第29話 わたしは、洋平君を信じるよ


――ねえ、お姉ちゃん! へいがっこうって、なあに? しけんにごうかくすると、かいぐんおとめになれるの? わあ、すごいなあ!


――いそこが大きくなったら? いそこはね、おかし屋さんになるんだ! それでね、お姉ちゃんのお船に、おかしいーっぱいとどけてあげる! だからがんばってね、お姉ちゃん!


――お姉ちゃん、ねつ、まださがらない? だいじょうぶ、きっとおべんきょうのしすぎだよ!


――お姉ちゃん、水まんじゅうだよ! 甘くて冷たくて、おいしいよ! いそこのおまんじゅう、食べずにとっておいたんだ。これ食べたら、明日はきっとお布団から出られるようになるよ!


――お姉ちゃん、いそこがお歌をうたってあげる! 村のかじ屋! いそこ、おべんきょうはにがてなんだけど、歌はじょうずだねって先生からほめられて、それでね、それでね……あれ……お姉ちゃん? ……お姉ちゃん、ねちゃったの?





――父上、母上。どうかご安心下さい。五十子が姉の代わりになります。家名に恥じぬ立派な海軍乙女になって、お国に尽くします。だから――







 五十子を作戦室の長椅子に寝かせて毛布をかけ、人払いを済ませると、寿子は傍らに腰掛けた。

 幸い、五十子は脈拍・呼吸ともに安定していた。何も知らなければ、疲れて眠っているだけのようにしか見えない。……いや、実際眠っているだけなのだ。

 寿子は出撃前からたまっていた書類を整理し、舷窓から射し込む光がオレンジ色に変わる頃、紅茶を淹れようと立ち上がった。五十子の意識がいつ戻るのかはわからなかったが、まず自分が落ち着いておきたかった。

 部屋の隅に備え付けられた電気湯沸かし器に向かおうとした時、五十子の目蓋がうっすらと開いているのに気付いた。


「長官っ」


 長椅子に駆け寄る。毛布にくるまったままの五十子は、ぼんやりした目でこちらを捉え、


「むにゃ……おねえ、ちゃん?」


 寝惚けているだと! 寿子に電流走る。落ち着けクールになれ。よくよく冷静に考えてみれば今この部屋には自分しかいないではないか。そして目の前では、憧れの上官が起き抜けの無防備な状態。これは天佑だ。天佑を確信し全軍突撃せよ。


