第14話 男の癖に細けえこと気にすんな!


 電話が鳴っている。

 作戦室の片隅かたすみで、源葉洋平はぼんやりとそう知覚した。

 アナログなベルの鳴動音はしばらくすると、受話器を取ったぼり一等水兵の声に代わる。


「お電話ありがとうございます、海軍くれ鎮守府です。はい……このたびの空襲で、多大なご迷惑とご心配をおかけしていることを心よりお詫び申し上げます……申し訳ございません……」


 机に何台も並べられた黒電話は、もう長い間ひっきりなしに鳴り続けていて、交替で詰めている従兵や軍楽兵の少女達が受話器を取って対応している。

 あの空襲の後、海軍には連合艦隊司令部宛に一般国民からの抗議の電話が殺到していた。呉鎮守府がパンク状態になり、海底ケーブルで呉と直接繋がっているこの大和にも電話が回される事態となっている。


〈心がこもってないんじゃ心が! 高いぜにもろうとんのじゃろう? ああ?〉

「真に申し訳ございません、防空態勢の見直し等につきまして海軍報道部から改めて……」

〈もうええ、下っ端じゃ話にならんけえ! 長官じゃ、山本長官を出さんかい!〉

「おかけになっているのは鎮守府で、山本はおりません。恐れ入りますが……」


 電話口から漏れ聞こえてくる相手の罵声に辟易へきえきとする。初日に洋平も手伝おうとしたが、喧嘩になりかけて当番から外された際の相手もこの手のクレーマーだった。空襲の被害に遭った人からの電話は全くといっていいほど無く、かかってくるのはこういう鬱憤うっぷん晴らしのような電話ばかりだ。


節操せっそうねえよな、葦原人ってのは。軍神だ英雌だと持ち上げといて、一つ躓くと掌返してふくろだたきだ」


 洋平の向かいで書き物をしているがきたばねが、低い声で感想を呟く。独り言か、少なくとも洋平に向けた言葉ではないだろうと考え黙っていると、束は顔を上げてじろりと洋平を睨んだ。


「午後から下で作戦会議だぞ。てめえも参謀のつもりならいつまでもこんなところで油を売ってねえで、艦隊の指揮官連中に顔でも売ってこい。つうか、ここにいられると邪魔だ」


 僕をまだ、参謀扱いしてくれるんですか。洋平は束にそう訊ねようとして、怖くて止めた。

 空襲の後、寿子とはほとんど会話らしい会話をしていない。帰りの列車の中でも大和に戻ってからも、寿子は洋平を避けていた。亀子は、洋平の解剖を公然と主張した。だが、2人の態度は当然といえる。一番辛かったのは五十子が、空襲を予告できなかったことについて一言も洋平を責めず、むしろ何かにつけ庇い気にかけてくれたことだった。

 皮肉だ。束の自分に対する無愛想な態度だけは変わらなくて。そこに逃げ込もうとしている自分がいる。


「束さんは行かなくて良いんですか? 参謀長ですよね」


 だから、そんな軽口でお茶を濁す。束はふんと鼻を鳴らして、再び自分の書き物を再開した。


「……面倒臭え。一航艦の草鹿は苦手だし、四航戦のかくとかもベンガルから帰って来てるだろ。あいつらと一緒にいると、なんつうかこう、かぶるんだよ」


 一応返事はくれた。キャラが被るということは、その人達も女子らしからぬ喋り方をするのか。


「ところで、さっきから何を書いてるんです?」


 何の気なしに覗き込むと、束は書きかけのノートをばっと持ち上げた。


「みっ、見るな! 見たら殺す!」


 顔がペンキでもぶちまけたように真っ赤だ。そういえば、連合艦隊司令部で書類仕事は寿子の専任だった。ひょっとして、何かプライベートなものだったのか。


「す、すみません。つい……」


 洋平が謝ると、束も気まずそうにそっぽを向いた。


「あー、まあ、別に隠すもんでもねえか。これはだな、いわゆる日記だよ。あたし達の戦いっつうか、日々の生き様を後世に残したいと思ってだな……あ、てめえ笑うなよ? 笑うとマジ殺すぞ?」


