第18話 見ないで、洋平君


「ごめんなさい……本当に、ごめんなさい……」


 さんかい海戦から数日後。

 MO作戦参加部隊の指揮官達が、第四艦隊の九七式飛行艇に乗って報告のため大和を訪れていた。

 五航戦の司令官は憔悴しきった様子で先ほどからずっとうつむいて、途切れ途切れに謝罪の言葉を繰り返している。


「私達……海戦前に一度だけ、祥鳳の子達と会いました。みんな、私達より年下の子ばっかりで、でもとても一所懸命で。……約束したんです。翔鶴と瑞鶴が後ろで見張ってるから、敵が来ても大丈夫だよって。でも私達、何もできなくて、祥鳳を見殺しにっ……」

「原さん、顔を上げて下さい!」


 隣に立つ少女が、見るに耐えかねたように声を上げた。


「陸軍輸送船団と護衛の艦隊は、祥鳳以外ほとんど無傷で転進できたんですよ。祥鳳が盾になって守ってくれたおかげです。祥鳳の犠牲は無駄じゃありません!」


「Don't glorify the result. 後藤さん、失敗を美化するのは感心しないわね」


 井上成実が冷ややかな声でそう言った。


「航空戦では、まず敵の空母を叩くのがtheoryよ。盾になったのではなく、空母だから沈められたに過ぎない。無駄死にね。それと転進でなく撤退よ。私達は敵正規空母1隻撃沈1隻大破、戦術的には勝ちかもしれないけど、こちらも翔鶴が大破し撤退した。言葉は正確に使いなさい」


 後藤と呼ばれた海軍乙女が、剣呑けんのんな目で成実を睨みつける。成実はそれを涼しげに受け流した上で「ただし」と続けた。


「ただし。これはあくまで結果論に過ぎないけれど。祥鳳が襲われた時、五航戦は敵の油槽艦を空母と誤認し全戦力を差し向けていた。Maybe, 敵の機動部隊も祥鳳のことを正規空母だと誤認したのでしょう。もし敵が索敵を誤らず祥鳳でなく五航戦を攻撃していたら、五航戦は一方的に叩かれて翔鶴と瑞鶴のどちらか、あるいは両方が沈められていたかもしれないわね」


 束が、意外そうに目を眇めた。今のが成実なりの沈んだ祥鳳への配慮なのだと気付いた者が、この場に一体どれだけいるだろう。

 成実は五十子に向き直り、姿勢を正す。


「お預かりした空母を沈め、かけがえのない海軍乙女を数多く死なせてしまいました。このような事態を招いた責任は全て、作戦を指揮したこの私にあります」


 五十子は、寿子に将棋の相手をさせながら黙って報告に耳を傾けていたが、初めて将棋盤から目を上げた。

 成実と、その後ろにいる他の指揮官達に微笑みかける。


「ううん。みんな、よく頑張ったよ。今日はもう遅いから大和に泊まって、ゆっくり休んでいって」


 五十子はそう言って将棋を続けた。五航戦の原司令官が、両手で顔を覆う。


「山本長官……! あっ、ありがとうございます! 必ず次の作戦で仇を……!」


「……No way, 五航戦の被害は甚大よ。翔鶴の大破に加え全艦載機の8割を喪失。ミッドウェー作戦までに復帰できるとは思えないわ。草鹿さんはどこかしら? 彼女の見解をお聞きしたいのだけど」


「……草鹿参謀長は、南雲長官とお2人で休暇をとって旅行中です」


 成実の問いに、寿子が気まずそうに答えた。成実は肩をすくめて、作戦室の出口へ向かう。


「あ、あのっ」


 洋平は思わず声を上げて、成実を呼び止めてしまっていた。

 横須賀で見た幼いツインテールの少女の姿が、洋平の脳裏にこびりついて消えなかった。


「祥鳳の艦載機搭乗員はどうなりましたか? その……ちょくえんの戦闘機隊がいたと思うんですが」


 振り返った成実は、洋平が何でそんなことを訊くのかわからない、とでも言いたげな顔をする。


「……詳しくは提出した戦闘詳報に書いてあるけど。生存者の証言によると敵は100機近くの戦爆連合で祥鳳に押し寄せたのよ。祥鳳は約20分で沈没、上がっていた直掩機はmissing in action, 全て行方不明。一応付近の海域や島を捜索してはいるけれど、恐らく絶望的でしょうね」


