第38話 作戦名ヴェンジェンス


 洋平は草原に立って、五十子と空を眺めていた。

 これはきっと、死ぬ間際に見る幸せな夢だ。

 空は雲一つ無くて、時折吹く穏やかな風が五十子のリボンを微かに揺らしている。

 今なら言えるかもしれないと思った。

 出撃の日、赤城の艦橋裏で言おうとして言えなかったこと。

 でも。


「わたし、行かなくちゃ」


 不意に五十子がこっちを向いて笑う。


「わたしにはもう、みんなを励ますことぐらいしかできないから」


 草原は、いつの間にか滑走路に変わっていた。

 大きな飛行機が停まっている。エンジン音が響き、双発のプロペラが回り始める。


 ――その飛行機に乗っちゃ駄目だ!


 歩き出した五十子の背中に、洋平は叫んだ。

 叫んだはずなのに、それは何故か音にならない。

 五十子が離れていく。彼女の故郷の歌を口ずさみながら。

 洋平は五十子を止めようと駆け出した。

 自分が死ぬのは構わない。そもそも自分は、あの時から既に死んでいたのだ。

 しかし彼女は。五十子だけは。

 駆けても駆けても、2人の距離は縮まらない。

 それどころか、洋平の足はずぶずぶと地面にめり込んでいく。

 慌てて辺りを見回す。

 五十子も飛行機も滑走路も消えていた。

 そこにあるのは、見知ったあの暗い教室。そして。


「わかってると思うけど、あいつと口きいてんのクラスで源葉だけだから」


 重い鈍痛が、頭にのしかかる。やめてくれ。


「かまう奴がいるからクズが調子に乗るんだよ」

「付きまとわれて迷惑ですって、先生に相談したら?」

「席替えてもらいなよ」

「話しかけられても目合わせんな。相槌打つのもNGだから」

「みんなお前のことを見てるぞ」


 やめてくれ! 今は五十子さんを助けなきゃならないんだ!

 両手で耳を塞いでも、無数の声は洋平を内側から浸食していく。


「――事故で亡くなられたそうです。皆さんも駅で電車に乗る時は、誤ってホームから落ちないよう十分に注意して……」


 もうやめてくれ。

 頭が痺れ、手足に力が入らなくなり。


 ――裏切り者。


 氷柱のような声が突き刺さった。


 ――お前なんかに、五十子さんを救う資格は無い。


 頭が痛い。息ができない。

 足元に広がる闇に、身体が沈んで……





「目を覚まして、源葉洋平!」





 鋭い声が、鼓膜に響いた。

 口の中いっぱいに流れ込む、柑橘系の甘い匂い。

 咳き込むと身体のあちこちに痛みが走り、意識が覚醒する。

 目を開けて最初に飛び込んできたのは、洋平の上から鉄骨をどける草鹿峰の姿だった。


「やあ占い師君。フレーバー酸素デコポン味で一命を取り留めたようだね!」


 得意げに言われて、自分の口に押し当てられたフェイスマスクに気付く。よりによって危機の元凶に命を救われるとは。

 格納庫の火災は収まったようだった。

 兵士達が防火扉を開き、空気を入れ換えている。


「……ありがとうございます。僕なんかのために、わざわざ」


「礼ならそこにいる彼女に言いたまえ。真っ先にキミを追って、飛び出して行ったんだからね」


 相変わらずの馬鹿力で鉄骨を放り投げてから、草鹿が洋平の傍らに視線を向ける。

 そこに、酸素ボンベを背負ったままの少女がしゃがみ込んでいた。


「……亀子、さん?」


 荒い息に合わせて上下する、小さな肩。

 汗まみれの顔に、いつもは寝癖だらけの髪がべっとりと貼りついている。


「亀子さんが、助けてくれたの? どうして……」


 ひょっとして、さっき洋平を呼んでくれたのも亀子か。


「……命を大切にしろと言ったのは……あなた……」


 背負っていたボンベを下ろすと、亀子は膝をついた。

 洋平はよろめきつつ身体を起こす。落ちてきた鉄骨は幸い、周りにあった機材が隙間をつくり直撃しなかったようだ。火傷した箇所はひどく痛むけど……。


「……それに」


「え?」


 亀子は指を動かして、洋平の胸にかかった参謀飾緒に触れた。


「あなたが死ぬと、山本長官が悲しむ」


「あ……」


〈赤城乗組員の皆さん。こちら一航艦司令長官の南雲です〉


 生き残っていたスピーカーが、南雲汐里の声を伝える。


〈本艦は敵機の攻撃に対し回避運動を行い、魚雷については全弾回避したものの、急降下爆撃を受け爆弾3発が命中。さらに敵機の体当たりを受けました。皆さんの決死の消火活動により、現在火災は鎮火しつつあります。繰り返します。現在、火災は鎮火しつつあります〉