「ぐえっへっへ、そうですよお、イソコのお姉ちゃんですよお」

「……あ。ヤスちゃんだ」

「ももも申し訳ありませんっ!」

「あれ……何で土下座してるのヤスちゃん?」


 五十子は大きな目をぱちぱちさせた。瞬きするにつれ、彼女の意識が覚醒していくのがわかる。


「……そっか。わたし、あそこで倒れちゃったのか。……あちゃー、失敗したなあ」


 自分の頭をこつんとやる。

 お決まりの仕草だが、揺れる白いリボンはどこか元気が無かった。


「艦橋にいた人間には緘口令かんこうれいを敷いています。彼女達には後で私から、長官はお疲れだと説明を」

「いやあ、寝不足かな? こんな大事な時に、リーダー失格だなわたし」


 そして「上のみんなに謝らなくちゃ」と立とうとする。寿子は慌てた。


「待って下さい! いきなり立ち上がっては」

「あ、あれ? うわっとっと……」


 言ったそばからよろめいた五十子を、危ないところで支えた。

 大和を逆立ちで一周できるほどバランス感覚があった山本長官が……寿子は上手く表情を誤魔化せる自信が無くて、五十子に背中を向けた。


「……もう、じっとしてて下さいよお。今お茶淹れますから」

「ふふっ、ヤスちゃん何だかわたしのお姉ちゃんみたい」


 ポットに茶葉を落としていると後ろで五十子がそんなことを言う。振り返らずに首だけ傾げる。


「子どもの頃、お腹壊したりするとね。お姉ちゃんがいつもこうやって看病してくれた」

「やっぱり、お姉さんがいらっしゃるんですね」

「うん……もう死んじゃったけど」

「そうでしたか」


 湯沸かし器が警笛のような甲高い音と共に蒸気を吐き出し、会話に一拍の間を置いてくれた。


「でも羨ましいです。私、小さい頃家族と過ごした記憶全然無くて。夢にも出てきてくれません」


 沸騰直後のお湯を、茶葉のカットに合わせた量だけポットに注ぎ込む。


「そっか……それも寂しいね」

「今は、海軍が私の家族です。……お待たせしました、ニルギリしかなかったんですけどよろしかったですかあ?」


 よろしいも悪いも無いのを知った上での、意地悪な問いだった。

 五十子は「ありがとうヤスちゃん」と礼を言ってからカップの中の液体に視線を落として、案の定困ったような笑みを浮かべる。


「……ニルギリって、ちょっぴり苦そうな名前だね」


 ですよねえ。


「はいどうぞ。未来人さんもいないことですし、どっさり好きなだけ使っちゃって下さい」


 源葉洋平とどういう約束をしたのか、五十子は一瞬後ろめたい顔になる。

 しかし、結局は寿子が置いた壺から尋常でない量の砂糖を投入し、かき混ぜ、顎を持ち上げると一気にあおった。


「んっんっ……ぷはあっ!」

「……のど火傷しますよお、その飲み方」

「えへへ、虫歯にならずに甘い物を摂る秘訣はねヤスちゃん、直接喉に流し込むことなんだよ!」

「どうしてそこまでして、糖分を摂る必要があるんですか?」

「え、それは勿論、好きだからだけど……まあ小さい頃からの癖かな。雪国は栄養価の高い食べ物が少ないから」


 確かにそれも、一片の真実だろう。前に五十子がもてなした同郷の少佐3人組は、あの原型を留めないほど砂糖まみれになった饅頭を心底懐かしがって食べていた。でも。


「……それだけじゃないですよね」


 寿子はそれ以上、遠回しに話を続けることができなかった。


「すみません、これ。見るつもりはなかったんですけど」


 詫びてから、ポケットから取り出した物を机に置く。

 ラベルに征海錠せいかいじょうと記された、緑色の小さなガラス瓶。

 ラ・メール症状を緩和するための市販薬だ。副作用に、時として強い眠気を伴う。


「早期発症、してたんですね」


 五十子は自分の上着のポケットに手を当て、そこにあるべき物が入っていないことを確認すると、悲しげに微笑んだ。


「……早期って言えるかな? わたし、もう19だよ。このくらい誤差じゃないのかな」


 寿子の中に、相反する2つの感情が渦巻く。

 どうして自分達を頼ってくれなかったのかといういきどおりと、五十子が隠し通そうとしていた秘密を暴いてしまったことへの後悔と。

 薬瓶は五十子をここまで運ぶ時に落ちそうになったのを、寿子が気付いて取り出していた。知ってしまったのは不可抗力だったが、眠っている内に元に戻して知らないふりをすることだってできた。五十子が、参謀である寿子達にも打ち明けることができなかった理由なんて、わかりきっていたのに。

 本当に、海軍乙女は桜の花のようだと思う。短い少女時代を海軍で咲かせ、正にこれからという時にラ・メール症状という名の風に吹かれて、散っていく。


「……糖分を沢山摂れば一時は頭が冴えるのかもしれないですが、時間が経つとかえって逆効果らしいですよお」


 だから寿子には、そんなことしか言えなかった。


「そうなの? ヤスちゃんみみどしだね!」

「それ本来の意味わかって言ってます?」

「大丈夫だよ。大和は気密性高いし。わたしは大丈夫」


 赤城の飛行甲板に立つから、薬をいつもより多く飲んだのが裏目に出ちゃっただけだよ。大丈夫。

 寿子を安心させるように五十子は笑ってそう繰り返す。

 確かに大和型戦艦は、有毒ゆうどくガスが発生しても指揮中枢に被害が及ばないよう艦橋内のみつせいが高い。高いがそれは艦橋内だけで後は普通の艦と変わりない。五十子が寝起きする長官室も、よく逆立ちしている甲板も。


「あのね、ヤスちゃん。このことは誰にも言わないで」


 気が付くと、五十子に手を握られていた。


「……未来人さんにも、ですか」


 衝動的に、何故そんなことを訊いてしまったのか、寿子にもわからない。無言で頷く五十子に、寿子は頷き返すしかなかった。


「了解しました」

「ありがとう、ヤスちゃん」


 革手袋越しに、五十子の意思の固さが伝わってくる。


「この戦争を終わらせるまで、降りるわけにはいかないんだ」


 作戦室の扉がノックされ、2人の会話はそこで終わった。

 寿子は扉を小さく開けて、来訪者が誰かを確かめる。

 外には宇垣束が、暗号電報あんごうでんぽう取次役の岩田軍楽長を従えて立っていた。


「参謀長? すみません、長官はまだ……」

「わたしならもう大丈夫だよヤスちゃん、入ってもらって」


 五十子は例の薬を服にしまい、どうにか居住まいを正している。

 長いポニーテールで空気を割って入ってきた束は、いつになく緊張した面持ちだった。


「……山本長官、具合はもう良いのか」

「ただの寝不足だよ。迷惑かけてごめんね」

「迷惑って……」


 束は、何か言いかけたことを途中で呑み込んだ。ぶっきらぼうな声で、背後の岩田軍楽長を振り返る。


「長官に至急報告がある。軍楽長、読め」


 後ろに立つ岩田軍楽長が、革筒から取り出した電報用紙を掲げた。


「作戦特別緊急電が2通届いています。1通目は、クェゼリン環礁の第六艦隊司令部より。『我、美空母ノ呼出符号ラシキ電波ヲ捕捉。発信源ハ2、イズレモAF北北東170浬付近』」


