第9話 帝都

 ひょっとしたら柱島泊地で過ごした日々は夢か幻で、上陸したらそこは普通に現代日本なのではないか。

 戦艦大和を離れてくれへ向かう間、黄昏色に染まる海を眺めながら、ふとそんな想像が洋平の頭をよぎった。

 呉は江田えたじま倉橋島くらはしじまとで瀬戸内海から遮蔽されており、白塗りの内火艇は両島間の細い海峡を通過していく。

 入り組んだ地形の先に見えてきたのは、重油を焚いた黒煙を煙突からたなびかせた海軍艦艇が出入りする軍港だった。

 港の三方を囲んだ山の勾配は海岸近くまで延びていて、小さな家々が段状にひしめく。巨大な工廠こうしょうを除けば、どれもかわらぶきで低層の木造家屋ばかりだ。

 洋平が来る時に見た駅前の大きなショッピングセンターも、勿論「大和ミュージアム」も無い。

 やはりというか当然だが、この世界は大和の外まで続いているようだ。


「……やっぱり、未来人さんが帝都へ行くのは危険ですよお。中央との折衝はこれまでも私1人でしてきましたし、未来人さんは安全な大和にいた方が……ああっ、さてはまた黒島参謀が何か!」


 書類鞄を不安げに握り締めた寿子は、内火艇に乗り込んでからもずっと洋平の上陸に反対している。洋平は首を振った。


「これは僕自身の意思だよ。大和の中だけじゃなく、僕が今いる世界がどんなところなのかこの目で見て確かめたいんだ」


 同意を求めて視線を向けた先、五十子は微笑んで頷く。


「洋平君は、元の世界で修学旅行の途中だったんだっけ。確かにこっちの世界に来てからまだ、大和の中しか案内してあげてなかったね」

「というか山本長官まで、どうしてついてくるんですかあ!」

「大丈夫だよヤスちゃん。洋平君の身の安全は、このわたしが責任をもつ。帝都かあ……」


 五十子の微笑に、懐かしそうな寂しそうな、複雑な色が混じった。


「赤レンガに行くのは、久しぶりだな」


 帝都に行くことになったのは、五十子、寿子、それに洋平の3人だ。

 一方、束と亀子は大和に残る。亀子は同行を強く願い出ていたが、「亀ちゃんは移動中に寝て迷子になるといけないから」という身も蓋もない理由で留守番を言い渡された。しかし亀子の書いたミッドウェー作戦計画書は、寿子の鞄の中にある。この作戦計画の決裁を、中央の軍令部から得る。そのための帝都出張である。


 洋平の世界で1942年6月5日に生起したミッドウェー海戦は、日本が大敗を喫した歴史上のターニングポイントとして記録されている。

 開戦以来攻勢の主力を担ってきた正規空母4隻と300機近い艦載機が海中に没した。そしてこの海戦を境に反攻に転じた連合軍に対し、帝国海軍は二度と戦いの主導権を取り戻すことはできなかったのだ。

 本当は、ミッドウェー作戦そのものを中止にして欲しかった。でも、五十子はこの作戦を自分の信念だと言った。五十子は、一度は諦めかけていた早期講和の可能性をミッドウェーに賭け、その実現を参謀達に託した。

 ならば洋平のすることはひとつしかない。

 自分の計画を完璧だと思っている黒島亀子には悪いが、洋平が持つ未来の知識でもって作戦内容を改変し、ミッドウェー作戦を勝利に導く。架空戦記の王道をやるしかない。


 上陸した洋平達は呉鎮守府の車で広島に向かったが、五十子が途中で市内のデパートに寄り道し、広島駅に着いたのは時間もだいぶ遅くなった頃だった。


「0002時発、特急富士の切符を手配してあります。帝都には明日1525時着の予定ですよお」


 寿子の言葉通り、駅のホームではスマートな流線型の蒸気機関車が3人を待っていた。鉄道マニアが見たら歓喜するかもしれないが、生憎と洋平はそっちの方は守備範囲外だ。それより15時間以上もかかることに驚いた。新幹線の4倍近いが、これでも速い方なのだろう。

