第39話 今この海域で、こいつに追い付ける敵機はまずいないね
ハワイ、太平洋艦隊司令部。
山の頂からパールハーバーを見下ろす提督執務室には、司令部に詰めるネイビーガールズの主だった幹部達が参集していた。
「命令を全部隊に徹底させなさい。攻撃目標をヤマトに変更。イソコ・ヤマモトを殺すのです」
情報主任参謀のミリーナ・レイトンは、上官のいつもと変わらない冷厳な采配に耳を傾けていた。
オペレーション・ヴェンジェンス(報復作戦)。
前線にアドミラル・ヤマモトが現れた場合、進行中の他の作戦に優先しこれを抹殺する。
敵指導者の
「提督、ミッドウェー基地航空隊の損耗率は80%を超えています。ヨークタウンも長くはもちません。残りのエンタープライズとホーネットの戦力で、確実に仕留め切れるかどうか」
作戦参謀の報告に合わせて、ミリーナはセシリア・ニミッツの机に資料を差し出す。
「あの新型戦艦に関する葦原の機密保持は、開戦前から徹底しています。ONI(海軍情報部)が掴んだ情報では、ヤマトは16インチ(40・6センチ)砲9門搭載、45000トンクラスとのことですが……」
「当然、
セシリアはそう言って、ONIの資料を一瞥もせず返してきた。ミリーナも同感だったので苦笑しつつ受け取る。
16インチ砲では、ビッグセブンと変わらない。資材の乏しい葦原が、決戦兵器として送り出してきた戦艦なのだ。
「……それでも空母2隻あれば最低でも大破、航行不能には出来るはずです。それ以上は望みません」
意外な発言に、ミリーナ含め全員がセシリアを凝視する。
プラチナブロンドの魔女は、部下達でも机上の海図でもなく、チェス盤を見ていた。まるでそこに、本物の戦場があるかのように。
続く彼女の言葉に、ミリーナ達は我に返る。
「サタリー・パイの第1任務部隊は、今どこにいますか」
「はっ。第1任務部隊はサンディエゴを発し、現在はハワイ北西約1200浬で本国防衛のため警戒中です」
「直ちにミッドウェーに向かわせなさい」
急な指示を受けた作戦参謀が、表情に困惑を浮かべた。
「は……その、本国の守りはよろしいのでしょうか。ワシントンは、敵の次の攻撃目標が西海岸の都市だと心配しているようですが」
「心配させておけば良いのです」
「しょ、承知致しました!」
第1任務部隊は、パールハーバー奇襲による長期入渠を免れた戦艦7隻を基幹とする水上打撃部隊だ。
うちペンシルベニア、ニューメキシコ、アイダホ、ミシシッピー、テネシーは14インチ(35・6センチ)砲12門搭載。
そしてコロラドとメリーランドは、葦原のナガト級に対抗できる16インチ(40・6センチ)砲8門を搭載したビッグセブンの一角。現時点で太平洋艦隊が持つ最強の戦艦だった。
最初から、こうするつもりだったのか。
ミリーナは、16歳にして飛び級で大将になった少女の顔を密かに観察した。
碧氷色の瞳はいつも通り静謐で、何事にも動じず淡々としているように見える。だがそこに、普段よりも強い意志の光を感じるのは錯覚だろうか。
イソコ・ヤマモトという敵将に、ミリーナはかねてから畏敬の念を抱いていた。
開戦劈頭、このパールハーバーを空母艦載機で奇襲するという画期的な作戦を実行させた指導者。
あの時までヴィンランド海軍上層部でさえ、航空母艦という艦種を離島に飛行機を運ぶ輸送船ぐらいにしか思っていなかったのだ。パールハーバー奇襲は、空母の比類なき戦力投射能力を実証してみせた。
カルタゴがハンナ・バルカを生んだように、滅びる運命にある国家からはときに傑出した名将が現れるらしい。この戦争に葦原は負けるだろうが、イソコ・ヤマモトの名は永遠に軍事史に残るだろう。
逆にイソコさえいなくなれば、今後の葦原海軍の動きは予測も対処も極めて容易になる。硬直的な葦原海軍で、異彩を放っているのはイソコだけだ。
彼女の存在に比べたらミッドウェーを巡る戦いなど取るに足らない。
殺すべきだ。
その見地から、ミリーナは今回のセシリアの判断は正しいと考えている。
ただ、一つ。
ミリーナは視線を、応接用のソファーでいびきをかいている暗号解読班のタリサ・ロシュフォートに移す。あろうことかパジャマ姿で著しく軍規を乱しているが、そのままにさせたのはセシリアだった。成果をあげた者に対する提督の寛大さは、今に始まったことではなかったが……。
「ニミッツ提督。敵がこちらの暗号解読に気付いて、偽情報を流している可能性は無いでしょうか」
ミリーナは情報将校として、唯一の懸念を口にした。
葦原の連合艦隊が創設以来、司令部を海上の旗艦に置く伝統を墨守していることは知っている。
潮の匂いも波の音も届かない、この司令部とは違って。
だが、連合艦隊司令長官の座乗艦が戦いの最前線に突出するなど、本当に有り得るのか?