 束に日記を綴る習慣があるとは、なんというか意外だった。考えると特段おかしなことではないのだが、言動に文学少女らしさの欠片も無いからついギャップがあるように感じてしまう。


「笑いませんよ、僕の世界でも日記とかみんな普通に書いてますから。ブログやSNSですけど」


 洋平がそう言うと、束は少し気を良くした様子だった。


「そ、そうか? ブロ何とかは知らねえが、普通の奴等と一緒にすんなよ。この戦争が終わったら、あたしはこれを本にして出版社に応募するんだ。現役海軍乙女が作家デビューだぞ、話題性あるだろ? ちなみにタイトルは戦いで海のくずと消える覚悟をした女達の記録、略して『藻女録もじょろく』だ!」

「タイトルがダサ過ぎ……はっ」


 つい、思ったことをそのまま口に出してしまった。怒らせたかと一瞬ひやっとしたが、


「そうなのか? あたし、そういうのさっぱりなんだ。良かったら、どんなのがいいか教えてくれ」


 驚くほど殊勝な態度をされて、逆に焦る。


「えっ? そ、そうですね。僕のいた世界だと、タイトルだけで話の内容がわからないとそもそも読んでもらえないって風潮があって。できれば、一文になってるタイトルが好ましいですね」

「マジか。うーん、この内容でタイトルを一文にするとなるとなあ。『隣の黒島は今日も昼夜逆転している』とかどうだ?」

「……急にそれっぽくなりましたけど、亀子さんの観察日記だったんですかそのノート? 戦いとか生き様とかはどこへいっちゃったんですか?」


「たばねえ!」


 話が変な方向に転がり出していたところで作戦室の扉が開き、幼い声が飛び込んできた。


多恵たえじゃねえか!」


 束のへの字口から、竹串が落ちそうになる。

 現れたのはワンサイドアップにビー玉みたいな髪飾りをアクセントにした海軍乙女だった。身長といい体型といい子どもっぽいが……たばねえ?


「甲板にいなかったから、たばねえの匂いを追いかけてここまで来たの!」

「へへっ、相変わらず超人的な嗅覚きゅうかくだな。にしても多恵が会議に顔出すなんて珍しいじゃねえか。さては海軍一豪勢な大和ホテルの食い物が目当てか?」

「違うの! 多恵は、たばねえの焼き鳥が食べたくて来たの!」

「お、焼き鳥か。いいぜ、ちょっと待ってな。今猟銃りょうじゅうを出すからよ」


 ここまでの流れるような会話に、洋平はあっけにとられる。ぶっきらぼうな束が戦艦トーク以外で、こんなに機嫌良く話をするのを初めて見たからだ。


「束さん、この子は……え、少将っ?」


 少女の肩章に気付いて慌てて敬礼する。束が八重歯やえばを覗かせ、その肩を誇らしげに叩いてみせた。


「二航戦司令官の楠木くすのき多恵たえだ。こう見えてもあたしと同期、現場一筋の闘将だぜ。多恵、こいつは」

「知ってるの! 未来から来たお兄ちゃんでしょう?」


 束と洋平、揃って口をぽかんと開ける。


「え? いや、それはこいつが勝手に自分でそう言ってるだけで、あたしはまだ信じたわけじゃ」

「多恵は信じるよ? だって匂いでわかるもん!」


 目のきらきらは五十子の1・5倍増し、さらに純粋無垢さをトッピングした少女にそう断言され、思わず自分の肩口を嗅ぎそうになる。なわけないか。だが束は何を思ったのか「へえ……」と洋平を見る目を細くした。


「二航戦の多恵なの。よろしくお願いしますなの、未来から来たお兄ちゃん!」

「……よ、よろしくお願いします」


 ハイテンションに押し切られてしまった。

 それより、この子が二航戦司令官というのは本当だろうか。

 南雲機動部隊と通称される第一航空艦隊は、一航戦いっこうせん航戦こうせん、後から加わった航戦こうせんの三個航空戦隊を基幹とする。

 一航戦の空母は赤城・加賀で艦隊司令長官の南雲中将が戦隊司令官を兼任。

 二航戦は飛龍・蒼龍が所属し、戦隊司令官は洋平の世界だと山口多聞。やはり闘将として知られ、『提督たちの決断』でも航空戦指揮の初期能力値が飛び抜けて高いキャラで……。


