第26話 人は憎しみで生きていけますのよ


「定時報告をお願いしますわ、伊藤さん」


 海軍省・軍令部、通称赤レンガ。

 爪にマニキュアを塗りながらの嶋野軍令部総長兼海軍大臣の声はどこか楽しげで、とうしずかは上司の機嫌が良いことに内心ほっとした。


おお和田わだ通信所より、敵信の観測結果が届いております」


 恭しさに忠実さを滲ませつつ、携えてきた書類を嶋野に差し出す。


「ハワイから西海岸にかけ、ここ数日で美軍の無線通信量が急増しているとのことです。こちらの作戦が察知された可能性も考慮し、大和田はGF司令部及び作戦参加部隊に対し警告の要あり、と」


 静自身が五十子達の身を案じていることはおくびにも出さない。

 感情を殺すこと、自分自身の意見は決して口にしないこと。それが嶋野の部下として赤レンガで生きていくために静が身につけた術だった。渡辺中佐の非難は正直胸にこたえたが、大切なのは自分達山本派が中央に残り、そしていつの日か終戦工作を成功させることだ。

 海軍戦力のほとんどを集めて行われる奇襲作戦が敵に気付かれたかもしれないという報告なのに、嶋野の楽しげな表情は変わらなかった。五十子とは違い、嫌なことがあればすぐ顔に出て部下に当たり散らすタイプである。プライベートで何か良いことでもあったのだろうか。


「わかりましたわ。こういうこともあろうかと、送る文面は予め考えてありましてよ」


 嶋野は短い活字がタイプされた紙を取り出し、訝る静に読むよう促す。


「……『マーシャル諸島南方で西航する美空母2隻発見。美軍はポートモレスビー防衛のため豪州近海に兵力を集中せる疑あり』……嶋野閣下、これは?」


 おかしい。

 軍令に関わる嶋野への報告は全て軍令部次長である自分を通すことになっているはずなのに、初めて目にする情報だ。

 鮮血色のマニキュアを塗り終えた嶋野は爪にふうっと息を吹きかけて、満足したように目を細める。

 何故だろう。ひどく嫌な予感がする。


「驚くのも無理はありませんわ。だってそんな報告、届いてませんもの」


「……え?」


 静は耳を疑った。

 聞き間違いに決まってる。

 でも、空襲で中央の風向きが変わったとはいえ、あれだけ反対していたGF司令部立案のミッドウェー作戦をあっさり承認したのは、まさか……いや、有り得ない。いくら嶋野が五十子を政治的に敵視しているからといって、そこまでするはずが……。


「ところで伊藤さん。私今、人事案を作っているところですの。少し見て頂けませんこと?」


 全身の毛がぞわりと逆立つ。

 足が勝手に後退る。

 何でもいい、一秒でも早くこの部屋を出たい。


「私は今は軍令部の人間です。人事のことはわかりかねます」

「まあそう堅いことをおっしゃらずに。新しい部隊の編制を考えてますの、陸戦隊ですのよ」


 気付いた時には、嶋野に2枚目の紙を握らされていた。「南方異動候補者一覧」という太字のタイトルが、真っ先に目に飛び込んでくる。


「ほら、井上さんの第四艦隊がMO作戦に失敗してしまったせいで、ポートモレスビーの攻略は陸路でしないといけなくなったでしょう? 陸軍に迷惑をかけてしまう手前、海軍からも応援を出さなければいけませんわよね。伊藤さん、ここに書いてある方々に貴女から伝えて下さいません? 高温多湿のジャングルと4000メートル級の山を越えて行軍しますから、今から足腰を鍛えておくようにって。後、虫刺されと日焼け止めも多分必須ですわねえ」

「……っ!」


 嶋野の口角が裂けた。

 静の目は、紙に羅列された大量の人名に釘付けになっている。

 静と共に終戦工作に参加してくれているメンバーの、静を除く全員。それだけではない。終戦工作と何も関係のない、兵学校時代に静と仲の良かったクラスメートや、可愛がった後輩達の名前まで。

 静の中で、大切な何かが音を立てて壊れていく。


「あ、あ、あ……」


 意味をなさない声が漏れる。

 最後に静は腰が抜けたように、その場にくずおれた。


「貴女達のおままごとに、私が気付いていないとでも思ってましたの?」


 いつの間にか静の背後に回り込んでいた嶋野が、震える肩に指を這わせながら耳元でささやく。


「でも、伊藤さんだけは許してあげますわ。空襲の時、私を守って下さったお礼に。もっともあれは、山本さんの声に自然と身体が動いてしまっただけなのかしら? 妬ましいですわ」

「……っ!」


 耳に歯を立てられた。噛まれたところが熱い。


「山本さんが悪いんですのよ。私の決めた通り長期不敗体制を敷かなければならない時に、早く講和したいなどと……これ以上悪さができないように、おもちゃは取り上げてしまわないといけませんわ」


 おもちゃ……?