 日付が変わって2分後、特急列車は汽笛を鳴らし定刻通りに広島駅のホームを滑り出した。


「ねえ洋平君。着替えがあるんだけど、良かったら着てみない?」


 寝台車に着くや五十子は持っていた紙袋を開いて、中身をばっと広げた。


「じゃーん!」


 広げられた衣服の眩い白さに、洋平は目をしばたたかせる。


「え……この服を、僕に?」

「おお、二種軍装じゃないですかあ!」


 寿子の言う通り。純白に金ボタンの、海軍第二種軍装だ。

 肩には中佐の肩章が輝いている。


「本当は正式に任官されてからプレゼントしようと思っていたんだけど、いつまでも未来の恰好じゃ目立つからね」

「明らかにこっちの方が目立つんじゃ……」

「嫌?」

「い、嫌じゃないよ! むしろ着たいです、着させて下さい!」

「そっか、良かった~。あ、下は男性用の白い長ズボンだから安心してね。海軍にはスカートしかないから、福屋デパートで似た生地のズボンを買ってきたの」

「え……買ってきたって、五十子さんが?」


 まさか、それでさっき寄り道したのか。


「えへへ、紳士服コーナーは初めてだったから緊張したよ。サイズ合ってるか、確かめてみてね。ほらヤスちゃん、洋平君が着替えるから出た出た!」


 そう言って寿子を追い出しにかかる五十子の目は、あのいたずらっぽい光を湛えている。この世界の海軍は女性しかいないのに自分がこれを着ていいのかという疑問もあったが、そんな雑念も、真新しい軍装に袖を通し終え、鏡に映った自分の姿を見たところで吹き飛んだ。


「さあ洋平君、仕上げにこれを」


 渡された軍帽を目深に被る。今までコスプレは守備範囲外だったが、これは、なかなかどうして。


「……提督になったみたいだ」


 思わず、そんな感想が口をついて出た。


「あはは未来人さん、中佐で提督は気が早いですよお」

「そんなことないよヤスちゃん、戦隊司令官は大佐からだけど、隊司令なら中佐でもなれるよ」

「でも良かったですねえ未来人さん、これで完全に私達とお揃いですよお!」

「そうだ、2人とも車内を探検してみない? 特急富士は豪華な展望車がついてるんだよ!」


 こんな時間に展望車? だが五十子はじっとしていられない様子で、2人の手をひいて歩き出す。

 列車の最後尾に連結された展望車を見て、洋平は目を丸くした。

 やはり外が真っ暗な今の時間は誰もいなかったが、内装が凄い。

 列車は他のどこも洋風だったがこの車両の中だけ和風、それも黒檀に金や漆が施され、大河ドラマに出てくる安土桃山時代の御殿のようだ。


「うわー……なんというか、派手だね」

「ふふっ、この車両はね、戦争が始まる前、外国人のお客さんに人気が出るようにってつくられたんだって。……本当は一昨年おととし、帝都でオリンピックがあるはずだったんだよ」


 豪華絢爛な展望車に洋平達が再び足を運んだのは、寝台車で眠り翌朝になってからだった。

 だがその時にはもう他の乗客達がいた。彼等はリボン頭の海軍乙女が山本五十子だと気付くや握手攻め、さらには色紙にサインまで求めてくる。

 乗客の数は増え続け、内装や車窓の風景を楽しむどころではない。洋平はどうして五十子が夜中に展望車を案内してくれたのか、遅まきながら理解した。


「『苦しいこともあるだろう、腹の立つこともあるだろう、泣きたいこともあるだろう、これらをじっとこらえてゆくのが乙女の修行である。山本五十子』っと。はい書けましたよ。次の方どうぞ」

「すみません、この扇子に『常在戦場』って書いて下さい!」


 列車は大きな駅に着くたび5分以上停車する。これも新幹線とは違うところだが、ここでも大勢の群衆が五十子を待ち構えていた。五十子は駅に停まるたび、律儀に列車を降りて歓声に応えた。そのため、列車は徐々に時刻表から遅れていった。


「どうして五十子さんが来るって、みんな知ってるのかな」

「……呉鎮守府の先輩方はお喋りですからねえ。大和のこと以外は、情報が外部にダダ漏れです」


 小声で寿子に訪ねると、苦笑いとともにそう返される。

 そして、目的地である帝都。ドーム屋根の大きな駅舎には、それまでの数十倍の大群衆が詰めかけていた。

 洋平は、この世界の一般人を改めて観察した。老若男女。アイドルのおっかけみたいな少女もちらほらいるが、大半は普通の大人達だ。

 スーツのサラリーマン、着物の主婦、羽織袴の老人、制服の大学生。

 人々が五十子を見る目は一様に眩しげで、熱っぽい興奮が駅内に充満している。


「真珠湾の英雌えいし、山本五十子閣下万歳!」「我等が軍神!」「帝国の守護者!」


 思わず身のすくむような歓声の嵐の中を五十子は物怖じすることなく、微笑んで手を振りながら進んでいく。一緒に過ごしているとあまり実感が湧かないが、五十子はとんでもない有名人なのだ。