「あっ! たばねえ、ごめんなさいなの……」


 元気いっぱいだった多恵が、不意に何かに気付いてしゅんとなる。


「ん、どうした多恵?」

「多恵、せっかくインド洋まで行ったのに、時間が無くて何もお土産みやげ買ってこれなかったの」


 束はきょとんとしてから、同期とは思えない身長差の多恵の頭を、わしゃわしゃっと撫でた。


「土産なら貰ったぜ。こうして多恵が無事に帰ってきたじゃねえか」

「たっ……たばねえ! さらっと恥ずかしいこと言わないでなの!」


 兵学校同期と言われてどうしても思い出してしまうのが、五十子と嶋野の関係だ。

 同期とはいえ軍令部でエリートコースを歩んだ束と、現場一筋という多恵とでは卒業後の軍歴が正反対。反目していてもおかしくないのに、2人は本当に仲睦まじかった。

 同時に、洋平は深い自己嫌悪に陥る。自分はまたしても浅い知識で、未来人の優越に浸ろうとしていた。

 忘れたのか、炎上する横須賀軍港で、敵機を見上げることしかできなかった自分の無力さを。ゲームに無い状況に無様に混乱し、目の前の現実にただ圧倒され。五十子の優しさに守られ、寿子の期待を裏切った。何が未来人だ。


「どうした源葉、しけた面して。恋煩いか? 言っとくが、多恵に手ぇ出したら殺すからな。小さいのが好きなら黒島辺りで我慢しとけ」


 我に返ると、束はどこから取り出したのか武骨な連装猟銃に弾を装填そうてんしているところだった。そういえば初めて会った時ライフルを持ってたな、この人。

 

「いや、そんなこと考えてませんけど……え、まさか本当にやるんですか焼き鳥? 今から?」

「おうよ。まずは材料の調達だ」

「わあい! やっぱりたばねえの焼き鳥を食べないと、葦原に帰ってきたって気がしないの!」


 声援を背に、束は颯爽さっそうと出撃していく。さほど間を置かず、外から物騒な銃声が轟き始めた。




 前檣楼ぜんしょうろう最上階の第一艦橋からさらに上へと続くラッタルを昇ると、そこは防空ぼうくう指揮しきしょになっている。

 防空指揮所はてんで、建物でいうと屋上だ。

 つまり大和で「お前後で防空指揮所な」と言えば「屋上へ行こうぜ」と同義になるわけだがそれはさておき、煙の出る焼き鳥をやるにはもってこいの場所である。

 ただし、屋上の面積の大半は15メートル測距そっきょの基部に占められ、残りのスペースにも景勝地にあるコイン式みたいな大きさの双眼望遠鏡や、魔法の国の喋る花みたいな伝声管が何本も突き出ていて、意外と狭い。

 束は参謀長の権威を躊躇なく濫用して、そこにいた見張員達を残らず追い出した。人払いが完了すると、七輪に炭で火をおこす。既に串に刺さった肉をアルミ缶に入ったタレにつけ、慣れた手つきで焼きに取り掛かる。


「あの、束さん。軍艦って火気かき厳禁なんじゃ……」

火器かき厳禁? それは戦時国際法上の病院船の要件か? んなことより、多恵の分の焼き鳥に間違って唐辛子かけたら殺すからな。気をつけろよ」


 会話している間も、束の神経が七輪の上の肉に集中しているのがわかる。普段のやる気の無い勤務態度とは雲泥の差だ。

 意外に思う気持ちが顔に出ていたのだろうか、多恵が洋平にウインクした。


「たばねえは兵学校の頃から焼き奉行さんなの。それで多恵は、いつも食べる奉行さんなの!」

「懐かしいよな江田えたじま大西おおにしだいと巡検の後こっそり裏庭でバーベキューやって、教官に見つかってすんげえ怒られたよな。でも、あの頃は仕留めた鳥をさばくところから全部自分達でやってたからな。今は下ごしらえとか烹炊所の若い連中につい任せちまう。歳はとりたくねえもんだ」