「主力の戦艦には絶対危険が及ばないよう保険をかけてありますから安心ですわ。一航艦のお馬鹿さん2人は、私の言いつけを守って島しか攻撃しないはず……そしてあの子は、大切な仲間がやられているのに後方300浬で何もできない。後で皆さんどうお思いになりますかしら? 山本さんは日頃あんなに仲間思いの優しい人ぶっていたのに、いざという時は平気で見殺しにする。もうこの人が何を言っても信じられない……ああっ、最高ですわあ」


 静は悟る。自分はこの人に巣食う闇の深さをわかったつもりになっていて、その実、致命的なまでにわかっていなかった。

 どれだけ嶋野が五十子のことを憎んでいても、派閥なんて言っていても、どこかで同じ葦原の海軍乙女同士だという甘えがあった。


「……酷い……」


 見開いたままの静の目から、透明な滴が零れる。

 嶋野はそれを平然と掬い取り、口へ運んだ。


「んふ、美味しい。絶望の涙は甘露の味……良いですわ、もっと私を悦ばせて下さいな」


 もう一方の手を動けなくなった静の胸から鎖骨、喉へゆっくりと這わせた嶋野は、最後には顎を強引に持ち上げ、静の唇に指を当てる。


「山本さんにはもう、してもらいましたの?」


 彼女が何を言っているのか、これから自分が何をされようとしているのか、よくわからない。目は開いているはずなのに、視界がぐちゃぐちゃで何も見えない。もう、どうでもいい。


「あら……そう。じゃあ貴女の初めては、私ですわね」


 麻痺しつつある感覚の中で、嶋野の吐く息だけがひどく近かった。


「憎いでしょう、私のことが。その憎しみを忘れないことですわ。感謝や信頼なんてすぐに消えてしまうもの。人は憎しみで生きていけますのよ」


「……貴女は、可哀想な人です」


 頭の中で反響する嶋野の声に、半ば独り言として静は呟いた。もう自分が何をされても構わなかった。

 だが、そのか細い声に、嶋野の手は強張る。


「可哀想? 私が?」


 声から、抑揚がすとんと抜け落ちる。


「貴女達をみんな最前線送りにできる権力を持っているこの私が、可哀想? ほほほ、何を言っているんですの……黙りなさい、黙れえっ! あの子みたいに、私を憐れむなあっ!」


 途中から嶋野は激昂して、静の首に手をかけた。

 馬乗りになって、ぎりぎりと締め上げる。


「貴女に何がわかりますの、あんな子と同期にさせられて、比べられた私の痛みが! 良い子ぶって、どこまでも良い子で、あの子と一緒にいると私がどんどん醜くなっていく! だったら私のところまで、引き摺り下ろしてやるしかないじゃない! あの子の大切なものは全部奪い取って壊してやる! それであの聖女面が私への憎しみで歪むのが見たい、見たい、見たい!」


 言葉を区切った嶋野は、口から泡を吹いてひゅーひゅーと息をする静を血走った目で見下ろす。


「そうやって、あの子に私を刻むの。私は山本さんのことが大好きですのよ、貴女達なんかよりずっとね。そう、これは愛ですわ」

「……山本長官は……誰かを憎んだりなんて、しません……」


 嶋野は舌打ちしながら、静の身体を荒々しく床に投げ出した。

 興が醒めたように立ち上がる。


「さっきのリストにある子達がどうなるかは、全て貴女次第。それを忘れないことですわね」


 嶋野が吐き捨てるようにそう告げて部屋を出て行った後も、静は乱れた着衣のまま床の上に転がっていた。

 手にはくしゃくしゃになった2枚の紙。

 ただ涙が止まらなかった。

 嶋野の言いなりになるしかない、無力な自分が情けなかった。

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