「……国民のほとんどは、真珠湾攻撃が成功したから戦争にはもう勝ったつもりでいるんです」


 周りに聞こえないよう声を潜めて、寿子がそう囁いた。

 前を歩く五十子は手を振って歓声に応え続ける。

 その背中は、彼女に声援を送る大人達より、ずっと小さかった。




「そういえば、海軍乙女って何歳から何歳くらいまでの子がなるものなの?」


 帝都到着の翌日、宿から海軍省へ向かうタクシーの中。信号待ちで話題が途切れたので、洋平は前から気になっていたことを訊いてみた。言ってから、束が年齢の話はタブーとか言っていたのを思い出したが、寿子はあっけらかんと教えてくれた。


「私達士官は9歳で兵学校を卒業、10代前半で尉官から佐官に昇進を重ねて、兵学校卒業席次ハンモックナンバー上位者は15歳から将官になれます。個人差はありますけど大体20歳を超えると陸上勤務になって、そのうち予備役に編入ですね。元帥になられる方もごく稀にいらっしゃいますけど……その辺りの話はデリケートなのでちょっと。ま、宇垣参謀長は気にし過ぎですけどお」


 女性でも20歳を過ぎるとラ・メール症状が出ると前に聞いた。年齢で変わるメカニズムがよくわからないが、幼児の頃は平気だったブランコが、大人になって漕ぐと気持ち悪いようなものか。


「ちなみに私は13歳です」

「えっ、じゃあまだ中一なの? しっかりしてるから、もう少し上かと思ってたよ。寿子さんが中佐だから……もしかして、大佐の亀子さんは14歳?」


 「正解ですよお」と寿子。ということは亀子は中二か。こっちは色んな意味で納得できる。


「黒島参謀はいつも寝てるので、本当は20歳超えてて薬の副作用で眠いんじゃないかって疑惑がありますけど、あれは単に生活が夜型なだけです。あっ、私まだ未来人さんの歳を聞いてないです」

「あれ、言ってなかったっけ? 僕は15歳だよ。8月の誕生日で16歳」

「ええっ! 少将クラスじゃないですかあ、失礼しましたあっ!」


 信号機が青に変わる。朝の通勤客で満員の路面電車を追い抜いて、タクシーは走り出す。辺りは官庁街らしく、どっしりした造りの建物が林立していた。さすがは帝都だ。


「ねえ見て、桜だよ! 綿菓子みたいだね!」


 助手席に座って街の様子を眺めていた五十子が、通りの先を指差して洋平達を振り返った。

 見ると、街の一角の公園に桜の木が満開に咲き誇り、零れた花びらが道路に舞っている。


「五十子さんらしい例えだね……あれ、桜ってまだ咲いてるんだ」


 今は4月の中旬、洋平の世界なら桜はとっくに散っている。多分、温暖化とかの関係だろう。


「わたしの故郷の加治川にも立派な桜並木があってね、小舟でお花見をするの。わたしね、子どもの頃に舟の上で逆立ちして、船頭さんに舟賃タダにしてもらったことがあるんだよ」

「……長官、その頃と今とで、おやりになってることがあんまり変わりませんねえ」

「えへへ、そうかな」


 桜を見る五十子の表情にどこか郷愁を感じ取った洋平は、思い切って提案してみた。


「せっかく上陸したんだから、五十子さんの故郷にも寄ったらいいんじゃないかな?」


 五十子は、意外そうに大きな目をぱちくりさせる。


「えーっと、洋平君をわたしの両親に紹介するってこと?」

「は? いや違うよ! 寿子さんもそんな怖い顔で睨まないで誤解だから! 五十子さんが帰省したらどうかなって意味だよ。水饅頭食べてた時も懐かしがってたし」


 不意打ちに焦って早口でそう言うと、五十子はもう一度瞬きしてから、にっこり微笑んだ。


「ありがとう、洋平君は優しいね。……でも、今回は公務の出張だから」


 公園の隣、左右対称の翼を広げた重厚なネオバロック様式の建物が見えてきた。

 通称・赤レンガ。

 海軍の行政全般を統括する海軍省と、統帥機関として作戦指揮を統括する軍令部とが入る、帝政葦原海軍の中枢だ。車が徐々にスピードを落とす。


「……何度来ても、この場所は好きになれないです」


 さっきまでずっと明るかった寿子の表情が、何故か硬い。


「未来人さん。私が未来人さんの上陸に反対だった理由は、危険ってこともありますけど、それより、この場所に来て欲しくなかったからなんです。予めお願いしておきます。海軍のこと嫌いになっても、私達のことはどうか嫌いにならないで下さい!」