「あれ~、たばねえ、多恵達と同期なのにもうビーエーになっちゃったの?」

「誰だ多恵に下品な海軍隠語教えた奴は! ……お、よし今だ。2人とも食え」


 肉汁がすみに落ちてジュッと音を立て、立ち昇る香ばしい煙が肉をいぶしている。

 束に言われるまま焼き鳥を取って歯を立てると、外側がカリッと、中も火はきちんと通りつつ柔らかく仕上がっていて、噛み締めると閉じ込められた脂がジュワッとにじみ出てくる。

 絶妙な焼き具合だった。肉自体も、少し硬いがあじがある。洋平の世界のスーパーで売られている焼き鳥は、こんなに旨くない。


「美味しいのたばねえ! たばねえが焼くと、普通のお肉よりすっごく良い匂いがするの!」

「まあ炭火で焼いてるからな。大和も飛龍も、烹炊所の焼き物は電気で調理してるだろ」

「あれ? そういえば、海にニワトリっていないですよね。束さん、これって何て鳥……?」

「男の癖に細けえこと気にすんな! 食え食え!」


 旨いしまあ良いかと、洋平は暫し謎の焼き鳥に舌鼓を打った。

 食べている間は、不思議と嫌なことも忘れた。食事の合間に飲むラムネの冷たさがまた格別だった。

 肉はあっという間に無くなり、多恵がお腹を押さえて「はふう」と満足げに息をつく。


「たばねえの美味しい焼き鳥がお腹いっぱい食べられて、多恵は幸せなの。もういつ死んでもいいの。あ、でもきっとまたすぐ食べたくなるから、結局心残りは無くならないかもしれないの」

「じゃあ多恵が死んだら、あの世まで焼き鳥焼いてやりに行かねえとな」


 後片付けをしながら、束がそう冗談めかして返す。

 多恵の返事が続かない。束は笑うのを止めた。


「……セイロン沖で、何かあったのか」


 多恵は、束が持ってきたラムネケースの上でウサギ柄のニーソックスを履いた足をぶらぶらさせて、「大したことじゃないんだけどね」と呟いた。


「港への爆撃ばくげきこうが不十分でね。第二次攻撃のために艦攻に陸用爆弾を付けてたところに、索敵機から敵艦隊発見の知らせが入ったの。多恵は、爆弾のままでいいからすぐに敵艦隊の攻撃に向かわせて下さいってお願いしたの」


 洋平は思わず居住まいを正した。多恵は既に少女ではなくて、戦隊司令官の横顔になっていた。


「でも南雲さん達は、港と艦隊どちらを攻撃するか長いこと迷った末に、爆弾から魚雷へ換装かんそうすることにして。その換装作業の真っ最中に敵機の爆撃を受けたの。当たらずに海に落ちたから良かったけど、もしあれが多恵達の空母に命中してたらって思うと怖いな」


 聞いたことがある。後のミッドウェー海戦の悲劇と酷似した状況が、2ヶ月前のセイロン沖海戦で既に生じていたと。そして洋平の世界の南雲機動部隊は、その教訓を活かすことができなかった。


「基地の爆撃と敵艦隊の攻撃どっちもやらなきゃいけないんだから、多恵の二航戦では艦攻の爆弾でも敵艦に当たるよう訓練してるの。でも、南雲さん達は雷撃にこだわるの。艦を確実かくじつに沈めるには魚雷じゃなきゃって、時間が無い時でも爆弾を魚雷に換装させないと発艦はっかんを許してくれないの」

「……まあ、それが戦術の常識だからな。南雲達の判断が間違ってるとは言い切れねえな」


 束の煮え切らない返事に、多恵は頬を膨らませる。


「ぶう、相手が装甲の厚い戦艦ならそうかもしれないよ? でも戦艦以外の艦なら、爆撃は効果ありだと思うの。特に空母を見つけたら真っ先にやらなきゃいけないのは撃沈よりも、飛行甲板を壊して使えなくすることだもん。これは一刻一秒を争うのに。……今回は敵に空母がいたの。たまたま向こうが攻撃隊を発艦させる前に沈められたけど」


「ハーミスは修理中で、艦載かんさいを陸に下ろしていました。だから基地からの反撃だけで済みました」


 束と多恵の視線が、洋平に集まる。遅れて思ったことを口に出していたことに気付き、自分をぶん殴りたくなった。しかし、2人の目が強く続きを促し、洋平の口はそのまま勝手に動く。