 淡々と告げて、成実はエレベーターに乗り込む。理屈では、洋平も予想していたことだった。

 それに洋平はあのパイロットと知り合いでもなく、直接言葉を交わしたわけでもない。

 それでも、胸の中に急にぽっかりと穴ができてそれが広がっていくような、空虚になっていく感覚を止められない。

 戦争とは、つい数日前まで元気で生きていた人間がある日急にいなくなることで、なおかつそれが当たり前になってしまうことなのか。

 成実の後からエレベーターに乗ろうとする原の腕を後藤が引っ張って、成実以外の幹部達は皆ラッタルで降りていく。彼女達の連携の実情がよくわかる1コマだ。

 作戦室はまた、いつものメンバーだけになった。


「そっか。みーちゃん死んじゃったか」


 背後で、五十子が呟いた。同時に将棋の駒を指す、ぱちりという音。


「よし、王手と。ヤスちゃん、もうそれ詰みだよ」

「……え? あ、はい! 参りましたあ」


 慌てて駒を片付けだす寿子をよそに五十子は立ち上がり、うーん! と伸びをする。普段通りのほほんとした五十子だ。可愛がっていた部下を失った悲嘆や落胆が一切無いことに、洋平は驚いた。


「……困った。祥鳳の沈没は織り込み済みだけど、五航戦にここまで被害が出るのは想定外。翔鶴・瑞鶴が参加できない前提で、一航艦の打撃力を3分の2にして計算し直さないと」


 亀子が渋面をつくる。既に頭にあるのはミッドウェー作戦だけだろう。

 束も苦々しげに言う。


「情報が外部に漏れてる件も問題だぞ。陸戦隊の連中なんか『来月7日から私達宛の郵便物はミッドウェーへお願いします』って郵便局にてんきょとどけまで出してたっていうじゃねえか。慢心まんしんし過ぎだろ、常識的に考えて。真珠湾をやった時の緊張感はどこへ行ったんだ」


 そして寿子は、将棋を片付け終わると、意を決したように立ち上がった。


「申し訳ありませんでしたあ! この通りです!」


 全員に向かって、思い切り頭を下げる。五十子がげんそうに首を傾げる。


「ん? ひょっとしてヤスちゃんも作戦の情報漏らしちゃった? またいつもみたく『ミッドウェー島が総受け』みたいな本を書いて出したとか」

「……長官からそんな風に思われてたなんてショックなんですけどお……さすがの私も島を擬人化する発想は無かったです……じゃなくて! 軍令部との交渉でMO作戦を呑んできたのは私です! その結果がこの有様なんですよ? どうして私をお責めにならないんです!」

「んー。ヤスちゃんは、わたしの想いを汲んでミッドウェー作戦の実現を最優先に交渉してくれただけじゃない? 感謝しかしていないよ。勿論、成実ちゃん達にもね。責任は、わたし1人にある」


 五十子はこれで話はお終いというように「さて」と手を叩いた。


「課題は色々あるけれど、もう遅いし明日また考えることにしよう! わたし、お風呂入りたいし」


 五十子が作戦室を後にする。全員で敬礼して見送った後、寿子は振り向いて洋平の顔を見た。


「……未来人さんには、ひどいことを沢山言ってしまいました。許して下さい」

「僕の方こそ、ごめん。空襲の後は無気力になってて、珊瑚海海戦のことを話すのも致命的に遅くなった。自分でも最低だったと思う」


 洋平が詫びると、寿子は首を振って、深く溜め息をついた。


「本当に最低なのは私ですよお……私、未来人さんの言ったことが間違いだったら良いのになと、心のどこかで願ってたんだと思います。だから空襲で未来人さんが驚いてるのを見た時、良かったって思ったのかも。『3年後に無条件降伏』というのを、やっぱり受け入れることができなくて……」

「まだ、そうなるって決まったわけじゃねえだろ。こんな変な奴も現れたことだしよ。なあ?」


 束に乱暴に背中を叩かれ、洋平はゲホゲホと咳き込む。束は八重歯を覗かせて、


「そういやこん中で、源葉を解剖すべきだって言ってた奴がいたよな? おい今どんな気持ちだ?」


 亀子がばたんと机に突っ伏し、「ぐーぐー」と擬音を呟き始めた。本当の自分のいびきを知らないのだろう。狸寝入りは放っておいて、洋平は仲直りできた寿子に早速、気になったことを訊ねた。