「いや、ならないって。ここには僕の意思で来たんだしさ……」


 とは言いつつ、ここまで脅されると入る前から気が重くなってくる。そうだ、五十子ならこんな時、「大丈夫!」と明るく励ましてくれるはず……。


「だいじょーぶ、痛くないよ~、すぐ終わるからね~」

「えっ何それ、注射する看護婦とか歯医者とかの真似? フラグだよね絶対に痛い奴だよねそれ?」


 間もなく、2人の態度が脅しでも何でもなかったことを、洋平は知ることになる。




 正門前で洋平達を待っていた伊藤という長身痩躯の士官は、「嶋野閣下がお待ちです」と事務的な口調で告げただけで、背を向けてさっさと歩き出した。

 着ているのは洋平達のような第二種軍装ではなく、暗い紺色こんいろの第一種軍装だ。その後について、赤レンガ庁舎に足を踏み入れる。

 吹き抜けの玄関ホールでは同じく第一種軍装姿の海軍乙女が数名立ち話をしていたが、洋平達が近付くと急に喋るのを止め、そそくさと立ち去った。

 案内役の士官は振り返りもせずに「2階の大臣室です」と言って階段を登っていく。

 どこを歩いていても、すれ違う少女達の反応は総じてよそよそしかった。

 初め洋平は、男子禁制の伝統を破っている自分が忌避されているのかと思った。だが違った。少女達は洋平に対していぶかるような視線を向けることはあっても、洋平の前を歩く五十子には決して目を合わせようとしない。避けられているのは五十子だった。

 信じ難い。ここに勤務しているのは本当に、大和に乗っているのと同じ海軍乙女なのだろうか?


「久しぶりだね、しずかちゃん。軍令部にはもう慣れた?」


 誰もいない廊下にさしかかった時、五十子は前を歩く士官にそう話しかけた。伊藤いとうしずかがフルネームらしい彼女は、しかし何も聞こえなかったかのようにそのまま歩き続ける。寿子が拳を握り締めて何か言いかけたが、五十子に止められた。


 洋平は、急に強い目眩を覚えて壁に手をつきかける。

 この陰湿な空気、まるで建物全体から吐き気を催す臭いが漂ってくるようだ。

 潮通しの良い柱島泊地ではしない、澱みきって腐敗した海の臭いが。

 昨日駅で受けた市民からの熱狂的な歓迎も異常だったが、それとは対極の異常さだ。

 だとしても、何故自分がここまで過剰反応してしまうのかはよくわからない。

 目的地に近付くにつれ、耐え難い腐臭はますます濃くなっていくように思えた。


「……こちらです」


 扉の前で、五十子は大臣室と記された木札を見詰め、少しの間だけ立ち止まってから中に入った。

 続いて入室する。

 最初に目につくのは、巨大な地球儀。

 それから壁の地図。何故か太平洋ではなく欧州アフリカの地図が貼られている。

 入口に向かって縦に置かれた会議机には、片側にきらびやかなしょくしょを吊った軍令部の参謀達、もう片側に海軍省の高官と思しき高級将校達がずらりと並んでいた。

 その奥で、背もたれの大きい安楽椅子に腰かけ、こちらに向かって艶然と微笑む女がいた。


「ごきげんよう、山本さん。最後にお会いしたのはいつだったかしら?」


 微笑といっても五十子のそれとは根本的に質が異なる。

 濃いルージュをひいた唇が三日月を刻んでいるが、目は欠片も笑っていない。

 酷薄な視線を五十子は、普段通りの柔らかい笑顔で受け止めた。


「開戦の4日前にあった大本営政府連絡会議以来だよ、しまさん」


 嶋野。

 名前だけは予め聞かされていた。

 軍令部総長と海軍大臣とを兼任する、海軍中央の最高権力者だという。

 鼻梁が高く整った顔立ち、品良くハーフアップにした射干玉の髪、日を浴びていない白絹のような肌は、それだけならば清楚な深窓の令嬢で十分通る容姿だった。

 しかし尊大に組んだ黒タイツの脚と、扇子をあおぐ手の赤いマニキュア、何より獲物を狙う猫科の肉食獣じみた目つきが、全く異なる属性を彼女に与えていた。


「ということは3カ月半ぶりですわね。あら、山本さん少しお肌が荒れたような……私が差し上げた日焼け止め、ちゃんと毎日塗ってらっしゃる? 海の紫外線は乙女の大敵ですわよ」

