第19話 一緒に、五十子さんを救い出しましょう


「があああギブギブ痛い折れるそれ以上いけない!」


 大和防空指揮所。

 線の細い身体のどこからこんな力が出るのだろう。アームロックから逃れようとみっともなく足掻く洋平を、井上成実の無慈悲な瞳が見下ろしている。


「暴力や経済的困窮を一度も経験したことのなさそうな腕ね。貴方、出自は財閥? 華族?」

「いいえ違います、普通のサラリーマン家庭です、だからわざかけるの止めて下さいっ! さっきから成実さんの背骨? が当たって凄く痛いんですけどっ!」

「Shit! ……It’s not my back but my chest……」


 洋平の軟弱さに呆れたのかわからないが、成実は聞き取れない悪態をついて解放してくれた。


「え? 今何て?」

「……せっかく未来から来ても、この時代では無力なだけだから不幸だと言ったのよ」


 そうだったのか? 腕力勝負を挑まれるなら、石器時代とかの方がある意味不幸なことになりそうな気がする。

 しかし月明かりを浴びる成実の顔を見て、洋平はそんなことを言う気が失せた。


「貴方が来たのが戦国時代だったら良かったかもしれない。大名や武将の一存で何でも決められた。貴方の助言で歴史を左右できた。今でもそういう国はあるわ。トメニアやルーシの独裁者。ヴィンランドの大統領だって選挙までの4年間は独裁者よ。……でも、この国は違う。リーダーがいないという意味では、他のどこよりも独裁から程遠い国家ね」


 成実の言葉から、洋平は自然と五十子のことを連想した。

 無数の鎖で縛られ、倒れることも許されなかった偶像。

 もし彼女が本当の神様なら、どうして戦争を始めたりなどするだろうか。


「あの嶋野だって、所詮は歯車に過ぎないわ。先の見えない官僚達と、その背中を押す無責任な世論。内向きな政治に振り回される外交、その帰結としての開戦……そして、敗戦。貴方1人がいくら未来を知っていたとしても、何も変えられはしないわよ。私も、変えられなかったから」


 シニカルな口調とは裏腹に、眼鏡の奥にある瞳は深く濃い絶望に沈んでいた。


「……ひょっとして成実さんも、僕と同じ未来からタイムスリップした人だったりしますか?」


 訊けなかったことを訊ねる。

 タイムスリップでないのなら、前世の記憶を持って同じ時間を繰り返しているとか。

 この人からは冗談抜きに、そんな雰囲気が漂っている。


「No way, まさか。私は正真正銘この時代、この世界の人間よ。同時代の人間より冷静なだけ」


 成実は口の端だけで苦笑して、洋平の疑念を一蹴した。


「ただ……貴方を観察する限り、ヴィンランドは敗戦国の葦原を滅ぼさずに生かしてくれたようね。Sometimes failure is a stepping stone to success. ヴィンランドは人種差別が根強いけれど自分達もかつて植民地としてさくしゅされた歴史があるから、欧州の古い帝国主義を良く思っていない。この戦争が終われば、次は欧州列強の解体に取り掛かるでしょう。世界から植民地の垣根が無くなり、自由に貿易ができるようになる。戦争に負けてもその先にヴィンランドの傘の下での経済的繁栄が待っているのなら、それは多くの葦原人にとって幸せな結末と言えるのかもしれないわね」


 驚いた。物凄い先見性だ。

 皆がこの人の言うことを聞いてさえいれば、未来人も架空戦記も要らなかったんじゃないか。

 だが洋平がそう口にする前に、成実の声の温度は氷点を割った。


「……However, 私は葦原人の未来なんて興味無いの。根絶やしにされたって構わないと思ってる。私が知りたいのは、ただ1人の未来」

「五十子さん、ですか」

「Exactly. 教えて、源葉洋平君。このままだと、五十子は死ぬの?」


 直球。この少女は、洋平自身を含め誰もが敢えて直接触れようとしなかったことを、本当に躊躇なく突いてくる。


「……このまま進めば、恐らくは」

「恐らくは?」


 洋平は、自分のいた世界とこの世界の違いを成実にまだちゃんと話していなかったことを思い出し、説明した。落胆させるかと思ったが、成実は間髪を入れずに次の質問をぶつけてくる。