「ところで、寿子さん。……五十子さんって、いつもああなの?」


 きょとんとする寿子に、祥鳳のパイロット達の生存が絶望的だと成実に告げられた時の五十子の様子についてだと補足する。

 寿子は、のう大尉を五十子が可愛がっていたところを洋平と一緒に見ている。洋平の言わんとするところは理解したようだった。


「うーん、言われてみれば……確かに山本長官は、戦死者の報告を受ける時いつもあんな感じです。親しかった人が亡くなった時でも『ふうん』とか『そっか』みたいな薄いリアクションで。私も最初はちょっと驚きましたけどお……でも、長官が冷たい人かっていうと、それは違うと思いますけど」


 洋平とて、そんなことはわかっている。

 これまで、五十子が自らの危険を顧みず誰かの命を救おうとするのを何度も目にしてきた。同郷の刈羽少佐だけではない。空襲で負傷した名も知らぬ海兵の少女、それに洋平のことも。

 漂流していた時の洋平は海軍の仲間でも知り合いでも無かったのに、身体を張って助けてくれた。

 五十子が、他人の死を何とも思わないような人間だなんて、絶対有り得ない。

 だからこそ、平然とし過ぎているあの態度に、強い違和感を覚えてしまう。


「やれやれ、てめえらはほんとお子様だな。部下の戦死にいちいち感傷的になってて、軍隊の指揮官が務まるかってんだ。山本長官がどんなに甘々でも、最低限そこは割り切ってるはずだぜ」


 束が、大袈裟に肩をすくめてみせた。


「割り切ってる……本当にそうでしょうか」


 洋平には納得できない。そう言う束は、割り切れるのか。


「……あなたは後世こうせいの人間だと言うのに、山本長官のことがわからないの?」


 狸寝入りを止めた亀子が、起き上がって洋平のことを見ていた。洋平は、首を振る他ない。


「前に言ったと思うけど、僕の知ってる『山本長官』は五十子さんじゃないよ」


 年齢も性別も違う、似た名前の別人で……何気なくそう口にしかけて、洋平は自分の愚かさに気付き愕然がくぜんとした。

 帝都のきょうそうが脳裏に蘇る。

 万雷の拍手と歓声、熱気と興奮。真珠湾のえい、我等が軍神ぐんしん、山本五十子万歳……大人達から勝手に偶像視された少女の、小さな背中。

 では、洋平はどうだったのか。

 こんなに近くにいて、本当の彼女を知るチャンスはいくらだってあったはずなのに。




 五十子の私室は、司令部メンバーが日頃食事に使わせてもらっている長官公室の奥にある。

 洋平はこれまで入ったことは無いし、他のメンバーが入るのを見たこともない。

 従兵じゅうへい達でさえ、五十子が掃除からベッドメイク、衣類の洗濯アイロンがけまで全部1人でやってしまうので私室に入れて貰えないとこぼしていたのを聞いたことがある。

 ノックをするが、返事は返ってこない。扉の前で、洋平はしばらくちゅうちょした。

 洋平の知識では、大和の長官私室には寝室の他に専用のバスルームも付いている。加えて先ほど五十子は、これから風呂に入るようなことを言っていた。

 洋平にも、自分が変態覗き魔宇宙人呼ばわりされても仕方のない所業を積み重ねてきてしまった自覚はある。少しでも入浴中の気配がしたら、レイテ沖海戦の栗田艦隊みたいに即座に反転離脱しよう。そう自分に言い聞かせながら、洋平は慎重に扉を開けた。