「あはは、わたしうっかりさんだから塗るの忘れちゃうことが多くって。ごめんね嶋野さん、せっかく高価な物を頂いたのに」


 扇子の先で椅子を勧められ五十子は会議机の末席に腰掛ける。席はその一つしか用意されておらず洋平達は五十子の後ろに立つ。非礼な扱いだが、その方が距離が置けて気が楽だと思ってしまう。


「まあお気になさらないで、貰い物ですから。総理が買って下さったんですけど、ご覧の通り私はここで机仕事でしょう。山本さんみたいな日焼けの心配はありませんの。全く、私が欲しいと申し上げたのは化粧品なのに、総理ったらボケてしまったのかしら」

「あはは……」


 世間話というより明らかに五十子の反応に困る様子を楽しもうとしていた嶋野の視線が、不意に後ろの洋平達に向いた。


「あら? 宇垣さんは一緒じゃありませんのね」

「あ、うん。束ちゃんは大和で、わたしがいない間の留守番をしてくれてるよ」

「そう。それは残念ですわ……で、そこにいるのが、海を泳げる特異体質の坊やかしら? 人事局に任官願いがあったみたいですけど」


 嶋野は扇子で洋平を指し示す。洋平は緊張と嫌悪感とを必死に押し殺して、一歩前に進み出た。


「山本長官より中佐相当官及び連合艦隊司令部特務参謀扱いを拝命した、源葉洋平です」

「あら可愛い。山本さんってこういう年下系が好みですの? 確かに、艦の生活にも慰安・・は必要ですわよね。ちなみに私は年上の方が……」


 低劣な邪推をする粘着質な声を聞くのに耐えられなくなり、洋平は再度口を開く。


「僕は70年後の世界から来ました。この戦争について皆さんが知り得ないことを知っています」


 自分の声が、微かに震えているのがわかる。


「ちょ、ちょっと未来人さん! あ……」


 寿子が洋平を止めようとして、途中で自分の口を押さえる。


「……未来人、ですって?」


 嶋野は洋平と寿子の発言にぽかんとして、直後、背もたれを目いっぱい倒して哄笑した。


「おーほっほっほ! 山本さん、これは一体何の余興ですの? それとも、瀬戸内の潮風に当たり過ぎて20歳を待たずにラ・メール症状になってしまわれましたの? おーほっほっほ!」


「嶋野さん、信じられないかもしれないけど、洋平君が言っていることは本当だよ。現にセイロン沖海戦では、事前に詳細な結果とその原因を言い当てたの。単に未来から来たというだけでなく、彼我の装備や戦術にも詳しい。わたしたちにとって、欠かせない仲間だよ」


 間髪を入れずに、五十子がそうフォローしてくれた。会議机に居並ぶ少女達が、ざわ……と微かに動揺する。


「必要な人材かどうかは、人事を統べるこの私が判断することですわ」


 高笑いを止めた海軍大臣兼軍令部総長の一声で、ざわついていた部下達はぴたりと静まり返った。


「まあいいですわ。山本さんに良い知らせがありますの。葦原あしはらを勝利に導いた山本さんの武功に対し、このたび勲一等功二が授与されることになりました。宮中への上奏じょうそうにあたっては私が骨を折りましたのよ」


 嶋野の「おめでとう」に合わせて、慇懃いんぎんな拍手が起こる。

 勝利に導いた? 洋平からすれば滑稽こっけいだった。既に戦争に勝ったつもりでいるのは、どうやら一般市民だけではないらしい。

 五十子もまた、同じことを思ったようだった。


「嶋野さん、ごめん。わたし、その勲章は受け取れないよ」

「……受け取れない? 恐れ多くも、聖上せいじょうより賜る勲章ですのよ」


 嶋野がすうっと目を細める。後ろで見ている洋平の背中が粟立つような眼差し。

 しかし五十子は怯まない。穏やかだが、はっきりした声で言葉を紡ぐ。


「なおさらだよ。だって、わたしたちは勝ってなんかいないもの」

「謙遜を。一航艦の南雲さんと草鹿さんからは、ヴィンランド太平洋艦隊は壊滅的な打撃を受け当分は真珠湾から出てこられないだろうと聞いていますわ。太平洋の趨勢すうせいは決したも同然でしょう?」