「でもそれは結果論で、多恵さんの言うことが正しいです。敵の空母を発見した時点で、どちらが早く相手の空母に向けて攻撃隊を発進させられるかの競争になる。この世界の南雲さんがどういう人かは知りませんが、決断するのに時間がかかったということも含め、指揮に問題があると思います」


 結局、最後まで喋ってしまった。戦争における重大イベントだったに違いない本土初空襲を知らなかったのに、海戦のことになるとやはり立て板に水を流すように、すらすらと知識や考えが出てくる。

 2人の少将は、洋平の言葉を静かに受け止めていた。何かを確認するように、視線を交わす。


「多恵。山本長官に意見具申するつもりはあるか」


 先に口を開いたのは束だった。

 多恵は邪気のない微笑みを浮かべて、首を横に振った。


「ううん。多恵は、たばねえの焼き鳥が食べたくて来ただけなの。だから今日は、ありがとうなの」


 束はしばらく黙って多恵の顔を見つめ。それから洋平に命じる。


「おい源葉。左舷烹炊所に行って、冷蔵庫にあたしが撃った鳥がまだあるから全部取ってこい。しょう糧長りょうちょうに言えばわかる。量が多いから……よし、山本長官と黒島、それに渡辺も呼んでこい」

「え……」

「え、じゃねえ。ほらさっさと行け」

「やったあ、おかわりなの! たばねえ大好きなの! 未来から来たお兄ちゃんも、ありがとうなの!」


 正直気が進まなかったが、ぱあっと顔を輝かせる多恵を見ると断れなくなってしまう。束が兵学校で焼き奉行になった原因も多分彼女だろう。しかし、あの小さなお腹にまだ入るとは驚きだ。


「おら、何ぐずぐずしてんだ!」


 束に急き立てられ渋々腰を上げる。

 艦尾側に回り、五十子達に顔を合わせるのが怖いなと情けないことを思いつつ測距儀基部に開いた昇降口しょうこうぐちから第一艦橋へ降りるラッタルに足をかけた時だった。


「……I got you. やっと見つけたわ、源葉洋平」


 てついた瞳が、暗がりから洋平をじっと見上げている。

 ぎょっとして後退りすると、鉢合わせした相手は逆にラッタルを昇り距離を詰めてきた。

 銀フレームのがねが、陽光を冷たく反射する。

 鉱物の結晶を思わせる端整たんせいな顔に、冷気とはかなさを纏ったような海軍乙女。肩には、中将の階級章。


「Tell me. もし貴方が本当にtime travelerなら、ひとつ教えて欲しいことがあるのだけれど」


 ネイティブみたいな発音のぶりが混じる独特の口調で、眼鏡の海軍乙女はそう切り出した。

 洋平は身構える。

 しかし、彼女が洋平に対する質問を口にすることは無かった。


「源葉、まだそこにいたのか。丁度良かった、ラムネも無くなったから戻ってくる時ついでに……」


 後ろから束の声と足音が近付いてきて、途中で止まった。

 数秒後、束がどこか乾いた声で呟く。


「……久しぶりだな、井上大先生」


 井上と呼ばれた海軍乙女の、氷結した湖面のようだった瞳が波立った。怒りという感情に。


「宇垣束。よく恥ずかしげもなく私の前に立てたものね」


 井上は眉間に深いしわを刻み、まわしげに束の名を吐き捨てる。束は何も答えない。


「知っているわよ。三国さんごく同盟どうめい賛成への方針転換を決めた海軍首脳会議で、反対したのは五十子ただひとだった。貴女はその場に同席しながら、嶋野派の連中と一緒に五十子の意見を無視して賛成を決めたそうね。……五十子は、貴女を信じていたのに」


 五十子は、あなたを信じていたのに。


 それを聞いた瞬間。

 洋平の胸に、えいなものを突き立てられたような痛みが走った。

 あっと悲鳴を上げそうになるが喉は動かず、声を出すどころか呼吸さえできない。

 代わりに胃が激しく収縮し、平衡感覚が遠ざかっていく。

 同じだ。赤レンガの廊下で、伊藤静が五十子を無視していた時と。その静を寿子が非難した時と。

 何故だ。

 この痛みはなんだ。

 責められているのは僕じゃないのに……?


