第40話 やっぱり、赤の方が似合う?


 左舷への傾斜が20度を超えた。もはや復原は望めない。

 オールド・ヨーキィの愛称で知られた空母ヨークタウンは、ここに沈もうとしていた。

 総員退艦の声が聞こえる。

 傾いた飛行甲板から、乗員達が我先に海へ滑り落ちていく。

 ガラスの破片が残る艦橋の窓枠を掴んで、ジェニファー・フレッチャーは自分の掌から流れる血も気にせずに、その光景を目に焼き付けていた。


「……あれは、空母1隻の攻撃隊なんかじゃない」

 

 来襲した敵機の数は、優に100は超えていた。

 上がっていた直掩機はゼロファイターの大群になす術も無く蹴散らされ、間髪を入れず襲ってきた一糸乱れぬ急降下爆撃で、艦への命中弾は30発を数えた。

 火災による機関停止。回避運動ができなくなったヨークタウンに、今度は肉薄してきた雷撃隊が放った18本の魚雷が突き刺さった。

 最初に浸水したのはやはり、例の応急処置を施した左舷燃料タンクの継ぎ目だった。

 だが、仮に艦がベストな状態でも結果はさして変わらなかったかもしれない。

 多勢に無勢。大群でしかも練度の高い敵機による、あまりに一方的な空襲。

 敵にはやはり、アカギの他にも空母がいたのだ。自分の懸念は正しかった。なのに。


「司令官、ここにおられましたか! 早く退艦して下さい!」


 振り返ると、艦長のバックマスター大佐だった。既にライフジャケットを着用していて、ジェニファーの分も持っている。


「……私はまた逃げるのね」


 憎きメイベルの嘲笑が、脳裏を焦がした。

 海軍提督だった叔母の七光りと言われるのが堪らなく嫌で、人一倍努力してきたのに。

 珊瑚海でレキシントンを失い。そして今、ヨーキィまで。

 このまま終わったらあまりに惨めだ。この子達も、自分も。


「艦長、麾下の護衛部隊に私の命令は伝えた?」


「はっ。重巡ポートランド以下、既に指定の座標に向かっています」


 それは、第17任務部隊の司令官としての最後の命令だった。

 航空戦では忘れられがちなことだが、ジェニファーの指揮下にあるのはヨークタウンだけではないのだ。


「……そうよ。こんなので終わらせるものですか」







「このまま撤退するつもりですか! 長官を、みんなを見捨てるんですかあ!」


 戦艦長門の艦橋に立つのは4ヶ月ぶりだった。

 だが、黄色カチューシャの後輩にここまで詰め寄られたのは今日が初めてな気がした。


「そうは言ってねえだろ。あたしは参謀長だ、指揮官じゃねえ」


「山本長官はおっしゃいました! 残存艦隊は宇垣参謀長が指揮するようにと!」


 まずそれからして無茶苦茶だ。束は首を振った。

 五十子がいない今、次席の指揮官はどう考えたって第一艦隊の高須中将だろう。


「……主力戦艦の温存が、軍令部にとっての最優先事項。そう言ったんだ」


「じゃあこの大砲は飾りですかあ!」


 眼下に並ぶ2基4門の41センチ砲を指差し、渡辺寿子が叫ぶ。

 寿子は感情的になっている。自分が冷静にならないと。束はもう一度首を振った。頭がひどく重かった。

 かつて世界の海軍関係者を震撼させた長門の主砲は、今でこそ最強の座を大和に譲ったものの、1020キロの砲弾を仰角43度で3万7900メートルの彼方に撃ち出せる。

 連射性能は毎分1・15発。

 だが、それが何だ。

 五十子の言った通り、こちらは低速艦を抱えている。全速力になった大和に追い付けるものか。


「扶桑より発光信号、『他艦ハ我ヲ顧ミズ増速サレタシ』!」

「山城からも同様の信号です!」


 束が思っていた正にそのタイミングで、速力25ノット未満の扶桑型2隻より信号が送られてきた。


「却下だ。こんな敵勢力圏のど真ん中に置いていけるか。それに、大和より遅いって意味じゃ長門も伊勢も……」


「駆逐艦時雨より信号! 艦長・木村少佐より意見具申、『大和援護ノ要アリト認ム、GF司令部ノ指示ヲ乞フ』!」


 意見具申だと? 駆逐艦の艦長ふぜいが何で……いや。束はいつかの昼食の席を思い出す。

 あの艦の艦長は、五十子と同郷だった。それだけじゃない、扶桑と山城にも。


 くそっ、どいつもこいつも情に流されやがって。

 