「例え気付いていたとしても、彼女は来ますよ」
セシリアは、微かに笑ったように見えた。
シュガーコーティングされたドーナツを齧り、細い銀の眉根を寄せる。
「……やはり貴女は甘過ぎます、イソコ」
冷めたコーヒーで残りのドーナツを流し込み、呟いた。
「部下の駒を守るために、キングが前に出るなど」
――五十子さんを止めないと。
煙と
洋平は拳を握った。
火傷を負った掌に爪を立てると鋭い痛みが脳髄を抉ったが、今はその痛みでさえ物足りなく思えた。
赤城を囮にしたのも、死を覚悟して遺書を書いたのも。全ては未来を変えて、五十子を救うためだったのに。
確かに、洋平の知る史実は変わった。でもこれでは、五十子の
坊ノ岬沖海戦で、大和は敵襲から僅か2時間で沈んでいる。敵襲の中身は、空母11隻から飛び立った艦載機386機の波状攻撃だ。今いる敵の空母と基地の航空戦力はそれよりずっと少ないだろうが、戦艦1隻沈めるのに不足とは思えない。
そして五十子は、間違いなく助からない。艦と運命を共にするような無意味な死に方はせずとも、彼女の性格からして最後の乗組員を逃がすまで退艦しようとしないだろう。結果は同じだ。
「五十子さんを止めないと」
今度は声に出して言った。亀子と草鹿が、揃って洋平の顔を見る。
みんな無事だって伝えるんだ。誤解ばかり招いた暗号電文じゃなく、会って直接。
だけど、どうやって?
思わず天井を仰ぐ。敵の攻撃で穿たれた穴から、雲一つ無くなった空が洋平を見下ろしている。
空。
大和の位置は、皮肉にも先程からひっきりなしに飛び交うようになったヴィンランド側の平文通信のおかげで正確に掴めていた。急ぎの時は気にせず平文を使うのが敵の流儀らしい。
ここから北北西約90浬を、単艦で向かってきている。
五十子が無理をしたのか、史実の赤城と大和との距離300浬よりはるかに近い。
「草鹿さん、この空母に飛べる艦載機は」
気付けば、そんな問いが口をついて出ていた。
「無いさ! キミが全機発艦させたんじゃないか」
草鹿は呆れたように首を左右に振り、肩を大きくすくめてみせる。
「補用の機体も、さっきの火事で燃えてしまった。搭乗員もいないし、もうこの艦に飛ばせる艦載機なんて1機も……」
大袈裟なジェスチャーの途中で、草鹿がはっとした顔で黙る。何か思い出したように。
それから唐突にきびすを返し、大股で歩き出す。腰で揺れる軍刀の後ろを、洋平は何事かと追いかける。
中央ブロックを出た草鹿の向かった先は、艦の後方だった。赤城の格納庫は隔壁によって区切られている。敵の攻撃で炎上した中央の他、前方、そして後方に。
「ここも駄目か……」
後方ブロック。通路の壁は焼け爛れていて、洋平は思わずそう溜め息をついた。無言の草鹿の後に続いて、恐る恐る格納庫に入る。
扉から差し込む一条の光に照らされて、奥に何かがあった。自分の影法師が邪魔でよく見えず、脇へどく。
そこに見えたのは、単発複座の艦載機が1機。
「やった、無事だ!」
快哉を上げて草鹿が駆け寄っていく。
洋平は暫しぽかんと、その機体に見入った。
これまで見たようなカウルのずんぐりした艦載機とは違う、先の尖った機首と縦に引き絞られた細身の胴体。機首の下には大きな口が開いていて、まるでサメのように見える。
これは――
「どうだい、海軍航空技術廠が独自に開発した試作機さ」
