第3話 艦内旅行


 0600時、総員起こしのラッパとともに戦艦大和の一日は始まる。

 海面を覆った朝もやと、艦の機関が烹炊ほうすいじょの炊飯釜に送り込む蒸気とが溶け合う空気を割いて、セーラー服姿の少女達がデッキブラシを手に檜の甲板を駆ける。

 セーラー服といっても彼女達は学生ではなく、語源のままの水兵セーラーだ。


「艦は女の子で、私達海軍乙女の仲間なんです。だから毎朝欠かさずこうして綺麗にしてあげるんですよお」


 第一艦橋。

 まだ眠くて目をこすりながら甲板掃除を見下ろす洋平に、横に立つ戦務参謀・渡辺わたなべ寿子やすこ中佐が誇らしげに説明してくれた。

 明るい黄色のカチューシャがトレードマークで、声のふわふわした女の子だ。

 寿子の言葉通り、大和の艦内はちりひとつ無くて靴で歩くのが躊躇われるほどだ。ここ第一艦橋に備え付けられた伝声管でんせいかん羅針儀らしんぎの真鍮も、顔が映るくらいぴかぴかに磨き上げられていて艦へ注がれる愛情が伝わってくる。


「僕の世界でも、艦は女性だったな。擬人化したゲームや漫画が流行ってるよ」


「おっ、同志発見! 未来にも漫画があるんですねえ? 私、少女倶楽部で連載されてる『のらしろ』の大ファンなんです。フルカラーの単行本も高かったんですけど全巻買っちゃいましたあ! 何年か前にアニメ化された時は、帝都の映画館まで観に行ったんですよお」


 洋平が何の気なしに語った漫画というキーワードに、寿子は目を輝かせて飛びついてきた。


「それって『のらくろ』じゃ……いや、ひょっとして『のらしろ』って女の子だったりする?」


 女の子というか、めすか。犬だから。


「当然ですよお、海軍は男子禁制なんですから。あ、未来人さんは未来人さんだから特別ですよ? それでですね、連載がスタートした時は『二等水兵のらしろ』だったんですけど、どんどん出世して今は『少佐のらしろ』なんです」


「某サラリーマン漫画みたいなタイトルの変遷だね……」


 それにしても兵卒から叩き上げで特務士官どころか少佐って、どんだけ活躍したんだ、その犬。


「新キャラも続々登場します、勿論全員女の子ですよお。カップリングを考えるのが楽しくって!」


 今聞いてはいけないことを聞いてしまった気がするが、やはりこの世界は洋平の世界の過去とは異なるパラレルワールドのようだ。『のらくろ』の主人公はおす犬で、舞台は陸軍だったはずだし、連載は確か大尉まで昇進した辺りで戦時下のため打ち切られている。


「そういえば、五十子さんや他の人達は?」


 洋平は艦橋を見回した。寿子の他には、数人の見張りの少女達が直立不動で双眼望遠鏡を睨んでいるだけだ。


「それがあ、山本長官と黒島先任参謀は戦況報告の分析があって遅れるそうなんですよお。未来人さんの艦内旅行、先に始めてて下さいって。宇垣参謀長は、ぶらっとどこかへ行っちゃいましたあ。まあいつものことですから」


 至って軽いノリで言われたので、理解が追いつくのに少し時間がかかった。

 『艦内旅行』とは、新入りの乗組員に大和の巨大かつ複雑な艦内構造を覚えてもらうための儀式のことだ。部外者である洋平に、軍機の塊である大和の中を長官はじめ司令部メンバーが直々に案内してくれるという、常識では考えられない五十子のはからいである。

 そうではなくて、大事なのは『戦況報告』の方だ。洋平は海戦オタクとして培った知識を、頭の中のあちこちの引き出しから引っ張り出した。この時期に、海軍が遂行している作戦は……ある。


「インド洋作戦……今、セイロン島沖で戦ってたりする?」

「凄い、わかっちゃうんですかあ! やっぱり未来人さんは未来人さんなんですねえ!」


 はしゃぐ寿子とは反対に、洋平は顔をこわばらせた。

 恐らく1942年4月5日から、5日間に渡って続いたセイロン沖海戦だ。

 昨日、五十子から日付を聞いた時点で確認しておくべきだったが、自分の身に起こったことに圧倒されていて、そこまで考えを巡らす余裕が無かった。


「昨日のセイロンティーは、この作戦が上手くいきますようにって私なりの願掛けだったんですよお。誰も気付いてくれなかったですけど! で、で、未来人さんは、インド洋作戦についてどこまでご存知なんですかあ?」