 南雲の声は力強く、艦隊司令長官に相応しい威厳があった。


〈引き続き、敵の第三波第四波が予想されます。私は赤城を退艦しません。皆さんを信じ、命を預けます。各員その義務を果たし、艦を守って下さい〉


「……泣き虫が、言うようになった」


 亀子がぼそりと呟く。草鹿が拳を上げる。


「よおし、みんな! 格納庫と飛行甲板を大急ぎで復旧させよう!」


 少女達から「おー!」と喊声が上がった。

 高揚感の中。洋平は1人、夢で見た五十子のことを思い出していた。

 目覚めたばかりだからか、夢の記憶は未だ鮮明だ。

 こうして自分は助けられ、赤城も最悪の状況を脱したというのに、嫌な胸騒ぎがした。


「草鹿参謀長!」


 防火扉の方から通信参謀が、人混みを掻き分け草鹿に駆け寄ってくる。

 彼女の握り締めた白い電報用紙に、洋平は何故か五十子のリボンを思い出す。


「大変です! GF司令長官から全艦艇宛で、こんな電文が!」


 受け取った電報を広げた草鹿の眉間に、怪訝そうな皺が寄った。


「……大和がミッドウェーに突入する? ……山本長官の陣頭指揮で? 何だこれは」


 大和、突入、陣頭指揮。

 草鹿の声が、いやにはっきり聞こえる。足の指先から背中まで、急速に凍り付いていくような感覚。


「こんなものは作戦とは呼べない。一体誰だ、馬鹿な思い付きをしたのは! いくら大和が不沈艦だからって、敵機の攻撃圏内に護衛も無しで……」

 

 文句を言う草鹿の手から電報がむしり取られた。亀子だった。草鹿はその形相にぎょっとした様子で黙る。

 きっと自分も今、同じくらいひどい顔をしているだろう。


 草鹿の知らないことを洋平達は知っていた。

 暗号は解読されているのだ。大々的に打たれたこの電文を、ヴィンランド軍が見逃すはずがない。


「……どうして」


 ぐらりと揺れた亀子の肩を、洋平は危ないところで支える。

 

「不沈艦なんて、無い! それを知ってる長官が、どうして!」


 叫ぶ亀子を落ち着かせようと懸命に言葉を探した洋平は、その可能性に気付き、息を呑んだ。

 まさか、それでなのか。

 洋平も一航艦司令部も、こうして無事だ。だが、もし赤城炎上の知らせが大和に届いた時点で、従兵の小堀一等水兵が最悪の事態を想像し、五十子にあの遺書を渡してしまったとしたら。

 

「……僕のせいだ」


 迂闊だった。

 わかっていたはずだ。誰かの命を救うために自分にできることがあると知った時、彼女がどれだけ勇敢で、どれだけ優しいか。

 そして柱島泊地を出撃する日、彼女はわざわざ赤城までやってきてこう言ったではないか。


 「わたしは誰一人、最後まで見捨てない」と。







 その組織は、「ハイポ」という通称で知られていた。ハワイのローカルラジオの通話コードからとられたものだ。

 正式名称はFRUPAC(Fleet Radio Unit Pacific)。

 ヴィンランド海軍の組織図上は作戦部通信保全課OP‐20‐Gの管理下にある一無線局という建前だったが、その実態は敵国の無線通信傍受と暗号解読を任務とする、コミント機関である。

 パールハーバー司令部の窓の無い地下室が、彼女達の戦場だった。

 葦原の艦船がひとたび電波を発すれば、真空管式電子計算機を使った三角法原理の演算によって方位を測定し、所在地点を突き止める。

 敵艦の呼出符号がわからない場合でも電波をオッシログラフにかけることで、葦原の無線士がモールス信号のキーを打つ強さの微妙な違いからその癖を読み取り、どの艦かを特定することも可能だった。