「これって……彗星じゃないですか!」
大戦後半に登場する、海軍の主力艦爆だ。よじ登って計器類を確かめていた草鹿は首をひねり、
「すいせい? 十三試艦爆だよ。まあ、艦爆といってもこいつは高速偵察機仕様だけどね」
そうか、今はまだ彗星じゃないのか。
例のwikiのどこかに書いてあった。ミッドウェー海戦時、南雲機動部隊には試作段階の彗星が偵察機として配備されていたと。
でもおかしい。史実では配備先は赤城でなく、二航戦の蒼龍だったはず。
「ふふ、速そうだろう。最高速度は時速522キロ。今この海域で、こいつに追い付ける敵機はまずいないね」
「草鹿さん、何でこの試作機が赤城に?」
尋ねると、それまで得意げだった草鹿の声が急に変調した。
「え……? い、いやそれは……多恵丸に頼んで、特別に譲ってもらったのさ」
どういうわけか後ろめたそうに、
「ほら、言ったじゃないか。も、もうじき着任記念日なんだよ。汐里さんと……その、ボクの」
「?」
話が見えない。目の前の彗星と、2人の着任記念日とやらに何の関係があるのか。
「だから、練習してたのさ。記念日にこの新型機に汐里さんを乗せて、2人で空を飛ぼうと思って。これ、2人乗りだし。新型でかっこいいし」
「……あー」
「公私混同だって言いたいんだろう? でもボクは汐里さんに、飛行機が苦手なの克服して欲しくて……ボクは今でこそ参謀長なんかしてるけど、元は飛行機乗りだ。ボクが彼女にしてあげられることなんて、これくらいしか」
洋平は半ば呆然と、草鹿の言い訳を聞いていた。
彼女達の運命は、介入しなければ洋平の知る史実で固定されているものだとばかり思っていた。
確かにそれがこの世界の法則かもしれない。
けれど、運命を変えるきっかけはあちこちに転がっているのだ。こんなところにも。
「草鹿さん、これに僕を乗せて下さい」
「えっ?」
「五十子さんを止めないといけない。僕を乗せて、大和まで飛んで下さい!」
一航艦司令部を説き伏せるのは大変だった。
峰様ファンの士官達は総じて反対し、最後には号泣した。
南雲からは、「峰ちゃんを頼みます」と言われた。最初の頃とは見違えるくらい気丈だったが、それでも草鹿が軍刀を預ける時には俯いて嗚咽を漏らしていた。
そういえば、亀子も別れ際に泣いていた。こっちは多分、五十子のことが心配なんだろう。
そして洋平は今、十三試艦爆の後部座席にいる。
座席は機体後方を向いて固定され、目の前には低く滑らかな風防と、武骨な九二式7・7ミリ機銃。
さっき洋平に、落下傘の背負い方と機銃の撃ち方を教えてくれた整備の少女が駆け寄ってきて叫んだ。
「申し訳ありません! 飛行甲板の修復にもう少し時間が!」
首を回して後ろへ目をやると、飛行甲板の中央にはまだ痛々しい破口が残っていた。
「ははっ、心配要らないさ」
朗らかに笑ってみせたのは、洋平と背中合わせの操縦席に座る草鹿だ。
「この機体は本来、250キロの爆弾を搭載して発艦できるよう設計されている。艦尾から行けば、滑走距離が多少短くても飛び立てる……はず」
「はず?」
「ははっ、鎧袖一触さ!」
久しぶりに聞いたような気がする、その不吉な四字熟語。
改めて草鹿が座る操縦席をよく見ると、上から下までメーターがびっしりで目眩がした。何だこれは、松本零士がデザインしたのか?