「貴方の知っている『山本長官』はどこでいつ、どうやって死んだの?」

「場所は、ブーゲンビル島上空。前線基地の視察中に、乗っていた一式陸攻を敵機に撃墜されたんです。時期ははっきりとは覚えてませんが、第三次ソロモン海戦やルンガ沖夜戦の半年くらい後だから……1943年の春頃かな」

「後1年も無い……それに、前線視察ですって。どうしてそんな危険な真似を。海軍中央の陰謀?」

「いいえ、本人の強い希望だったはずです」

「もっと詳しい情報が知りたいわ。正確な日付、前線視察が決まった経緯、撃墜が偶発的な戦闘の結果なのか、長官座乗機と知ってのものなのか」

「すみません、そこまで詳しくは覚えてなくて……」

「思い出しなさい!」


 成実の怒声が、洋平の背後の装甲にドン! と手を付く音と共に鼓膜を震わせた。

 息がかかるほど、顔が近い。

 普段は暗く冷淡な眼鏡の奥の瞳が、今は激情に波立っている。

 焦燥と、そして恐怖に。


「思い出せなければ探しなさい! 裸でこの世界に来たわけじゃないでしょう、未来から持ってきた持ち物の中に何でも良い、手掛かりが無いか徹底的に探して」


 成実が柄にもなく冷静さを欠いているおかげで、逆に洋平は落ち着いて自分の考えを纏めることができた。

 洋平の知る史実とこの世界の海戦が寸分違わないなら、連合艦隊司令長官の命を奪った空中戦も同じように起こる可能性は十二分にある。

 それゆえ成実は、五十子に同様の前線視察をさせないことで五十子の死を回避できると考えているのだろう。だが――


「本当にそれで、五十子さんを救えるでしょうか?」

「Get to the point! 他にどうしろっていうの」


 洋平は、先程の決意を胸に蘇らせた。青い炎が揺らめく成実の瞳を見返し、語句に力を込める。


「この戦争を、終わらせるんですよ。僕の知ってる歴史よりずっと早く、五十子さんの望む形で」


 成実の目が一瞬大きく見開かれ、しかし放たれたのは辛辣な否定の言葉だった。


「不可能だわ。貴方も結局、どうしようもなくillogicalなこの国の大多数とご同類のようね。貴方1人未来を知っていたところで、戦争の大局を動かせるはずがないでしょう? それどころか有害よ。中央は今のところ貴方のことを本気にしていないようだけど、貴方の助言で下手に戦術的勝利を収めて連中が貴方を本当に未来人だと信じたらどうなると思う? 今度は貴方が軍神とやらに祭り上げられて、そしてこう喧伝けんでんされるのよ。『我々には未来人がついているのだから、勝利は間違いない』ってね。講和はむしろ遠のくわ」


 成実は気付いているのだろう。未来人の知識で歴史を変えられるチャンスが、どれだけ限られているかということに。

 葦原とヴィンランドの、圧倒的な国力差1つとってもそうだ。いくら未来の知識があったところで、覆せるものではない。でも。


「それでも僕は、この戦争に介入したい。成実さんがさっきしてくれた話、僕も同感だからです」

「何の話?」

「大多数の人間の幸せより、五十子さんの方が大事だっていう話です。僕も同じです。五十子さんを死なせたくない。ただそのためには、直接の死因を潰すだけじゃ不十分だと思うんです。来年のブーゲンビル島上空が、別の時間や場所に置き換わるだけじゃ意味が無いんです。もっと根本から、歴史の流れを変えないと」

「だから、同じことを何度言わせれば……」

「次のミッドウェー海戦は、赤城・加賀・飛龍・蒼龍、空母4隻を失う大敗北に終わります」


 呆れ顔で否定しようとする成実を遮って、洋平は宣告した。


「そしてミッドウェーでの敗北は、この戦争の大きな転換点になります。単に島を攻略できなかったからとか、空母や艦載機を失ったからとかではなく。成実さんなら、どうしてだかわかりますよね?」


 沈黙する成実が、はっとした顔になった。

 洋平は頷いて続ける。


「成実さんの言う通り、僕には戦術的な勝敗を動かす程度の力しか無いかもしれない。ですがミッドウェーはこの国、いえ、山本五十子にとって、決して負けてはならない一戦なんです。この一戦に勝つためのプランが、僕にはあります。ただし僕1人では実現できません。艦隊の司令長官をしている成実さんの協力が不可欠です」