「いいや無傷だよ。ヴィンランドの空母は無傷で太平洋にいるよ。その脅威を放っといたまま海軍上層部の人間が勲章を貰うなんて、聖上と国民に対する裏切りだよ」

「……何が言いたいんですの」


 鷹揚おうようだった嶋野の声に、苛立ちが混じる。

 五十子は、赤い表紙で装丁された書類を鞄から取り出す。黒島亀子が書き上げた、ミッドウェー作戦計画書だ。


「この案を、第二段作戦として検討して欲しいの」


 洋平達をここまで案内した伊藤が、五十子から計画書を受け取って大臣机まで届ける。


「何かしら、これは……ミッドウェーですって?」


 嶋野は計画書のタイトルに目尻を吊り上げると、ページをめくりもせずに軍令部参謀達の机に放り投げた。寿子が目を見開く。


「はあ、呆れた。こちらが頼んだごう分断作戦の準備もせず、こんなものに時間を費やしていただなんて。いいですこと山本さん、前にも言った通り作戦の主務機関はあくまで軍令部ですの。貴女方GF司令部は、軍令部が決定した作戦目標を達成すべく艦隊を展開させ戦術指揮を執る、そういう組織の業務分担ですのよ。例外は真珠湾の一度きりと念を押したのを覚えてないのかしら?」


 嶋野が芝居がかった仕草でぱちんと指を鳴らす。伊藤が巨大な地球儀を上に回し、南太平洋を正面にした。

 赤道の島々の下に、コアラやカンガルーで有名な大陸が見える。


「博打は一度で十分、ここからは堅実にやりますわよ。フィジー・サモアを攻略し、ヴィンランドと豪州ごうしゅうの海上交通路を遮断。こうすれば豪州を反攻の拠点にしたいヴィンランドの野望を挫いて南方資源地帯は安泰、そればかりか、孤立した豪州はブリトン連邦から脱落し降伏せざるを得ませんわ。豪州の豊富な鉱物資源も全て我が国の物。豪州を守れなかったヴィンランドと、豪州の宗主国ブリトンとの同盟関係にも亀裂が入るでしょう。さらに」


 嶋野は立ち上がって自ら壁の地図に向かう。例の欧州アフリカの地図だ。どこから情報を得ているのか、トメニア軍の前哨基地にピンが刺してあった。北アフリカにも刺してある。洋平の世界と同じなら、今頃はロンメル戦車軍団が連合軍と激戦を繰り広げているところだ。


「インド洋に進出し、トメニアの戦いを背後から支援しますの。ヴィシー政権が統治するマダガスカル島に潜水艦基地を設け、インド洋全域でブリトン船舶に対する通商破壊作戦を。植民地からの資源供給を絶たれたブリトンは、いずれトメニアに屈服するでしょう。私達は東亜に長期不敗体制を築いて、熟した柿の実が落ちるのを待つように盟邦トメニアの勝利を待てば良いのですわ」


 嶋野は大臣机に戻ると、マニキュアをした両手の指を見せびらかすように組み合わせた。


「山本さんは太平洋赤道以北のことしか頭に無いご様子ですけど、私はこの部屋で地球儀を回したり遠い欧州の戦況を確かめたりしながら、全地球規模で作戦を練っていますの。どうです山本さん。これが、本物の戦略というものですわ」


 嶋野が勝ち誇ったような笑みを浮かべる。

 自分のことを天才戦略家とでも自惚れているのだろうか。『戦場から遠ざかると、楽観主義が現実にとってかわる』というどこかで聞いたフレーズが洋平の頭をよぎった。

 今の嶋野の話が軍令部の第二段作戦だというなら、他力本願にも程がある。五十子の真珠湾奇襲を博打だと言うなら、トメニアの勝利を当てにした嶋野の用兵こそ真の博打、それも自分自身で勝負せず観覧席に座って運命を他者に委ねる類の博打だ。

 欠けているのは、トメニアが負けるかもしれないという視点だけではない。時間が経てばヴィンランドが艦隊を再建させてしまうというのに「長期不敗」とは、ヴィンランドの存在が頭からすっぽり抜け落ちている。