「草鹿さん……これ、本当に飛ばせるんですか」
「安心したまえ、ボクは飛行機にすごく詳しいんだ」
「……不安になってきたんですが」
「失敬な! 霞ヶ浦では教官みたいなこともやってたんだぞ」
「何の教官です」
「飛行機を飛ばすために欠かせぬ精神力をいかにして養うか」
やっぱり不安だ。
だが、自分はそもそも草鹿達の手を借りなければ、高さ2メートルはあるこの席まで上がれさえしなかったことを思い出し、恥ずかしくなり言うのをやめた。
700分の1プラモデルでは、艦載機は指にのるほど小さかった。その中でも特に小さかった彗星の中に、今こうしておさまっている。
衝撃。そして暴力的な振動。
3枚のプロペラが回り始め、整備員が散っていく。エンジンがかかったようだ。
洋平は視線を後方に戻し、ベルトをきつく締めた。
機体が動きだし、徐々に加速する。
流れていく視界の中で、帽子を振る大勢の海軍乙女達が見えた。艦橋の上で敬礼する数名の白い人影も。
だが、洋平には敬礼する余裕が無かった。きっと草鹿がやってくれているだろうし、誰も洋平のことなど見ていないだろう。ただ、びゅうびゅうという風切りと、全身を小刻みに震わせ続けるエンジンの振動だけが五感を支配していた。
いつ車輪が甲板を離れたかも覚えていない。
〈聞こえるかい、占い師君!〉
頭の飛行帽に巻き付いたゴム管越しの草鹿の声で、洋平は自分達が無事に発艦できたことに気付いた。
送話口を手に取り、「聞こえます」とどうにか答える。
艦攻や艦爆の搭乗員が伝声管で会話するのは映画などで観て知ってはいたが、狭い機内なのにどうして必要なのかは今までぴんとこなかった。
洋平が乗ったことのあるような飛行機とは違う。風防の隙間から入ってくる風の音とエンジンの振動が凄いし、いつまでも続く。
これだけ震えると声も濁音混じりになって、重要な意思疎通には伝声管が不可欠だとわかる。
〈いま脚をしまったけど、これ普通の油圧式じゃなくて電気駆動だからね!〉
重要でも何でもなく、ただの自慢話だった。
〈ははっ、良い振動だろう! トメニアの技術を導入した液冷発動機さ! 細くて小さいエンジンで、機体の空気抵抗を減らしてるんだ!〉
「技術を導入したっていうか、ライセンス生産ですよね。慣れない機械で整備とか大変なんじゃないですか」
この試作機が彗星になってからあまり活躍できなかった歴史を知っているので、つい嫌味を言ってしまう。
〈む。キミは海軍の秘密を知り過ぎているな〉
「まあ、未来人ですから……」
〈これはもう、本格的に海軍乙女になって貰うしかないな! 今度ボクの刀で女にしてあげよう!〉
「お断りします、いつの時代の刑罰だよ!」
〈下を見たまえ。キミが守った艦隊だ〉
不意を突かれた。
下を見ると海面に映る太陽が追いかけていて、眩しさに一瞬目がくらむ。
その眩しさの向こうに、赤城の姿があった。
前衛に長良、左右に嵐と舞風。
はるか後方には金剛が見える。
「……草鹿さん、ありがとうございます」
〈飛んでることかい? これで貸し借りなしさ〉
「それだけじゃなくて。今までの戦い全部です。……反対のために反対する人だっていそうなものなのに、草鹿さんは理由なしに反対したことは一度もありませんでした。艦隊にとって何が最善か、いつも真剣に考えていました」
作戦指揮を巡り、2人が激しく対立した時のことを振り返る。背中合わせの草鹿も同様に思い出しているのか。液冷発動機の振動も、今は過去のわだかまりを溶かしてくれているようだった。
〈……当たり前さ。ボクは汐里さんの、南雲汐里長官の参謀長なんだからね〉
だから、と草鹿は優しく続ける。
十三試艦爆の機速が上がる。
〈キミも帰るべきだ。キミが本来仕えるべき長官のところに〉
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