 室内は無灯火で、開いたままの舷窓から月光が差し込んでいる。

 月明かりに照らされて、部屋の壁いっぱいに貼られた無数の小さな紙が見えた。



 ――岩佐成穂 上州 甲標的乗組 光文16/12/8 真珠湾。


 ――高塚実 肥前 疾風艦長 光文16/12/11 ウェーク島沖。


 ――八代祐子 薩摩 第六根拠地隊司令官 光文17/2/1 クェゼリン島。



 紙に書かれた文字の群れが何なのか、初め洋平にはわからなかった。

 しかし、徐々に意味がわかってきて、背中にかいた汗が凍るように冷たくなっていく。

 これは、ぼうろくだ。戦死した海軍乙女達を、忘れないようにするための。

 ベッドの陰に、人影が見える。五十子だった。第二種軍装も着替えないまま、床にうずくまっている。

 洋平は傍へ寄ろうとして、何かが落ちているのに気付いた。


「手帳……?」


 五十子が大和を案内してくれた時、部下の名前を覚えるために使っていると言っていた黒革の手帳だ。

 拾うと装丁が擦り切れて、ぼろぼろになっている。

 悪いと思ったが開いてめくると、そこにも細かい字で海軍乙女の姓名、出身地、役職がびっしりと書き連ねられていた。既に全ページ埋められ、書ききれなくなっている。戦死の日付と場所が書き加えられた海軍乙女も、少なからずいた。

 最後に、手帳に挟まれていた便箋びんせんを見つけて、広げてみる。


『……長官からご相談のあった納見美凪大尉の父親の件につきましては、仮出所できるよう調整中で、早ければ……』


 便箋の左下には司法省と印字され、日付は五十子が横須賀で納見大尉と会う1月も前だった。


「あれ……洋平君……?」


 五十子が、顔を上げた。洋平に向けられた大きな瞳は、どこか焦点が定まっていない。


「はは、やっぱり洋平君だ……もう、ダメだよ。女の子の部屋に勝手に入るなんて……」


 虚ろに笑う五十子の隣にしゃがんで、洋平はそっと手帳と便箋を渡した。


「やっぱり覚えていたんだね、納見大尉のお父さんのこと。それどころか、助けようとしていた」


 嘘をついたのは、恩を着せたくなかったからか。


「……。あの時、お父さんを釈放しゃくほうできるかもしれないって、言うべきだったよ。そうしたら、あの子は生きて帰ろうとしたかもしれないのに」


 五十子は悔恨を吐露しながら、なおも微笑みを絶やさず、ひょうと化した壁を見上げる。


「私が殺した。みーちゃんだけじゃない。みんな、みんなわたしが殺した」


「五十子さん……」


 この壁を、五十子は寝起きのたびに見つめてきたのだ。

 洋平が参謀に志願した夜、あの時既に五十子は、苦しみの片鱗へんりんを洋平に見せていたのに。独りではあまりに重い罪の意識を背負い続け、救いを求めていたのに。

 それなのに自分は五十子のことを心配したつもりになりながら、実際には本物の戦艦大和や連合艦隊に舞い上がり、参謀になって歴史を変えることで頭がいっぱいだった。


「死んで地獄に行ったらね、えん様と賭けをして外出許可を貰うんだ。それで、みんなのところに謝りに行くの。その時のために、みんなの名前をきちんと覚えておかなきゃ」

「五十子さん……!」


 気付くと洋平は、五十子の両肩を掴んでいた。


「五十子さん……どうして笑ってるんだ。そんなに悲しい顔してるのに、どうして泣かないんだ!」


 どうして、誰も気付かない。

 擦り切れてぼろぼろになって、それでも懸命につくろったツギハギだらけの笑顔に。

 いいや、洋平だってそうだ。傍にいたのに、五十子のことを見ていなかった。

 普段はちょっと抜けていて、明るく心優しい、いざという時は頼りになる完璧少女で連合艦隊司令長官? 

 矛盾だらけの虚像きょぞうだ。『心優しい少女』が、大勢の死に向き合って平気で笑ってられるはずがない。そんなのは仮面を被った冷酷な人間か、後は必死に耐えているかしかないじゃないか。


「……痛いよ洋平君」


 革手袋をした五十子の手が、洋平の手を強い力で引き剥がしていく。


「わたしが泣く? ダメだよ。だって、ここに書いたのはわたしの知ってる子の名前だけだもの。わたしのせいで死んだ人達の名前は、本当なら手帳と部屋の壁全部使っても全然足りないんだよ。こんな偽善者に、泣く資格なんてないよ。……それより、ちゃんと笑ってないと。だってここにいるみんな、わたしの笑顔が好きだって言ってくれたんだよ?」


「それは違う! 誰も五十子さんに、こんなになってまで笑っていて欲しいだなんて願ってない!」


 洋平の手を完全に離れ五十子は立ち上がった。月光が、五十子の髪を、素肌を白く照らし出す。


「……ねえ、洋平君。戦争に負けてもそれで葦原あしはらが変わってくれるなら、この子達の犠牲も無駄じゃないのかな。勝ち目のない戦いをするなんて間違った決断を、もうしない国になってくれるかな?」