「詳しく、聞かせて貰えるかしら」


 洋平は、密かに温めていた策を成実に打ち明けた。ミッドウェー海戦について、覚えている限りの史実も話した。

 全てを聞き終えた成実は眉間に指を当て、暫く経って口から洩れたのは、しかし、またしても否定の言葉だった。


「……無理よ。私にはできないわ」

「どうしてですか! 軍法会議にかけられる心配なら無用です、僕の知っている別の海戦で似たようなことをした提督がいましたが、処罰を受けたなんて話は聞いたことありません」

「Don't look down on me, 見損なわないで。五十子が救われるなら、私はどうなったって構わない。そうではなくて……私には、貴方の企てを成功させる能力が無いという意味よ」


 能力が無い、だと?

 ストイックな態度から一転、彼女の口から出たとは俄かに信じられない発言に、洋平は思わず呆気に取られる。


「成実さん……ポートモレスビーの攻略断念で、海軍内に成実さんの指揮能力を疑う声があるのは知ってます。そういう人達はわかってない。一航戦二航戦は精鋭と呼ばれてますが、据え物斬りしかやったことが無いんです。成実さんの指揮下で五航戦がやったのは、史上初の空母対空母戦闘じゃないですか。今までみたいなワンサイドゲームにならないのは当然です、胸を張って下さい」

「胸を張れ、ですって? さっきから私へのharassmentかしら?」


 え、胸? いや、過剰反応し過ぎだろ……確かに、胸が小さいというか、ほぼ無いけど……


「ちょっと貴方、どこ見てるのよ。今失礼なこと考えたでしょう」

「そっちが変なこと言うから……じゃなくて! 何でそんなに弱気なんですか!」

「……私個人の意思と能力だけではどうにもならない要素があるからよ」


 成実は俯いて、深爪に思えるくらい短くなった爪を噛む仕草をする。


「貴方の言った企てを実行するには、私の直属の部下でない人達まで動かす必要があるわ。私だって、自分が同僚達からどう見られているかくらいは知っているつもりよ。……確実に失敗するわ」


 自覚があったのもそうだが、それをこうしてはっきり認めたのも意外だった。自分のプライドなんてどうでもいいと思えるほど、五十子のことが大事なのだろう。

 確かに成実の同僚への接し方は、ディベートさながらに理詰めで論破していくスタイルだ。口調は刺だらけ、おまけに言っていることが常に正論だからより性質が悪い。珊瑚海海戦でも、暫定的に彼女の指揮下に入った参加部隊の司令官達との関係はお世辞にも良好には見えなかった。


「でも、成実さん以外には頼めないんです。……その、頑張って説得とか、お願いとか」

「無理よ。今更誰も、私の言うことに耳なんて貸さないわ」

「そんな……ついさっき、五十子さんを救うためなら何でもするって言いましたよね!」

「正確には『五十子が救われるなら、私はどうなったって構わない』ね。人の発言を不正確に引用するのは感心しないわ。それとも貴方、難聴なんちょうなの?」

「うわ、イラッとする! そういう余計な一言が人望無くす原因だって気付きましょうよ! はあ……それじゃ伺いますけど、成実さんはどうやって五十子さんの死を防ぐつもりなんですか。まさか、前線視察を止めさせる以外はノープランってことはないですよね?」

「Needless to say, 私1人の力で実現可能なことをやるのよ、他の誰にも頼らずに。目下最有力のプランは、五十子の自由を奪って戦争が終わるまで無人島か山奥に監禁することね。五十子の身の回りの世話は全部私が1人でやるから、問題は無いわ」

「いや問題ありまくりだから! 何が『ニィドゥレストゥーセェイ』ですか、驚愕のヤンデレシナリオ発覚ですよ! そもそもそんなやり方で、五十子さんが救えると思ってるんですか!」

