2.走る少女は何想う
それは、キスと呼ぶにはあまりにも長い時間。
彼女の唇は僕の唇に重ねられ。
そしてそれは。
人間は鼻でも呼吸できるということを忘れてしまうほどの衝撃を受けている僕が酸欠状態に陥ってしまう直前まで続いた。
「――っぷはぁ」
とにかく長い時間に感じられたそれは、実際には数秒の出来事だったらしい。
しかし、僕の脳には甘い媚薬を直接流し込まれたような感覚が押し寄せているし、彼女――一条奏の顔は、もはや夕日というより燃え盛る炎に近いくらいに赤くなっている。
「い、一条さん!? いったい何を!?」
数歩後ずさりながら、僕が慌てて声を上げると、一条さんは可愛らしく小首をかしげて、いたずらっぽい笑みを浮かべる。
「何って、キス、だけど?」
「いや、そういう事じゃなくって……。どうしてそんなことをしたのかって意味で……」
なぜこっちがしどろもどろになっているのか自分でもわからないが、とにかくお互い冷静でないことだけはわかる。
「わたし、今のが初めてなんだ。セキニン、とってくれるよね?」
艶やかで潤んだ可愛い唇に人差し指を当て、一条さんが僕に微笑む。
その顔は相変わらず赤くて、こんな表情の一条さんを僕は見たことがなくて。
とにかく冗談やいたずらでないことだけは確からしい。
「せ、責任ってそんな……」
生憎、僕はこういう場合の責任の取り方は知らないし、向こうから一方的にしてきたことに対する責任の所在が
「だからさ、ね? わたしの許嫁になってくれないかな?」
何度目かの、同じ質問。
ああそうだ。
冷静に考えて、僕らみたいな一般階級の平凡な長男と許嫁という単語はミスマッチすぎる。本来一生縁のない話だろう。
それに、まだ高校二年生の僕らにとって許嫁――つまり結婚なんて、想像もできないことだ。
「――それに、まだ僕は一条さんのこと、よく知らないし」
だから、僕はそれをそのまま一条さんに答えた。
しかし一条さんは、全然大したことないとでも言いたげに、くすっと笑って見せた。
とても可愛らしい、太陽のような笑顔。
クラスではあまり多くの人とコミュニケーションをとっている場面を見かけなかったけど、こんな表情もできるんだなと思う。
とはいっても、僕のようにぼっちというわけではなく、どちらかというと孤高というか、高嶺の花過ぎて近寄りがたいというか、そういう意味だ。
「そうだよね」と、彼女はうんうんと頷きながら何やら独り言ちる。
「いきなり許嫁って言われても困るよね、ごめんなさい」
やがて口を開くと、以外にも素直な言葉が出てきた。
どうやら考え直してくれたらしい……わけではなく。
彼女は僕の手をぎゅっと握り、顔の下くらいまで持ち上げる。
すると僕の手は、自然と彼女の豊満な胸に押し当てられてしまうわけで。
僕がゆでだこのような顔をさらに赤くしていることを気にも留めず、一条さんは二の矢を放つ。
「じゃあさ」
名案を思いついたと言わんばかりの満面の笑み。
可愛いのは認める。こんな子に言い寄られてうれしいのも認める。
でも。
とんでもなく波乱の予感がするというのもまごうことなき事実なわけで。
「お試しとして、わたしと付き合ってみない?」
そしてこういう時の予感は往々にして的中率百パーセントというのも定石らしい。
一条さんははじけるような笑顔を僕に向け、キラキラした瞳を見開いている。
「その間に、知ってほしいんだ。わたしのことも、わたしの家のことも」
それから、また考えてみてよ。
そう言うと、一条さんはその大きな瞳を不安げに揺らし、上目遣いで僕を覗き込む。
「ダメ、かな……?」
その瞳はさっきとは打って変わって捨てられた子犬が拾ってくださいと懇願するような、弱弱しくて甘えるように潤んでいる。
はあ……。仕方ない、か。
それを見た僕は、渋々ながらも頷くしかなかった。
「本当!? ありがとう!! 藤原君、だぁーい好き!♡」
……ま、きっとそのうち僕のことを深く知るうちに、幻滅して離れていくだろう。
その時までは、彼女の望むまましてあげよう。
ぎゅっ、と一条さんが僕の右腕に抱き着いてきて、頭をぐりぐり押し付ける。
くすぐったいし、一条さんの髪からシャンプーのいい匂いが漂ってきて、端的に言ってヤバい。
僕の中のなにかしらが爆発しそうになるのを必死で食い止めながら、これから訪れるであろう未来に思いを馳せる。
しかし僕程度の想像力では思いもつかなかった。
彼女と付き合うということが、そんな簡単な話ではないという事を――。