 五十子は唐突にそう問いかけてきた。

 洋平を参謀にした後も、作戦に関わることで五十子が洋平に未来の情報を訊くことは皆無だった。洋平はそれを不満に思い、一時は五十子に信用されていないのだとさえ疑った。

 だがそれは間違いだ。五十子はやはり洋平を戦争に巻き込まず、元の世界に帰したいと願っていたのではないか。五十子が想像した「豊かで、進歩していて、幸せな」世界に。


「ねえ、洋平君?」


 光を失った五十子の目が、壁から洋平の顔に向けられる。

 洋平が「そうだ」と答えたら、五十子はどうなるのだろう。思い残すこと無く、死んで罪をつぐなうのか。それが、どんな未来の情報も欲しがろうとしなかった五十子が、唯一洋平に求めることなのか。

 そんな救いは、絶対に嫌だ。


「……戦争に負けても、葦原の人達は何も変わらないよ」


 だから洋平は、この世界に来て初めて、未来について嘘をつくことにした。


「この世界に来るまで、戦時中の国ってさぞかし異常な所なんだろうって思ってた。でも違った。海軍が全員女の子なのを差し引くと、ここはびっくりするほど、僕のいた国にそっくりだ」


「え……」


 五十子の顔と身体が、強張るのがわかる。

 今から話すことには、真実も混じっている。口下手な洋平が100%のでまかせを言って、五十子を騙せるとは思えない。だから最初は、洋平がこの国を見てきた上での正直な感想から入る。

 そう……不適切だから自主規制された敵性てきせい。不謹慎だから営業を自粛した店。真珠湾の勝利に熱狂し、空襲されるとてのひらを返した人々。彼等をあおり立てる無責任なマスコミ。海軍を支配する学歴がくれき偏重へんちょうやお役所体質……挙げていけばキリがない。

 どれも洋平にとって、見覚えのある光景ばかりだった。


「僕のいた国は戦争に負けた後、戦争から遠ざかることで変わろうとした。一度は国防さえ否定したんだ。でも、それが本当の学習や進歩だと思う? 例えば包丁の使い方を誤って怪我した人が、もう怪我をしたくないから包丁を捨てて自炊をやめて、食事は外食や惣菜に頼るのが反省? 包丁の正しい使い方を覚えないといけなかったのに、自炊を否定した。……だから根っこの部分では、何も変わってないんだよ」


 洋平は、五十子に向かってひどく酷薄こくはくな笑みを浮かべてみせた。


「何かが流行る、もてはやされる。それは芸能人だったり、新しい発明だったり、新興の企業や政党だったりする。マスコミはそれを持ち上げる。問題があってもわざと隠して都合良く情報を編集して、流行に乗らないのは悪いことみたいな空気を作るんだ。勿論、早くから問題に気付いて警告する人も中にはいるよ。でもそういう少数の声は決まって無視される。そうやって、問題の綻びがどうしようもなくなった時、散々持ち上げてきたマスコミは一気にてのひらを返す。ミスリードした責任は絶対にとらない。マスコミも、マスコミを信じた国民も、誰一人反省しない。僕は向こうの世界で、そういうことが繰り返されるのを何度も何度も見せられたよ」


 五十子の首が、微かに左右に揺れている。

 彼女はもう気付いたはずだ。洋平の語るどこか遠くの国の話と、今この国で起こっていることとの、多過ぎる共通項に。

 五十子の「救い」を打ち砕くべく、洋平は乾いた声で宣告した。


「人間の生き方、考え方が全く変わってないんだよ。一番大事なのは『場の空気』を読んで周りに合わせること。出る杭は打たれる、決して周りと違うことをしない。……逆にみんなが渡っていれば、赤信号でも平気で渡る」


 ここまで、嘘は言っていない。だが論法に無理があるのもわかっている。五十子が口を開く。


「待って、洋平君。でもその国は、戦争はしないんだよね? 豊かなんだよね? みんながそれで幸せなら、わたしは……」

「戦争をしないなら、豊かなら幸せ?」


 五十子の言おうとしていることは、多分正論だ。だから最後まで言わせない。だが、ここから先、五十子の心を揺さぶるために洋平に話せることは、もう、あれしか無いだろう。


「僕は、友達をころした」


 洋平は、ついにそれを口にした。


「……!」


 五十子の目が、大きく見開かれる。嘘だ、五十子がそう言おうとするのがわかる。洋平はからからの喉に唾を流し込んだ。

 これも嘘ではない。あの時、数珠じゅずつなぎに蘇った記憶の1ピース。


「思い出したんだよ。小学校から一緒の腐れ縁でオタク仲間だったんだけど、空気が読めない奴でさ。中3の時、女子のグループから目をつけられて、クラスのみんながそいつのことを無視するようになった。それで……僕が、どうしたかわかる?」


