、敵は航空攻撃しか仕掛けてきません。今はそれに賭けるしかないと思っています」
「キミの占いなんて、信じないぞ」
草鹿が唸るように言うと、南雲を洋平から引き離した。
「あ、峰ちゃん……」
「行こう汐里さん、こんな男と話していたら敗北主義が伝染る!」
草鹿に手をひかれ、南雲は時折こっちを振り返りつつも防空指揮所を去って行った。
「……南雲汐里。兵学校卒業席次第5位、学術優等章を受章。水雷術に抜群の技能を有する」
ただし航空戦指揮に難あり。
亀子が機械的に列挙したプロフィールに、洋平は返事の代わりに溜め息で応じた。
散開の訓練を終えて赤城が減速し、金剛や他の艦の姿が徐々に大きくなってくる。既に作戦は始まっているのだ。今更誰が良いの悪いのと言ったところで始まらない。
船尾が残す白波を眺めていると急に、足元に踏み締める物が無くなったかのようなうすら寒い感覚に襲われた。
これは、孤独だ。
元いた世界では慣れっこだった感覚。それがこの世界に来てからはほとんど感じずにやってこられたのは、間違いなく五十子がいたおかげだ。
でもその間も五十子は恐らく、ずっと孤独だったのではないか。今の洋平のこの空虚さが、五十子のずっと感じてきた――
「占いなら、まだ救いがあったのに」
「……?」
一瞬、話の脈絡がわからなかった。振り返ると、小柄な先任参謀の険しい視線が突き刺さる。
……やはりというか、当然の如くお怒りだった。
「ごっごめん亀子さん! 亀子さんの作戦を勝手に変えたことは悪かったって思ってる。後、別にこのことを隠しておきたかったから亀子さんに赤城を降りてって言ったわけじゃ……」
「可哀想。未来の情報とやらは必要無いと言ったはず」
ぴしゃりと遮られる。辛辣な言葉と共に、6月になったとは思えないほど冷たい風が吹き付けて、肌のあちこちがピリピリと痛んだ。
「こちらの布陣を変えれば敵の対処だって変わる。例えあなたが本当に未来を知っていようと、それで思いつくことがこの程度の小細工なら、効果は限定的。むしろ混乱を招くだけ」
「え? いや、僕が考えた策は陣形だけじゃないよ。今はまだ言えないけど……」
「言えない? ……ひとには『ほうれんそう』とか注意しておいて。頭脳が鳥並み、可哀想!」
そんな話もしたような。まずい、これは相当根に持ってる。
「どうしても今は言えない事情があるんだ。本当に、後できちんと説明するから」
必死に弁明する洋平を、亀子は冷たく睨んでいた。
だがその声が、不意に熱を帯びる。
「……私達参謀の仕事は。山本長官の信念を、作戦という形に置き換えること。山本長官の願いを、かなえること」
そうだった。
五十子を救うと決めて、一緒に背負うと決めて、自分の意思で赤城に乗り込んでからは気負い過ぎて、周りが見えなくなりかけていた。
ここにも、五十子のことを心から想ってくれている頼もしい仲間がいる。
「ちなみに、私の作戦計画はいつだって完璧」
「あ、はい」
「ただ、ハワイ攻略という最終目標のため、戦果は少しでも上積みしたい。それが長官の望みでもある。だから、あなたのやる小細工に僅かなりとも戦術的価値があるのなら、今回だけは目を
「え……」
それってつまり、洋平がミッドウェー作戦に介入することを認めてくれるってことか。
「もし作戦が失敗したら、全てあなたのせいにするから」
「は? いや待って、その理屈はおかしい!」
亀子があくびをして例の木箱に戻ろうとするのを無理やり押し留めながら、そういえば亀子の寝室をどうするか決めていなかったことを思い出す。
一部屋だけだった士官室の空き部屋は洋平が使ってしまっているし……南雲と草鹿の部屋に引き取ってもらうかな。ダブルベッドどかして広くなったらしいし「あなたを監視するのだから、当然あなたの部屋」「駄目に決まってるだろ!」
その時、自分はどんな顔をしていただろうか。五十子のようには、たぶん笑えていなかった。
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