「嶋野さん、戦いは将棋でいうなら囲いより詰将棋つめしょうぎだよ。本土をがら空きにして南太平洋やインド洋で囲いを作っている間に、ハワイからくるヴィンランド艦隊に王手をかけられたらどうするの?」

「本土の防衛は陸軍の管轄かんかつでしてよ。私達が心配することではありませんわ」


 議論が噛み合わない。

 当然だ、嶋野はじめここにいる濃紺服の連中からは、自国の存亡がかかった戦争をしているという危機感が欠片も感じられない。


「嶋野閣下、一通り目を通しましたが」

「この作戦計画書、基本から書き方間違ってますね」


 思ったそばから、2人の軍令部参謀が挙手する。嫌な予感がした。


「あら。それ読みましたの? 偉いわねえ富岡大佐、三代中佐。感想を聞かせてあげて、忌憚きたんなく」


 嶋野が冷笑を浮かべて促す。姓が違うから双子ではないはずだが、揃って不健康なまでに青白い顔に触角しょっかくみたいな毛が左右対称に生えた参謀2人は、無表情なまま口だけを動かした。


「はい。黒島さんでしたっけ? 素人が無理に奇をてらった感じですね。軍令部に籍を置いたことのある子なら、こんな作戦は絶対に立てないんですけど」

「基礎を学んでない人に作戦立案は無理でしょ。真珠湾はたまたま上手くいっただけで、やっぱ素人が先任参謀をしているGF司令部は、現場指揮しかやらない方が良いと思いますよ」


「……どういう意味ですか」


 ここに来てからずっと堪えてきた寿子が、とうとう口を開いた。仲間を公然とけなされて、黙っていられなくなったのだろう。

 富岡・三代は無表情のまま、


「敵空母を沈めるなんて、そもそも作戦の目標設定としてカテゴリーエラーなんですよ」

「海戦での艦艇の損耗は、不確実な偶然の産物でしょ? 図上演習ならサイコロ振って決める内容ですよ。作戦目標というのは拠点攻略とか、資源や重要海域の制海権の確保とか、そういう戦略的にしっかりしたものじゃないと。作戦の体をなしてませんよ、これ」

「軍令部の選考を受けたいなら最低限、作戦立案の作法をきちんと勉強して、目標を島の攻略に絞って書き直して下さい。まあそれでも落ちるでしょうけどね。ミッドウェーに石油がありますか? 鉄やボーキサイトがとれますか?」

「ただの孤島でしょ。資源どころか飲み水も確保できるかどうか。地理的にも守り辛い。占領しても簡単に奪回されますよ。故に軍令部としては、GF司令部の提案に反対です」


 2人が交互に繰り広げる亀子の作戦への批判を、洋平は虫唾が走る思いで聞いていた。

 島そのものに価値が無いなんて、百も承知だ。

 ミッドウェー作戦の目標は、あくまで敵空母の誘出・撃滅なのだ。

 それを作法に反する? 

 作法って何だ。これは戦争だろう?


「おーほっほっほ! 2人とも、あまり本当のことを言うと山本さん達がお気の毒ですわよ」


 洋平は、五十子が恐らくこうなるとわかってわざと大和に残してきたのだろう黒島亀子のことを思った。

 非凡な才能の少女。日中眠ってばかりだったのは、早期講和という五十子の願いをかなえるために夜通し作戦を練ってきたからだろう。

 勿論、ミッドウェー作戦を史実通り実行させるつもりはない。未来人故の結果論かもしれないが、勝つためには修正を加える必要がある。そのために洋平がいる。

 だが、ここにいる連中の態度は、ミッドウェーの勝敗以前の問題だ。

 こいつらに、亀子が心血を注いで書き上げた計画書を読みもせずに放り投げたり、形式論であげつらったりされるのは我慢ならない。


「……海軍が壊滅して、国中が焼け野原になってもそんな風に笑っていられますか?」


 洋平の唐突な言葉に、嶋野の哄笑が止まる。

 洋平の世界とこの世界は厳密には同じじゃない。だから気は進まなかったが、言わずにはいられなかった。

 洋平の世界で起きた戦争が、どんな結末を迎えたのかを。

 掠れそうになる声を振り絞る。


「今から3年後の1945年8月15日。この国は軍民あわせて300万人の犠牲を払い、連合国に対して無条件降伏します。それが、僕の知っている戦争の結末です」


 口に出してしまえば、あまりにあっけなかった。

 本当はもっと詳しく語りたいけれど、洋平の詳しい知識は「提督たちの決断」のバッドエンドでもある連合艦隊最後の作戦、45年4月の大和沖縄特攻で終わっている。後は学校の授業か架空戦記物で覚えた程度だ。