 身体を密着させて、寿子が囁きかけてくる。声以上にふわふわしたバストが腕に当たり、洋平は慌てて身を離す。

 参謀3人組の中で、唯一最初から洋平を未来人だと主張してきたのは彼女だ。洋平の知識を引き出したいのかもしれない。一方の洋平にも、確かめておきたいことがあった。


「ええと、マレー沖海戦に敗れてシンガポールを失ったイギリス東洋艦隊は、インド洋のセイロン島まで後退。でも今頃には本国からの増援で戦艦5隻、空母3隻まで戦力を回復させてるよね。これを撃滅して南方資源地帯への脅威を取り除くべく、日本は真珠湾で活躍した南雲機動部隊を派遣。入渠中の加賀を除く空母5隻と金剛型戦艦4隻を主力とする第一航空艦隊が、セイロン島沖まで遠征している……あくまで僕の知ってる歴史通りなら、だけど。どう、合ってるかな?」


 セイロン沖海戦については、洋平は史実としても一通り知っているし、「提督たちの決断」のショートシナリオで指揮を執ったこともある。

 果たして、寿子の反応は。


「さすが未来人さん! 大体合ってますけどお、あれえ? 『いぎりす』と『にっぽん』て何のことですかあ?」

「……世界地図を見せてもらえるかな、渡辺中佐」

「えー、私のことは寿子って名前で呼んでくれないんですかあ」

「世界地図を見せて下さい、寿子さん」

「えっ、未来人さんとはいえ殿方からファーストネームで呼ばれるなんて怖い。私、海軍乙女ですし殿方とそういうのはちょっとお」

「面倒臭いなこの人」

「もう、冗談ですよお」


 戦務参謀は壁際の机に洋平を手招きした。

 大きな三角定規やコンパスが置かれた机に、下の引き出しから取り出した地図を広げる。

 一見しただけだと、日本列島を中心にしたごく普通の世界地図だ。

 陸地の形にも違いは見当たらない。しかしよく見ると日本列島の上に、『帝政ていせい葦原あしはらの中津なかつくに』という文字が。

 太平洋を隔てた巨大な大陸には、『ヴィンランド合衆国』。欧州に目を転じると、中央の『トメニア第三帝国』という国から四方八方に矢印が伸び、西にある『フランク』、それに東の『ルーシ連邦』の一部を、国境を越えて黒く塗り潰している。

 その下、地中海に突き出した長靴のような半島に『ナパロニ』。ドーバー海峡を隔てたイギリスと思しき島には、『ブリトン連合王国』と記してあった。


「未来人さんの知ってる名前と違うんですかあ?」

「ああ、うん。僕のいた世界では、このブリトンのことをイギリスって呼んだんだよ。ちなみに、ブリトンってどんな国?」

「ブリトンは、今こうして敵味方に分かれて戦ってますけど、私達葦原海軍にとって先生みたいなものですねえ。昔は艦もブリトンから買ってましたあ、金剛なんかがまだ現役です。それに、ティータイムを発明した偉大な国でもあります。……ただ、料理の方は正直ちょっと微妙かも」

「うん、どうやら違うのは国名だけみたいだね」


 暦の名前や漫画のタイトルが違うのだから、国名が違っていても少しもおかしくない。

 ……むしろ、もっと違っていて欲しかったのかもしれない。この世界が枝分かれしたパラレルワールドだという証拠を見るたびに、洋平はそのことにどこかで安心感を覚えていた。

 だが、もしもこの世界が、洋平の知っている歴史のように進むとしたら?

 昨日感じた悪寒が、再び背中を這い登ってくる。今こうして乗っている戦艦大和、そして海軍乙女である少女達の運命は、過酷で悲惨なものにしかならない。


「どうしました、未来人さん。顔色が悪いですよお?」


 気がつくと寿子が心配そうに覗き込んでいた。嫌な想像を振り払って、無理に笑う。


「……大丈夫。夕べ興奮してよく眠れなかっただけだよ」


 これは嘘ではない。何しろ、本物の戦艦大和に泊まったのだ。しかし寿子は何故か顔を赤らめて、数歩後退った。


「や……やっぱり未来人さんも殿方なんですね。乙女だけの艦に乗ると、あんなことやこんなことを考えてしまって、それで眠れなかったと……」

「ちっ違う、興奮ってそっちじゃないから! 僕が興奮する対象は艦艇とかで」


 誤解を招いていると気付いた時には、もう後の祭りである。


「擬人化ですか! 確かに艦も女の子だって言いましたけど、まさかそんな目で艦を見て、こ、興奮するだなんて! 喫水線下が赤いスカートに見えちゃったりするんですか? 未来人さんの考えることは未来過ぎてついていけないです!」