 読み上げられる電報。AF。今回の作戦のために使用されているミッドウェー諸島の暗号名だ。


「2通目は、軍令部からです。『マーシャル諸島南方デ西航スル美空母2隻発見トノ有力な目撃情報ヲ確認。美軍ハMO防衛ノタメ豪州近海ニ兵力ヲ集中ノ疑アリ』」


 そしてMOは、5月の珊瑚海海戦で攻略に失敗したポートモレスビーの暗号名。

 軍楽長が淡々と読み上げる電文に、寿子は愕然とした。


「……ミッドウェーと……ポートモレスビー? どういうことですかあ! それって、真逆じゃ!」


 どちらの情報も、出現した敵空母は2隻。これはヴィンランド太平洋艦隊が現時点で動かせる空母全てのはずだ。

 つまり、どちらかが誤情報である可能性が高い。一方、どちらの情報が正しくても黒島亀子の立てた作戦計画は破綻する。

 第六艦隊の情報が正解なら、それが意味するのは待ち伏せ。こちらの作戦が事前に漏れていたということだ。亀子の計画では、こちらがアリューシャンやミッドウェーを奇襲するまで敵空母がハワイにいることを前提に、あらゆるスケジュールが組まれている。既に敵空母がミッドウェー周辺にいるのなら、第四航空戦隊がアリューシャンを陽動で叩くのは無意味な戦力分散となり、ミッドウェーに向かっている第一航空艦隊は危険に晒される。

 逆に軍令部の情報通りなら、敵空母は遠く南太平洋のポートモレスビーへと出払ってしまっているため、北太平洋のアリューシャンやミッドウェーを攻めたところで出て来られない。敵空母の撃滅を真の目的とするこの作戦は、空振りに終わる。


「……渡辺が心配していたように、事前の敵情てきじょう偵察ていさつをやっておかなかったのが悔やまれるな」


 束の低い呟きが、寿子の焦燥を煽る。

 同時に届いた、完全に相反する2つの情報。分岐する選択肢。

 こういう時、遠方からの不正確な情報しか頼るものの無い連合艦隊司令部はあまりに無力だ。せめてこの場に黒島亀子が、いや、源葉洋平がいてくれたら――


「第六艦隊司令部からの情報を、一航艦に転電てんでんして」


 耳朶を打つ声に、寿子は我に返る。五十子が、よろめきながらも立ち上がっていた。


「どっちが正しいかなんて、今は確かめようがない。差し迫った危険があるのは第六艦隊からの情報だよ。一航艦の攻撃機の半分は魚雷装備で待機して貰ってる。知らせてあげれば、今からでも敵空母への先制攻撃に十分間に合う」


 その声は普段より弱々しかったかもしれないが、寿子の耳にはいつもと同じ、いざという時に頼もしい連合艦隊司令長官の声に聴こえた。

 しかし、五十子の本当の容態ようだいを伏せられている残りの2人の耳にも同じように聴こえるわけではない可能性まで、寿子は考えが至らなかった。


「……軍令部の指示に反して、無線封止を解除せよとおっしゃるのですか?」


 取次役の岩田軍楽長が、公然と五十子に意見した。真っ直ぐに切り揃えた前髪が、蛍光灯をはね返す。


「第六艦隊からの電報は、ミッドウェー作戦に参加する全ての部隊宛になっています。一航艦でも受信しているはずです。まして情報の信憑性が疑わしいのに、危険を冒してまで転電する価値は」

「分をわきまえろ、軍楽長」


 岩田軍楽長を叱った束も、続いて五十子に対し険しい目を向けた。


「長官。無線封止を破れば、この大和の位置が敵に知られることになる。先行する一航艦との距離だって、まだ100浬も取れてない。主力戦艦群を危険な状態にしてまで、やらなければならないことなのか」


 ベテランの海軍乙女でさえ震え上がりそうな束の鋭い視線に、五十子は柔らかい微笑みで返した。


「洋平君に頼まれたんだ」


 束は一瞬、殴られたような顔になる。


「敵の空母は必ずミッドウェーに現れるって、洋平君言ってた。きっと、こうなることを知ってたんだ。……わたしは、洋平君を信じるよ」


 束は、しばらく何も言わなかった。口にくわえた竹串が、ぎりっと音を立てた。


「……わかった」


 無表情で首肯すると、参謀長はきびすを返した。

 呆気にとられた様子で五十子のことを見ていた軍楽長が慌てて後を追い、扉が閉まる。

 背後でも音がして振り返ると、五十子が長椅子に倒れ込んで目を閉じたところだった。

 耳を澄ますと、ラッタルを上がっていく2人の遠ざかる声が聞こえる。


「長官は明らかに平常心を欠いておられます。やはり体調不良のせいで、判断力が……」「口を慎め」「ですが参謀長、このままでは!」


 眠ってしまった五十子の身体にもう一度毛布をかけながら、寿子はこみ上げてくる不安を抑えきれずにいた。


 何なのだろう、このとても嫌な胸騒ぎは。

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