第11話 散っちゃうね、桜


「嶋野大臣が山本長官の勲章にこだわる理由がわかりました。山本長官が授与されるのは功二級ですが、嶋野大臣には同時に功一級が授与されることになっているそうです。嶋野大臣は、自分だけが受章すると妬まれるので山本長官と一緒に受章して海軍内の不満を抑えたいと考えているようです」


 滞在先のホテル。寿子の話を聞いて、洋平は改めて怒りがこみ上げてきた。

 なんだよ、それ。五十子をなんだと思っているんだ。

 

「嶋野大臣は十中八九、親授式が済めばミッドウェー作戦を却下する心算です。こちらもからめ手から攻めましょう。ごう分断作戦に従うふりをして、その前段にミッドウェー作戦を組み込むんです」


 寿子はといえば既にいつもの飄々ひょうひょうとした顔で、部屋のベッドに地図を広げて作戦計画書を練り直している。


「目的は表向き島の占領に絞ります。ミッドウェーの飛行場を確保すればハワイの美太平洋艦隊の動向を察知し易くなり、美豪分断に有利に働くと説明するんです。『ミッドウェー攻略後、連合艦隊はそのまま太平洋を南下、トラック諸島に泊地を移して美豪分断作戦を本格化させる。ちょっとした寄り道』これなら選考通るかもです」


「待って寿子さん。そのスケジュールだとハワイ攻略ができなくなるんじゃないか?」


「これは政治ですよお未来人さん。嶋野大臣ご執心の美豪分断作戦を真正面から否定してたら彼女の顔が立ちませんから、とりあえず向こうが飲める落としどころを。それに、私達がミッドウェーで敵の機動部隊を壊滅させられれば、中央を取り巻く空気だって変わります。作戦目標にしたって、決定権は軍令部にあっても実戦の指揮は私達が執るわけですから。書類上は島の攻略が目的ですっていう体にしても、出撃しちゃえばこっちのもんです」


「なるほど……凄いな寿子さん。僕には思いつかなかった」


 名を捨て実を取るというわけか。黒島亀子に隠れて目立たないが、寿子も伊達に参謀をしていない。


「はは、赤レンガではお二人に任せて黙ってましたけど、中央との折衝は本来私の仕事ですからねえ。まあ、三下さんしたの発想ですよお」


 地図から目を上げて、戦務参謀は笑う。自嘲するような笑い方に、洋平は少しむっとした。


「はかりごとに参加すると書いて参謀だろ。1人で三下にならずに、僕も混ぜてよ」

「お、嬉しいこと言ってくれますねえ。でも、長官や未来人さんみたいな直球勝負も、個人的には嫌いじゃないですよお」


 ベッドに女の子座りした寿子が可愛らしく首を傾けてそう言った。その仕草に、洋平は急に気まずさを覚える。


「いや、あれはただ無我夢中で……それより寿子さん。僕、当たり前のように女子の部屋に入っちゃってるけど、これってまずくないかな?」


 ここは五十子と寿子のツインベッドルームで、洋平は本来別部屋だ。寿子はにやりとして、


「今更ですねえ。大和では少佐達の入浴を覗いたり、黒島参謀の部屋に入ったりしてたくせに」

「あ、あれは全部五十子さんが……」


「ふう、お風呂気持ち良かった~。ヤスちゃんと洋平君も入りなよ」


「アウトーッ!」


 バスタオルを巻いただけのあられもない格好でごく普通に登場した連合艦隊司令長官に、思わず叫んでしまった。

 姿が見えないと思ったら、風呂に入っていたのか!