「僕は、寿子さんについていけないよ……」

「それでそれで、インド洋作戦の結果はどうなるんですかあ? 一航艦は真珠湾攻撃の時みたく東洋艦隊の奇襲殲滅に成功するのか、それとも。教えて下さいよお未来人さん」


 こちらが少し緊張を緩めたところで、すかさず寿子が本題に戻す。

 ふわふわした喋り方に惑わされるが、この少女は案外しっかりしてるというか、抜け目ない気がする。


「僕の知ってる歴史では、東洋艦隊を殲滅することはできなかった。まず奇襲にならない。事前に敵に見つかって機動部隊の位置と進路を特定されたのに、指揮官の南雲は攻撃予定を一切変えなかったんだ。まあ、セイロン島の基地航空隊は貧弱だから、強襲になってしまっても島の爆撃には支障ないけどね。ただ作戦の本来の標的だった東洋艦隊主力は、知らせを受けるなりセイロン島を放棄して遠い南西のモルジブまで退避、そこからさらにアフリカ東岸まで後退してしまった。沈めることができたのは逃げ遅れた重巡ドーセットシャー、コーンウォール、それに空母ハーミス。大物ではそれくらいだよ」


 ハーミスは空母といっても小型で、鳳翔に次いで世界で二番目に造られたヴィンテージ品だ。


「堂々と迎え撃って惨敗したマレー沖海戦で懲りてるからね、イギリス……じゃなかったブリトンは。攻められたら戦わず西へ逃げる、どうせこっちがインド洋に長く留まることはできないのをわかってる。そもそも、ブリトンにアジアで攻勢に出るつもりがないのは、東洋艦隊の増援内容を見れば一目瞭然だよ。増援されたのは主に旧式のR級戦艦だよね? 昨日の話じゃないけど、20ノット出せるか出せないかの低速艦で、要撃に使えても攻勢には向いてない。葦原の戦艦群がこの柱島泊地から動かないのと一緒だ」

現存艦隊主義フリートインビーイングってわけですかあ……本当に未来人さんの言う通りになるとしたら、ちょっと無駄足だったかもです。残念ですねえ」


 寿子は言葉通り残念そうではあったが、不思議と驚いた様子はなかった。


「ちなみに、未来人さんはインド洋作戦をどう思いますかあ?」

「えっ? いや、僕はただの海戦好きで、軍事専門家じゃないし」


 構いませんよお、と促されて、予期しなかった質問に戸惑いつつも洋平は口を開いた。


「正直……この時期にインド洋まで行くのは、手を広げすぎだと思う。どうせ今ブリトンは本国がトメニアに脅かされててアジアで攻勢に出られないんだから、攻略するのは後回しでいい。僕が連合艦隊の指揮を執らせてもらえるなら、西はマラッカ海峡までで止めておいて、東の対米、じゃない対ヴィンランド戦に専念する」


 洋平は、机上に広げられた世界地図を指でなぞってみせる。


「真珠湾奇襲で得られたのは時間だ。ヴィンランドに致命傷を負わせたわけじゃなくて、何ターンか動けなくしただけなんだから、畳み掛けてとどめを刺さないと。それを放置して、虎の子の機動部隊を反対方向の遠いインド洋まで遠征させる意味がよくわからない。貴重な資源の無駄遣いだし、ヴィンランドに回復の時間を与えてしまう……って、ごめん」


 いつしか洋平は、慣れ親しんだゲーム「提督たちの決断」の攻略セオリーを夢中で語ってしまっていた。

 偉そうなことを言って怒らせてしまったのではと恐る恐る寿子の顔を伺う。

 しかし、自軍の作戦を批判されたというのに、寿子は嬉しそうだった。


「ふふっ……未来人さんの言ってること、長官や黒島先任参謀とそっくり同じです」

「え、同じなの? それならどうして……?」

「そこが海軍という組織の難しいところなんですよお。さあ未来人さん、艦橋はこの辺にしておいて、次は主砲を見に行きましょう!」

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