「そもそも源葉洋平君は、私のような人間に何を期待しているのかしら」


 感情の煌めきを見せていた成実の瞳は、いつの間にか眼鏡の奥で凝固して、普段の冷淡なそれに戻ってしまっている。

 いや違う、これは諦観だ。他人よりずっと先を見通せる成実はきっと、それだけずっと前から諦めてしまっていたのだろうから。


「宇垣束が言っていたことは事実よ。私は五十子の足を引っ張ることしかしてこなかった。私は、五十子と出会うべきじゃなかった」

「……なんでそんなこと言うんですか」

「Just truth, だってそうでしょう。そもそも私さえいなければ、あの事故だって……っ」


 成実は出かけた言葉を、途中で飲み込んだ。

 事故? 前にどこかで聞いた単語だ。記憶を手繰り寄せる。そうだ、あの思い出したくもない帝都の赤レンガで嶋野から言われたこと。


「それって、五十子さんが兵学校の卒業席次で嶋野大臣に負ける原因になった事故のことですか。ひょっとして、五十子さんが普段隠してる左手の傷と何か関係が……」

「どうして貴方が、五十子の傷を知っているのかしら? まさか貴方、五十子を」

「え? い、いや誤解ですよ、お茶が腕にかかったから手袋を外して、それで見えちゃっただけですよ! 本当にそれだけですからね! で、事故って一体何があったんですか」


 理不尽なアームロックで腕を折られかけるのはもう御免だ。やや強引に話を戻すと、全身から殺気を立ち昇らせていた成実は、不審とそれから恨めしげなものが混ざった一瞥を洋平に浴びせてから、視線を暗い夜の海に落とした。

 暫くの間、聞こえてくるのは遠い波の音だけだった。


「……Many years ago, 兵学校に入学した、1人の帰国子女がいたのよ」


 ゆっくりと、成実は語り出した。

 淡々と、しかし隠しきれない自嘲を滲ませて。


「その帰国子女は葦原人との接し方を知らなかったし、知ろうともしなかった。自分が誰からも評価されていないと思い込み自棄やけになっていたそいつは、練習艦の射撃訓練で受け持った砲の手入れを怠り……暴発させた。そいつの人生はそこで終わるはずだった。横から飛び込んできた、お節介でお人好しな上級生さえいなければ」


 成実は肩をすくめてみせる。


「Indeed, 信じられないお人好しもいたものよね。生徒どころか教官からも相手にされない嫌われ者を助けるために身体を張って、大怪我をして、一番大事な自分の首席卒業をふいにした。葦原海軍では、兵学校の卒業席次がそのまま昇進の序列になるのに……どうして、あんな馬鹿な真似を」


 すくめた肩が、微かに震える。


「いいえ、わかってる。本当の馬鹿は、その帰国子女だってこと。あの時そいつは、確かに一度死んだ。生まれ変わる機会を与えてくれた彼女の盾として生きようと誓った。でも、そいつは……私は、あの子を守ることができなかった。あの子が一番辛い時に、傍にいてあげることもできなかった」


 この人も同じだと、洋平は思った。

 罪を独りで背負い、罰を求め続けている。

 同時に洋平は思い出した。今の成実に伝えるべきことを。


「仲間ができたって、五十子さんそう言ってました」


 成実の震えが止まった。海に映る月明かりを眺めていた目が、洋平を凝視する。


「手を怪我した代わりに、かけがえのない仲間ができたって。過ごした日々は怪我も含めて大切な思い出で、自慢だって。そう言ってたんですよ。見てる僕達が嫉妬するくらい、幸せそうな顔で」


 最後のところは、半ば本音だった。

 成実の顔に、何種類もの感情がばらばらになって浮かぶ。冷たい銀縁眼鏡が無ければ本当にばらばらになってしまいそうな、どんな顔をすれば良いのかわからない顔。

 最後に堪え切れなくなったように、両手で顔を覆った。


「……本当にお人好しなのよ、昔から。何も変わらない」


 指の間から湿った声が漏れる。これ以上ここにいるべきではない。

 立ち去りかけた洋平を、成実は呼び止めた。


「Wait. 源葉君」


 振り向くと、成実は気丈にも顔を上げていた。頬に走る2本の筋は、夜風で既に乾きつつある。


「勝算はあるの?」

「勿論。そのための未来人です」


 洋平が即答してみせると、成実は初めて、冷たさの無い笑みを浮かべた。


「……本当に、男の自尊心には際限が無いわね」

「成実さんも、諦めないで下さい」


 洋平はそう言って、負けじと笑ってみせる。


「一緒に、五十子さんを救い出しましょう」

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