 一度口を閉じてから、胸いっぱいに空気を吸い込む。頭が痛い。胸が痛い。そうだ、これがこの世界に来てから今までことあるごとに洋平を苛んできた痛みの中身だ。

 自分で質問を投げかけておいて、いくら空気を肺に溜めても、喉がコンクリートを流し込まれたように動かない。それでも、何としても。今の五十子に聞かせないといけない。洋平の犯した罪を。


「……最初は……最初は中立でいようとした。クラスの連中とも上手くやって、そいつとも友達のままでいられればいいな、なんて。……でも、段々風当りがきつくなって、このままだと自分がそいつの仲間扱いされて一緒に孤立すると思った時。僕はね。気がついたら、他のクラスメートと一緒にそいつを無視していたんだよ。……翌朝、そいつはもう学校に来なかった。自宅の最寄り駅のホームに飛び込んで死んだ」

「……だったら、洋平君が殺したわけじゃ!」

「そう。僕が直接そいつを殺したわけじゃない。でもそれなら、ここの壁に貼ってある人達だって、五十子さんが直接手を下したわけじゃないよね。僕も同じさ。直接手を下したわけじゃない」


 みにくい屁理屈だ。

 実際には五十子と比較するのがおこがましいほど洋平の罪は深い。

 他のクラスメートから無視されていても、彼は生きていた。きっと、ただ一人の味方に裏切られたことに絶望しながら死んでいったに違いない。

 そういう意味では、洋平は比喩ではなく本当に、彼を殺したのだ。


「クラスの中でそいつに本格的な悪意を持ってた人間なんて、ほんのひと握りだった。残り大多数は単に、『場の空気を読んだ』のさ。暴力の類が無かった以上、何の証拠も無い。遺書も無かったから公には事故扱いで、いじめにすらならなかった。中高一貫で同じ連中が高校に進学して、何事も無かったように仲良く修学旅行……何が平和の国だ。国民性は世界一陰湿いんしつ、『空気』で人を死に追いやる連中の集まり。五十子さんが死んだ後に残るのは、そういう国なんだよ」


 これが、洋平のついた嘘だった。

 より正確にはべん、論理の飛躍だ。

 国家レベルの戦争や国民性の話と、学校のクラスのいじめ問題とでは、スケールが違う。錯覚さっかくして同一視することもあるが、冷静になって考えれば母数が違い過ぎるとわかる。

 しかし、五十子は洋平に反論できない。何故ならば、山本五十子はこの錯覚の常習じょうしゅうしゃだからだ。

 連合艦隊という巨大軍事組織の長でありながら、身の回りの将兵の名前を頑張って覚え、階級の隔て無くかけがえのない仲間として暖かく接してきた。艦はまるで学園だった。

 だが当然、それは錯覚だ。戦争は激しさを増す、艦は沈み戦死者は増える。部下達を仲間として大切に思う五十子のそのスタンスは、五十子を傷付け続ける。

 それでも五十子は、敢えて錯覚し続けるだろう。そんな彼女が語る国家の幸福とは、高いGDPでも戦争が無いだけの平和でも無い。穏やかな毎日が続いて大切な人々が笑って暮らす……個々人のささやかな幸せの延長のはずだ。