「いいか。GF司令部つったって、山本長官がいねえんだから次席の指揮官は……」


 戦艦日向のサーチライトが明滅した。


「第一艦隊司令部、高須中将からです! 『第一艦隊ハGF司令部ノ指示ニ従フ』!」


「……高須さん、ぶん投げやがったな」


 束は思わず舌打ちする。だが、他艦からの信号はそれで終わらなかった。


「後方の陸奥より信号、『GF司令部ノ指示ヲ乞フ』!」

「第三水雷戦隊・川内より信号! 『我決戦ノ用意アリ! 至急GF司令部ノ指示ヲ乞フ』!」

「北上より信号!」

「大井からも信号!」


 見張員達の報告の声が、重なり合って聞き取れない。今や艦隊のほとんどの艦が、信号を瞬かせていた。

 艦長の矢野大佐が、ひきつった笑顔で、


「あのう、宇垣少将。返信はどうすれば……」


 束は無言で、奥歯をきつく噛み締めた。



 ――名門宇垣家のご息女が、作戦に私情を挟んだりはしませんわよね。


 ――貴女は特別よ。私をがっかりさせないで下さいな。


 今も頭を蝕む、嶋野の声。

 それでも。



 ――たばねえの美味しい焼き鳥がお腹いっぱい食べられて、多恵は幸せなの。


 可愛い多恵。もっといっぱい食わしてやりたかった。



 ――わたしは、みんなが助かる可能性に賭けてみたい。


 五十子先輩。あんたは強いよ。甘過ぎて、優し過ぎて、強過ぎる。


  

 ――このミッドウェー海戦の結果を変えることが、僕にできる唯一のことだと考えました。


 源葉。

 ずっとあたしたちは、決められた線の上を終わりに向かって歩かされてるような気がしてた。

 けれどお前が未来からやってきて、少しだけ何かが変わるかもって、そう思えたんだ。


 束は顔を上げた。

 傍らに立つ寿子は今はもう激することなく、束のことを黙って見つめている。

 だが、その目ははっきりとこう言っていた。

 今度はあなたが決断する番です、と。







 大和、第一艦橋。

 高級士官達が一斉に敬礼する衣擦れと共に、連合艦隊司令長官・山本五十子が姿を現した。

 凛然とした面持ちに、艦橋内に静かな緊張が走る。


「その……本艦の主砲の内径は、本当は46センチです。軍令部からの厳命で、今までずっと隠していて申し訳ありませんでした」


 猫背を丸めて低頭する艦長・高柳大佐に、五十子は気にした様子も無く続きを促した。


「最大射程は4万1852メートル、ビッグセブンを凌駕します。しかし、現在敵の制空圏であり弾着観測射撃が行えない以上、正確な射撃は困難かと……」


「目標が動かない島なら、どうかな?」


 瓶底眼鏡をかけた目を瞬かせる高柳艦長を、五十子は壁際の机に連れていく。


「これを見て、艦長」


 広げられているのは、北太平洋中部の海図。


「わたしたちが『ミッドウェー』と呼んでるのは、敵飛行場のある東のイースタン島に、西のサンド島といくつかの小さな島、それらを囲む直径約10キロの珊瑚礁。何も飛行場に命中させる必要はないの。環礁の中に着弾させるだけで、十分な脅しになる」