「ん? だって2人には左手の怪我見られちゃったからね、もう隠す必要も無いかなって」

「いや! その理屈はおかしい! 怪我以外にも隠すものはある……はず……」


 濡れた前髪から垂れる水滴が、肩から鎖骨にかけたラインを伝って、小ぶりだが形の良い胸の谷間へ吸い込まれている。

 洋平の視線も、気がつくと勝手に同じ場所へと吸い寄せられている。

 理性を総動員して視線を五十子から引き剥がそうとしたところで、


「こういう時は、とりあえず殿方を殴っとくのがお約束っ!」


 寿子のパンチを頂き、「ごふうっ」とドアまで吹き飛ばされた。


「よ、洋平君? こらヤスちゃん! わたしが司令長官でいる限り連合艦隊で暴力は許さないよ!」

「いや……今のは、寿子さんが多分、正しい……頼む、服を……着てくれ……」


 今際いまわきわのように呟いていた洋平の背中のドアが、不意に外側からノックされた。


「? ルームサービスは頼んでないですし。さては長官のおっかけですかねえ」


 呑気にドアに近付いて魚眼レンズを覗き込んだ寿子が、顔を曇らせる。


「……伊藤さん」


「えっ、しずかちゃんなの?」


 上着をひっかけていた五十子が、ボタンを留めるのももどかしく扉を開け放つ。そこに立っていた長身の痩せた少女の顔は、洋平も見覚えがあった。

 赤レンガで洋平達を大臣室に案内した海軍乙女だ。名前が何だったか思い出せないでいると、寿子が小声で教えてくれた。


とうしずか中将。今は軍令部の次長ですが、宇垣参謀長の前任の連合艦隊参謀長だった方です。その前は海軍省勤務で、山本長官が海軍次官だった頃からの側近の1人でした。それなのに……」


 寿子の口調はどこか辛辣だ。五十子の方は「静ちゃん!」と両手を広げた。


「山本長官……!」


 走ってきたのか頬を上気させた伊藤静は、感情の無いロボット同然だった赤レンガでの様子とはまるで別人だ。服も紺の第一種軍装から淡い色のワンピースに着替えている。

 私服姿の静を、寿子は半眼でめ付けた。


「……伊藤さん、よくここに来られましたねえ」

「え? ええ、山本長官がここに泊まっておられるって聞いて」

「そうじゃなくて、あれは無いんじゃないかって話です。さすがの私も引くレベルでしたよお」


 静が赤レンガで五十子に話しかけられても聞こえないふりをしたり、散々無愛想に振る舞ったりしたことに対してだろう。

 寿子の怒りに気付いて、静の顔は青ざめた。


「しっ、仕方がないじゃないですか。赤レンガの中では、ああするしか。私達山本派は監視されているんです。ここへ来る間だって、尾行されてるかもしれないって思って、怖くて!」

「静ちゃん、落ち着いて。とにかく中に入ろう」


 五十子が震える静の肩に手を回し、ホテルの廊下にさっと視線を走らせてから扉を閉める。




「……海軍大臣と軍令部総長の兼任は、前から縦割りの弊害が指摘されていた省部の組織再編を戦時下の今こそ一気に推し進め、意思決定の迅速化と業務の効率化をはかろうというものでした。でも実態は嶋野さんが独裁者になるための方便で、肝心の組織再編は全く進んでいないのが現状です。嶋野さんにとっては戦争の拡大・長期化も、自分の権力を強化する手段に過ぎないんでしょう」


 ソファに座ってもなお震えていた静がようやく話し出したのは、数分経ってからのことだった。


「不満を抑えるために嶋野さんは総理と、その後ろ盾の陸軍に急接近しています。このままでは海軍はいずれ陸軍に吸収合併されてしまいます。そうなる前にこの戦争を終わらせようと、私達は外務省の吉田さん達と密かに接触しているんです」


 どうやら、静も目的は五十子と同じ早期講和にあるようだ。しかし、静に対して五十子が何か言うより先に、眉をひそめた寿子が割って入った。


「外務省? あそこの人達のせいで、山本長官が真珠湾攻撃の後どれほど辛い思いをされたかわかってるんですかあ。そのみそぎも済ませてない外務官僚を信用するだなんて」


 外務省の怠慢で宣戦布告が遅れたのは有名な話だ。こちらの世界でも同じ不祥事があったらしい。


「外務省だけじゃありません! 前総理の近衛公、それに政友会総裁だった鴨山先生の協力も取り付けています。陸軍の専横を快く思っていない重臣達を動かし、聖上に三国同盟離脱と対ぶり講和を上奏するのが私達の終戦工作です。これで、国民に人気のある山本長官も加わって下されば」


 今度も、寿子が途中で遮った。


「待って下さい。怪しい陰謀に私達の・・・山本長官を勝手に巻き込まないでもらえますかあ。近衛公爵に鴨山? 口だけは達者な政治家ばかりよく揃えたもんですねえ。憲兵隊辺りにひと睨みされれば尻尾を巻いて逃げ出す手合いばっかりじゃないですかあ。少なくとも、人前で長官に知らない人のふりをするような、今の伊藤さん達のことは信用できませんねえ」


 赤レンガの空気は思い出すだけで、直接の被害者でない洋平の胸を刺す。

 加害者の一員になることを強いられた静にも、痛みはあったのだろうか。

 静の瞳の端から、溜まっていた涙が零れ落ちた。


「……渡辺中佐は、嶋野さんの恐ろしさを知らないからそんなことが言えるんです。中央で表立って嶋野さんに反抗した子は、みんな予備役か僻地へきち送りにされた。もう耐えられません、こんなの海軍じゃない! 山本長官が次官だった頃の、輝いていた赤レンガはどこへ行ってしまったの!」