 それでも、この世界の住人には十分に衝撃的だったようだ。濃紺服組だけでなく、傍らに立つ洋平の同僚にとっても。


「……ごめん寿子さん。今まで黙ってて」

「いいえ。私、多分そうなんじゃないかなってはじめから思ってましたあ。だって未来人さんの生徒手帳、横書きだったじゃないですかあ。あれは……あれはブリトン語の書き方ですよねえ」

「横書きでも葦原語には違いないよ、ヤスちゃん」


 気丈に振る舞おうとしている寿子の手を、五十子がぎゅっと握った。嶋野が目尻を吊り上げる。


「気味が悪いですわね、その坊や。いいですこと、この葦原中津国は建国2600年、戦に敗れたことなど一度たりともありませんのよ。悪い冗談はよして下さいな」

「わたしは冗談だとは思わないよ。美鰤相手の持久戦で3年以上も持ちこたえられるということの方が、むしろびっくりだな」


 五十子は動揺が広がる室内を見渡して、さらに言葉を継ぐ。


「ヴィンランドの空母を沈めてハワイへの橋頭堡きょうとうほを確保する以外、わたしたちが負けないで戦争を終わらせる道はないよ。ミッドウェー作戦は、わたしの信念です。もしこの案が却下されるのなら、わたしは連合艦隊司令長官として、葦原の防衛に責任を持てない」

「辞職の脅しですの? 真珠湾の時も確かそう言いましたわね。同じ手が二度も通じるとでも」

「辞めるとは言ってないよ。でも、勲章は当然受け取れないから。嶋野さんに迷惑がかからないよう、宮中にはわたしが直接お詫びに参上するよ」

「……っ!」


 嶋野の美貌から一瞬、余裕の仮面が剥がれ落ちた。五十子は凛として穏やかだ。

 2人の視線がぶつかり合う。

 数秒後、大きく息を吐いたのは嶋野だった。


「……却下するだなんて、私は一言もいってませんわ。富岡大佐、三代中佐。GF司令長官から頂いた提案を、持ち帰ってよく検討するように。これで満足ですこと、山本さん?」


 富岡と三代は無表情のまま首肯する。「ありがとう嶋野さん、よろしくね」と、先程までの激しいやり取りが嘘のような晴れやかな笑顔でお辞儀する五十子。嶋野の頬が引きつった。


「まあ、お礼だなんて水臭いですわ。お互い立場のある身ですから意見が合わないこともたまにはありますけど、私は山本さんのことが大好きですのよ。兵学校の同期ですもの。懐かしいですわ、同期の中で私は首席卒業、山本さんの卒業席次は……あら、何番でしたっけ? ふふ、あんな事故さえなければ今この椅子に座っているのは私ではなく山本さんだったかもしれませんのにねえ」


 とげがありまくりだが……事故? 五十子は微笑んで何も言わず、寿子は知らなさそうな顔だ。


「あらいけない、忘れるところでしたわ。伊藤さん、山本さんへのお土産を持ってきて頂戴」


 伊藤が紙袋を下げてきて、寿子に持たせた。横から袋の中身を覗いた五十子が顔を輝かせる。


「わあ、羊羹ようかんだ!」

「山本さんのために最高級の猫屋の羊羮を買っておきましたの。山本さんは田舎育ちで、こういう甘い物に昔から目がありませんでしたから。まあ、貧しい田舎だと甘い物くらいしか楽しみがありませんものね。おーほっほっほ!」

「うん、甘い物大好きだよ。ありがとう、嶋野さん!」


 洋平は二重の意味で唖然とした。嶋野の限度を通り越した挑発と、怒らずにこにこしている五十子に対してだ。

 一番驚いたのは、挑発した本人のようだった。嘲笑の形に弧を描こうとしていた唇がわななき、切り裂かれた傷口のように歪む。

 次の瞬間、嶋野は広げた扇子で口元を覆い隠した。


「……次の来客の時間ですわ。ところで4月18日の土曜日は、まだ帝都にいらっしゃる? 横須賀軍港に記者クラブの皆さんをお招きしてますの。在泊中の艦艇を見学して頂く予定なんですけど、山本さんが顔を出せば記者の方々もきっと大喜びですわ」

「18日だね。うん、わかった。それまで帝都にいることにするよ」

「ふふ、楽しみですわ。ではごきげんよう」

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