 だが、彼女達が葦原との情報戦で決定的優位に立てたのは、何といっても暗号化された通信内容の解読能力にあった。

 ヴィンランドの葦原に対する無線傍受の歴史は、実際のところ開戦のはるか前、ヴィンランドと葦原がまだ表向き友好的関係を保っていた頃にまで遡る。

 暗号通信は、内容の一語一語を乱数に変換して打電する。ヴィンランドは1日1万語を超える葦原側の通信を全て傍受し、膨大なデータを蓄積することで葦原の暗号を徐々に丸裸にしていった。

 開戦前夜には葦原が暗号変換用に使用している印字機とそっくりの模造品を作れるまでに、ヴィンランドは葦原の暗号技術をマスターしていたのだ。

 しかし今、「ハイポ」暗号解読班のスタッフは開戦以来最も過酷な勤務を強いられていた。

 葦原海軍がミッドウェー作戦の前に、乱数表を更新したせいだ。

 班長のタリサ・ロシュフォート中佐は、もう何日も家に帰れていなかった。

 ホノルルに住んでいる祖母が病気で入院したが、見舞いに行く時間も無い。電話口で弟に「姉ちゃんの人でなし」と罵られた時は気が滅入った。

 ともあれ休日返上・不眠不休で解析作業を進めたおかげで、葦原の新しい暗号は9割方攻略できた。

 情報インテリジェンスこそが、国家の存亡を左右する。タリサはこの仕事に誇りを持っていた。


 傍受記録用紙の山を片付けようやく一息ついて、鏡に映った自分の顔を見る。

 普段なら鼻に浮いたそばかすが真っ先に気になるところだが、今はそれ以上に目の下のクマがひどい。

 タリサが大きく伸びをして、36時間ぶりの仮眠をとろうと席を立って長椅子に向かいかけた時だった。

 無線傍受班が、敵信を探知した。

 発信源方位はミッドウェー北北西、240浬。交戦中の敵空母から遠い。別働隊だ。

 オッシログラフの波形を過去のデータと照らし合わせたスタッフ達から、どよめきが上がる。

 敵GF司令部の作戦用通信だった。

 開戦から今日まで葦原本国のハシラジマ泊地から一度も動いたことのなかったGFの旗艦が、ミッドウェー沖に出現したのだ。

 直後、暗号解読班のタイプライターが硬い音を響かせ、解読済みの部分を変換した敵信内容を吐き出し始めた。

 ヤマト、そしてヤマモトという単語が目に入る。

 タリサ・ロシュフォートは出てきた用紙をむしり取るようにして、階段をかけ上がった。自分がパジャマ姿なのも忘れていた。

 仮眠は後回しだ。至急ニミッツ提督に報告しなければ。






 レナ・スプルアンスは、一通のタスキングメッセージを手に立ち尽くしていた。

 既にアカギが大破炎上したとの報告を受けている。

 しかし、そのためにこちらが支払った代償はあまりに大きかった。

 ヨークタウンは敵機の攻撃を受けているとの連絡を最後に、通信が途絶。

 敵襲を免れているエンタープライズも、出撃した艦載機に甚大な損害が出ていた。

 雷撃隊は14機のうち10機を撃墜され、隊長を含め30名が未帰還。

 そして――


「クリス……」


 爆撃機隊は33機のうち31機を失った。62名が未帰還。

 生存者の報告では、後もう一撃あればアカギを撃沈できるという。

 なのに。


『最優先命令。合衆国太平洋艦隊司令長官作戦計画第30-42号・作戦名ヴェンジェンス。現行の優先命令・作戦計画第29-42号を直ちに中止し、攻撃目標をイソコ・ヤマモトが乗艦する敵戦艦ヤマトに変更。いかなる犠牲を払ってもこれを撃沈せよ。セシリア・ニミッツ』