 後半は半ば慟哭どうこくだった。

 顔を覆って嗚咽おえつする静に、寿子がやり過ぎたかという顔をする。

 静を責めてもどうにもならないことは、本当は寿子にもわかっていたはずだ。前に、たばねが昔五十子を裏切ったことがあるという話をした時、寿子の口調に束への非難めいたものは無かった。

 五十子が、静の背中を優しくさする。「ごめんね、辛かったね」と。


 窓に、水滴が当たる音がする。

 視線を向けると、曇った空からぽつぽつと雨粒が降ってきたところだった。


「低気圧が来てるんだって」


 五十子はそう呟いた後で、どこか寂しそうに付け足す。


「……散っちゃうね、桜」







 下総しもうさ犬吠埼いぬぼうさき東方沖約700浬。

 波濤を蹴立て、輪形陣で西進する17隻の艦隊。その中心を進む空母の1隻が、北西に転針した。

 空母の飛行甲板後部。有り得ない物体がそこにあった。

 全長16メートル、全幅20メートル超の双発爆撃機。

 飛行場でなく航空母艦の甲板に、だ。

 常識的に考えれば搭載できるサイズではない陸上機が16機、斜交いに並んでいる。

 空母は艦首を風上に突き立てた。

 高さ30フィートの波が艦を揺さぶり、40ノットの風が甲板上にある全てを吹き飛ばそうとする。全身をずぶ濡れにしながら、整備員達が機体を甲板に拘束していた鎖を外していく。


「薬は飲んだか? 新しいゲロ袋は持ったか? よおし気張りなチェリーボーイズ!」


 つなぎ姿の金髪少女が風に負けない大声でがなり親指を立てると、機体のハッチを密閉した。


「全機、発艦準備完了!」


 艦橋。そばかす顔の女が艦長席に身を沈めていた。

 毛先がハネた褐色の髪、耳には大ぶりのピアス。チューインガムを噛む音をくちゃくちゃ立てながら、スピーカーから流れる演説に耳を傾ける。


〈第16任務部隊司令官フレンダ・ハルゼイよりドーリットル隊の男達へ! サンフランシスコからここまで半月の航海、よくぞラ・メール症状に耐え抜いたわ! 貴方達は既に英雄よ!〉


「ハルゼイのお嬢、今日は一段と声がデカイっすねえ。耳がガバガバになりそうっす」


 部下の1人が肩をすくめ、艦長席を振り返る。艦長は返事の代わりにガムをぷーっと膨らませた。


〈あの忌まわしいパールハーバーの悪夢から4ヶ月。私達は屈辱に耐え、苦渋を舐め続けてきた。そして今日! ようやく卑怯なサルどもに対し反撃の狼煙を上げる時が来たの。4月18日は、ヴィンランド合衆国のみならず全人類にとって記念すべき日になるわ。ドーリットル隊は、栄光とともに歴史にその名を刻むのよ!〉


「ミッチャーの姉御はスピーチ(笑)しないんすか? こちとら15日間もイカ臭い陸軍機の運び屋やらされてムラムラしてるんすよ。姉御も一発カマしてやって下さい」


 いっぱいに膨らませたチューインガムがパチンと弾け、艦長は大儀そうに背もたれから身を起こした。

 士官服の袖を荒く切り裂いた肩先には、とぐろを巻く蛇のタトゥーが彫り込まれている。


「ガラじゃないさ。んなことよりレーダーから目ぇ離すんじゃないよ。ここはカリブじゃないんだからね」

「へーい」


〈誇り高い自由の戦士達よ! 己は安全だと思い込んでいる愚劣なサルどもの頭上に、今こそ正義の鉄槌を振り下ろしなさい! God bless Vinland !(ヴィンランドに神の祝福を!)〉


〈God bless Vinland !  God bless Vinland !〉


 勇ましい演説の締め括り。スピーカーから聞こえる大合唱に、CV-8ホーネット艦長、メイベル・ミッチャーは薄ら笑いを浮かべた。


「……神の祝福ねえ」


 艦橋のガラスをビリビリと震わせ、1機目が重い機体を持ち上げ発艦していく。それを見守る女の眼差しは、軽薄な口調とは裏腹にひどく暗かった。


「この糞ったれた世界に、神なんていやしないよ」


 爆撃機は西へ旋回する。

 その先に、700万人の市民が暮らす東洋一の大都市が広がっていた。


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