 五十子の白革の人差し指が、半円形のリーフをぐるりと一周する。


「……脅し、ですか?」


「そう。目的は大和の脅威を示し、ヴィンランド軍の注意を南雲機動部隊から一時的にこちらへ引き付けること。……できるかな?」


 五十子の真剣な瞳が、高柳艦長の眼鏡をじっと覗き込む。艦長はもういっぺん瞬きして、大きく頷いた。


「は、はい、できます! じゃなくて、やります!」


 五十子は淡く微笑むと、


「それじゃあ、砲撃は任せたよ。わたしは防空指揮所で、敵機来襲時の回避運動を指揮するから」


「え……ええっ!」


 高柳艦長の瓶底眼鏡がずり落ちる。他の士官達も、顔を見合わせざわめいた。


「いけません長官! 防空指揮所に上がるのはわた、艦長の役目です! 長官はむしろ安全な司令塔にお入り下さい!」


 出口へ向かう五十子を、艦長は眼鏡がずり落ちたまま止めようとして、磁気羅針儀にぶつかり転倒した。

 大和の集中防禦区画ヴァイタルパートの中枢である司令塔は500ミリの甲鉄で覆われ、大和と同じ46センチ砲で撃たれても耐えられる。

 少なくとも剥き出しの防空指揮所で司令長官が敵機に生身をさらすなど、常識的には有り得ないことだ。

 振り返った五十子は、床に尻餅をついている高柳艦長に微苦笑すると、戻ってその肩に手を置いた。


「46センチ砲のための大和、そうだよね? その指揮に専念して欲しいの」


 助け起こしてから、もう一度肩を叩く。


「高柳艦長は、兵学校で砲術が得意だったんだよね。期待してるよ」


 言葉を失った艦長を後にして、五十子は防空指揮所へラッタルを上がっていく。

 一部始終を固唾を飲んで見守っていた従兵の小堀は、弾かれたように五十子の背中を追った。

 防空指揮所へ出ると、頭上には照準指揮装置を載せた15メートル測距儀が両腕を広げている。

 両端の対物レンズが、陽光を反射して眩しい。水偵を上げての弾着観測射撃が出来ない以上、測的はこれだけが頼りだ。

 驚いた様子の見張員達に「よろしくね」と声をかけている五十子のもとへ、小堀は駆け寄った。どうしても、言わなくてはならないことがあった。


「小堀一水? どうしたの」


「長官……無礼を承知でお願いがあります!」


 従兵として仕えてきた小堀でも、普段と違う険しい顔の五十子に話すのは殊更に勇気が要った。


「どうか……どうかこちらにお召し替え下さいっ!」


 差し出したのは、赤いリボン。

 五十子が欠かさずしてきた髪飾りだった。今、五十子がしているのは白いリボンだ。

 どうして、と視線で問いかけてくる五十子に言上する。

 

「そのっ、帝都に空襲があった時から、長官が白いリボンをされているのがずっと気になっておりました。まるで、し……」


 ごくり、と言葉を飲み込む。「死に装束」とは、怖くてとても言えなかった。

 五十子はしばらく無言だった。小堀は縮こまる。

 どうしても、長官に生きていて欲しかった。それでも、あまりに出過ぎたことをしてしまった。怒っているに違いない、そう思った時。


「……最初は、そうだったのかも」


 潮風が吹く中で聞き取れるぎりぎりの、小さな声。


「でもね、考えを変えてくれた人がいたの。リボンは、何となくそのままになってた。……ありがとう」


 呟いて、五十子はおもむろに身をかがめた。

 軍帽を脱ぐ。


「付け替えてくれるかな、小堀一水」


 白いリボンから赤いリボンへ。

 言い出しておきながら恐れ多くて躊躇した小堀だったが、意を決して五十子の髪に手を触れた。


「失礼します、長官」


 白をほどき、持ってきた赤いリボンを結んでいく。


「手、器用だね。部活どこだっけ?」


「華道部です」


「えへへ……かわいく結んでね」


 司令長官の髪からは、優しい香りがする。

 小堀は何故だか、もう長いこと会っていない郷里の母を思い出した。

 やがて、リボン結びが終わる。


「やっぱり、赤の方が似合う?」


 立ち上がった五十子はウインクして、頭をちょこんと傾げてみせる。

 赤いリボンと髪が、風に踊る。

 小堀は心から返事ができた。


「はい!」


「そっか」


 五十子の顔に、いたずらっぽい笑みが咲いた。その時。


「70度、敵機来襲!」


 見張員の報告が、空気を切り裂いた。


「雷爆連合! 約50機! 本艦に向け突っ込んでくる!」


 巨大な測距儀が、軋みを上げて旋回している。


「総員、対空戦闘用意!」


 五十子が命じた。直後、その手が小堀に伸びる。


「ここは危ない。中へ!」


 背中を押され、小堀はラッタルに追いやられた。後ろで金属の扉が閉められる。

 対空戦闘ラッパが鳴り響き、大和は建造以来初の実戦へ突入していく。

 小堀が握り締めた白い方のリボンには、まだ五十子の体温が残っていた。

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