「貴女は五十子の傍にいるのに相応しくないわ。Betrayer……この裏切り者!」


 井上が糾弾する。

 違う、頭の中で違う誰かの声が響いている。

 束ではなく、洋平を非難する声が。


「ああそうさ、あたしは裏切り者だよ。だったら、お前は三国同盟を止めるために何をしたんだよ」


 洋平がこめかみを押さえながら振り返ると、それまで無言で叱責を受けていた束が挑発的な口調で井上に反撃しているところだった。


「お前はいつだって他人ひとの意見を論破して話し合いをぶち壊してばかり。自分から建設的な代案を出したこと、一度だってあったかよ。上から目線の評論家気取りの言うことに、誰が耳を貸す? 結果、お前のしたことはそこら中で喧嘩を売りまくって中央を反山本で固めただけじゃねえか。『井上がむかつくから』って理由で、三国同盟推進派に回った連中までいたんだぞ」


 きつく握った拳を震わせる井上に、束は片頬を吊り上げて嘲笑を浮かべ、指を突きつけた。


「わかるか、井上。お前は、大好きな山本長官の足を引っ張ったんだよ。……いや? お前みたいな狂犬を片腕にしちまったことも含めて、山本長官の甘さ故の」


 束がせせら笑えたのはそこまでだった。

 井上の手が伸びて、束の胸ぐらを掴む。

 束は抵抗しない。


「2人とも、そこまでなの!」


 寸前で、小さな身体が割り込む。

 屋上にいるもう1人の存在を、洋平はその時まで忘れていた。


「多恵?」「楠木さん……?」

「多恵は今とても悲しいの。たばねえも成実さんも、多恵にとって大事な仲間なの。山本長官も、きっとそう思っているはずなの」


 多恵が切々と訴える。

 井上の瞳から感情の火がゆっくりと消えていき、しまいに束から手を放した。


「……楠木さんの二航戦には、ウェーク島で助けてもらった借りがあったわね」


 3人に背を向け、「そろそろ作戦会議が始まるわ」と告げると、井上はラッタルを降りていく。

 束は無言でそれを見送り、振り返った時にはいつものへの字口に戻っていた。


「すまねえ多恵、焼き鳥の続きはまた今度だ。あたし達も下に降りよう」

「はーいなの」


 束は昇降口に向かおうとして、動かない洋平をじろりと睨む。


「どうした宇宙人、嫌気がさして故郷の惑星に帰りたくなったか? さっきよりひでえつらしてるぞ」

「……その呼び方をされるのは、久しぶりな気がしますね」


 洋平は力なく笑う。意外なことに束は多恵を先に行かせると、測距儀の基部にもたれかかった。


「てめえが現れた時、ここには四種類の人間がいた。信じなかった奴、利用しようとした奴、信じはするが未来人が来たところで未来は変えられねえと思った奴、信じてなおかつ未来を変えられると期待した奴。あたしは未来人なんて与太話だと思ってたし、空襲の件も気にしちゃいねえ。でもって、もしてめえが信じて期待してた奴を裏切ったからって腐ってんなら、とんだお笑いだ」


 束は実際に片頬を吊り上げた。でも洋平は気付く。彼女は本当は、笑ってなどいないのだと。


「いいか源葉。うちら海軍乙女は百発百中の精神なんて教わるけどな。実際には百発撃って十発当たれば儲けもの、きょうだって大したもんだ。てめえはその謎の特技で、本来知り得ねえことをピタリと言い当てたんじゃねえか。一度の失敗で逃げんな。このまま腐ってたら、本物の裏切り者になるぞ。てめえにはここでやりたいことがあったんじゃねえのかよ?」


 本物の裏切り者、というくだりで束の顔が自嘲に歪んだが、最後まで強い声で洋平を励ましてくれた。

 やりたいこと。そうだ、どうして忘れていたんだろう。五十子に偉そうなことを言っておいて。


「……束さん。僕も行きます、作戦会議へ」


 洋平は束に頷いてみせる。

 まだ、あの胸を刺すような痛みは残っていたけれど。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る