 だったら、洋平の未来の国が五十子の望んでいるものとは程遠いことを聞いてしまった以上、五十子はもう、洋平の未来に後を託して死ぬことはできなくなる。


「そんな……」


 五十子が、ぽつりと呟いた。

 海軍大将の肩章が、微かに震えているのがわかる。

 洋平はもう一度五十子の肩に、今度はゆっくり手をおいた。

 五十子は拒まない。軍服の下の五十子の身体は華奢きゃしゃで、今にも壊れそうで、その感触が洋平の背中を押した。


「死ぬな。例え戦争に負けたって、五十子さんは死んじゃだめだ」


 再び見開かれた五十子の目から視線を外さないでいられたのは、普段の自分なら考えられないことだった。五十子は首を横に振り、無理に笑顔を作ろうとして、それに失敗した。


「洋平君、でも……!」


 洋平は、五十子の身体を引き寄せた。

 軍神なんて、ここにはいない。きっと、どこにでもいる普通の女の子。

 ただ、特別なものがあるとすれば、それは。


「五十子さんが持っているのは、小さな勇気だ。間違っていることを、間違っていると言える勇気。異質な人間を、包容する勇気」


 弱い洋平や、あのクラスの人間達に無かったものだ。だから五十子を見ると、あんなにもまぶしかったんだ。差し伸べられた手が、革手袋越しでもあんなにも温かかったんだ。


「きっと、そういう勇気が未来を変えるんだ。いや、五十子さんにしかできないよ。……生きて、この国を変えて欲しい。未来の誰かじゃなく、五十子さんの手で」


「……ひどいよ、洋平君」


 掠れそうな声で、五十子は洋平を非難する。


「わたしに、本当に生きろっていうんだね。大勢の仲間を死なせて、これからも死なせるわたしに」

「五十子さんだって、いつかは死ぬ」


 洋平は、部屋の壁を見渡してから、五十子に視線を戻した。


「先に死んだ仲間達に挨拶するなり詫びるなりは、その時まで待って貰えば良い。前にも言ったよね。大切なのは、五十子さんが今どうしたいか、だよ。五十子さんは今、何がしたいの?」


 あの時は、上っ面だけの善意で、綺麗事を喋っていた。第一あれは、『山本連合艦隊司令長官』に対する言葉だった。今は違う。他の誰でもない、五十子に向けて。


「……終わらせたい」


 俯いた五十子から、微かな声が漏れた。だがその声は、はっきりと洋平の耳朶じだを打った。


「諦めたくないよ……! こんな戦争、もう終わらせたい……!」


「うん」


「でも……でも! 今のままじゃっ」


 上擦る声。彼女の顔がゆがむのを、洋平は初めて見た。震える五十子を、洋平はそっと抱き締めた。


「大丈夫だ」


 彼女のお株を奪った。五十子の震えが、直に伝わってくる。


「洋平……君……?」


「大丈夫だよ、五十子さん。五十子さんの望み、僕がかなえる。五十子さんの罪も、僕が一緒に背負うから」


「ダメだよ、洋平君……」


「ダメじゃない。決めたんだ」


「意地悪だね、洋平君」


「ああ、意地悪だ」


「ふふ……うっ」


 五十子の笑顔が、また崩れる。抱き締めた五十子の中から、何かが急速にこみ上げてくるのを感じる。それが何なのか、察する間も無く。


「ごめ、ん……みんなには、内緒に……今だけ……少しの間だけ、だから……」


「五十子さん……」


「……見ないで、洋平君」


「……ああ」


 洋平は仰角いっぱいに顎を持ち上げ、視線を天井に固定する。

 直後、五十子の身体が、一際激しく震えた。


「うっ……うっ……あ、あぁ、うああぁぁ……!」


 嗚咽。洋平の肩に、冷たい水滴がぽろぽろと落ちる。


「みーちゃん……! あんなに元気だったのに……! わたしは、何てことを……!」


 それから、五十子は大勢の名を呼んだ。ほとんどは、知らない名だった。

 洋平は身じろぎせず、五十子の号泣を全身で受け止め続けた。

 やがて泣き疲れた五十子は床に崩折れ、洋平の肩に頭を預けて、そのまま眠ってしまった。

 さらさらした五十子の髪の毛から、どこか甘くて、優しい日向ひなたの香りがする。それも、今はただ切ない。

 五十子を救おうと、洋平は心に決めた。彼女が求めた悲し過ぎる「救い」ではなくて、本当の、五十子のための新しい未来を。

 そのためなら、自分は――


「五十子、起きてる……?」


 振り向いた洋平の視線と、扉を開けて踏み込んできた人物の視線が交錯する。

 硬直する洋平。その肩にもたれ、寝息を立てる五十子。2人を見下ろす人物の視線は、たちまち剣呑なものになった。


「Come on bloody guy, 防空指揮所へいらっしゃい。久しぶりにmadな気分よ」

「ひいっ!」


 井上いのうえなるの銀縁眼鏡が、月光をギラリと反射した。

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