 タイプされた無機質な言葉の羅列を何度目で追っても、そこに書かれていることに変わりはなかった。

 これでは一体何のために、クリス達は――


「アカギに第二次攻撃をかけましょう!」

「ヨークタウンから退避してくる第3航空群も、もう間もなく到着します」

「今ここでアカギに止めを刺さなければ、マクラスキー少佐はじめ第6航空群の犠牲の全てが無駄になります!」


 レナの周りを囲んだ参謀達が、口々にそう訴える。レナは目を閉じた。 

 皆を奮い立たせてくれた歌。別れ際の敬礼と、瞳に燃えていた静かな闘志。

 二度と帰ってこないそれらをレナは束の間思い出し――そして頭から閉め出した。


「ニミッツ提督の命令は絶対です」


 参謀達が黙る。


「ともかく今は出せる兵力がありません。第3航空群を収容した後、部隊の再編成を……」

「お話中失礼します。司令官に無線電話が」


 通信士がやってくる。無線電話? ヨークタウンの通信機能が復旧したのか。


「いえ……それが、ホーネットのミッチャー少将からで」


 その一言で、艦橋内の空気が殺気立った。

 レナは窓の外に霞むホーネットの艦影を睨んで、受話器をとる。


〈やあレナちゃん。おっと、今は司令官だったっけねえ〉


 人を不快にさせるメイベル・ミッチャーの猫撫で声は健在だった。


「……何の用ですか?」


〈すまなかったねえ。エレベーターの修理がちょうど今終わったのさ〉


 レナの辛辣な問いかけにも、メイベルはまるで悪びれる様子が無い。帰ったらただでは済ましません、そんな月並みで情けない台詞を堪えてレナが奥歯を軋ませていた時。


〈ところで、さっき提督から言われたヤマトとかいう敵戦艦の始末。レナちゃんがやるかい? それとも、うちがやろうか?〉


 電話の向こうで、メイベルがにいっと笑うのが見えた気がした。

 彼女は知っているのだ。エンタープライズの攻撃隊が壊滅し、今すぐ出せる兵力が無いことを。

 沈黙の後、レナは受話器に短い返事を叩き付ける。


「メイベルさんにお任せします」






 ホーネット艦橋。


「アカギを横取りするつもりで待ってたら、もっと旨い獲物が転がり込んでくるとはねえ」


 メイベル・ミッチャーは受話器を置くと、そう言ってほくそ笑んだ。

 友軍の不幸は蜜の味だ。罪悪感など微塵も無い。

 アナポリスにいた頃、クラスで盗難があった。

 学校側は、証拠も無いのにメイベルが犯人だと決めつけた。貧しいトメニア系移民の家の娘だったからだ。

 退学だけは免れようと、地元の有力者の男に縋った。あの人間の屑が、まだ幼かった自分に何をしたか。

 処分は停学になった。留年もした。航空の道に進んだのは、単に受け入れてくれる先が他に無かったからだ。

 この世に神なんていない。自由もチャンスも他人から奪うものだと学んだ。

 何の苦労も知らず、ハルゼイのお友達というだけで出世できた小娘にわかるものか。


「姉御、攻撃隊の発艦準備終わったっすよ」


 扉が開き、右目に星のマークが入った少女がひょっこり顔を出す。爆撃機隊隊長のロディーだ。


「よし。商売を始めようじゃないか」

「あの~姉御。なんか、超デカイ戦艦って聞いたんすけど、うちらだけで余裕っすかね?」

「何だい、ビビってんのかいロディー? マレー沖でブリ公の戦艦2隻がくたばるまで、1時間もかからなかったっていうよ」

「別にビビってないすけど! 姉御がカリブに立派な家買えるように、気合入れていくっす!」

「……覚えててくれたのかい」


 メイベルは僅かに頬を緩めて、ロディーの頭に手を置いた。潮風でもつれた髪の毛を、指で梳いてやる。


「優しい子だよ、お前は」

「えっ、ちょっ、きゅ急にどうしたんすか姉御! ついにヤバイ薬でもキメたんすか、ずるいっす、あたしも混ぜて……」

「黙りな! ほら、さっさと行った!」


 頭をはたかれ、涙目でロディーが退出し攻撃隊の発艦が始まると、メイベルはポケットからチューインガムを取り出した。口元には、暗い笑みが戻っている。

 航空機で水上艦を狩れるのが愉快でならない。

 それが開戦前に大威張りで自分達を見下していた、エリート様の戦艦なら格別だ。

 あの日、パールハーバーに置物みたく並んでいた連中を葦原が散々に踏みつけて、空の時代の到来を世界に知らしめてくれた。その葦原が巨大な新型戦艦を建造していたことに、メイベルは軽い失望感を覚える。

 まあいい。エアカバーの無い裸の戦艦など、ただの的でしかない。

 そこに乗っているという敵の大将首もろとも、あっという間に海の底だ。

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