*****
「まずは、RINE、教えてよ」
「うん、わかったよ」
付き合うことになった第一歩として、メッセンジャーアプリの連絡先の交換をすることになった。
今までの僕の連絡先と言えば、両親と奈乃、妹を除くと図書委員の業務連絡用に交換した斎藤さんくらいしかなかった。
増えたのはかなり久しぶりというのもあり、なんとなくうれしい気持ちになってしまう自分がいる。
一条さんのスマホに表示された友達追加用のQRコードを読み取り、出てきたアイコンが一条さんのものであると確認すると、その下の『追加』ボタンをタップする。
これで晴れて連絡先の交換が完了する。
「うん、一条さんを登録したよ」
「えへへへ、夢にまで見た藤原君の連絡先……はううぅ」
一条さんもどうやら喜んで(?)くれているらしい。
僕なんかの連絡先がそんなに嬉しいのだろうか、あまり自信はないが、でも彼女の笑顔が何より物語っているのだろう。
しかし、次第にそのとろけた笑顔は形を変え、一瞬のうちにしかめっ面になってしまう。
「ど、どうしたの?」
「おかしい!」
「え?」
「おかしいよっ!」
なにが?という意味で聞き返すが、帰ってきたのは同じ言葉。
僕が理解できずにいると、一条さんはプンスコといった顔で僕に向き直り、言葉を続けた。
「付き合ってるのに、苗字で呼び合うのはおかしい!」
ああ、そういうこと。
確かに、ある程度親密な仲なら名前で呼び合うこともあるし、カップルとなればむしろそれが自然だろう。
「わたしのこと、名前で呼んでみて!」
「でも、照れくさいよ……」
一条さんに催促されるが、あまりの照れくささについ断ってしまう。
すると彼女はすこし考えたあと、じゃあ、と切り出した。
「わたしから呼ぶから、それにこたえてよ。それなら少しマシだよね?」
まあ、自分から呼ぶよりは多少紛れるかと思い、僕は素直にうなずく。
すると一条さんは、一つ深呼吸をして、僕の目をじっと見つめた。
そして、意を決したように口を開く。
「れ、蓮人君」
ああ、なんて可愛いんだろうか。
さっきはもっと恥ずかしいことをしていたのに、名前呼びくらいで照れるんだななんて思いながら、彼女の勇気に応えるように僕も勇気を振り絞る。
「うん。奏、これからよろしくね」
「はうっ!!!」
と、彼女が大きく目を見開き、びくっと体をはねさせる。
さすがに呼び捨てはマズかったかと反省し、謝ろうとするが、彼女が後ろを向いてしまったのでそれは出来なかった。
「やばいやばい……蓮人君、好きすぎるよぉ……」
背中を向けてぼそぼそ喋るものだから、彼女――奏がなんて言ったのかうまく聞き取れなかった。
しかし、どうやら怒ってはいなさそうなので、今後も奏と呼ばせてもらうことにしよう。
そんなこんなでいつの間にか校門まで出てくると、そこにはこの辺ではお目にかかれないドイツメーカーの黒いセダンが停まっていた。
すげーかっこいい!などとつい男の子の血が騒いでしまうが、奏は見慣れた様子でその車に近づいていく。
運転席から出てきたスーツの男性が、後部座席のドアを開けた。
なるほど、奏のお迎えだったのか。
奏はこちらに向き直り、満面の笑みで僕に手を振った。
「それじゃあ蓮人君、また明日ね! 大好き!」
「う、うん。また明日」
奏の言葉を聞き、運転手の男性は驚いたように僕と奏を交互に見ている。
そして、僕ににっこりと柔和な笑みを見せると、きれいなお辞儀をして運転席に乗り込んでいった。
僕は走っていくセダンを見送って、自分の家に向かって歩き出す。
「今日はいろんなことがあったなあ……」
見慣れた通学路を歩きながら、そんな風に独り言ちる。
朝、奈乃に告白してフラれ、放課後は奏に告白され付き合うことになった。
一日でここまでのジェットコースター体験をすることは今後の人生でもそうないだろうなと思う。
明日からどうなるんだろう、まあなるようになるか、なんて呑気なことを考えていると、少し先の電柱の影に女の子が立っているのに気がついた。
うちの制服を着ているし、リボンが赤ということはつまり
というか。
あの遠目にも目立つブラウンのツインテールは、間違えようもない。
僕が今朝告白し、無惨にも散った相手。
僕の幼なじみにして、クラスメイトで、校内二大美少女の一人。
桜庭奈乃。
奈乃は電柱に背を預け、退屈そうにスマートフォンをいじっているが、しきりに髪をいじったり急に顔を上げてみたりと、なんとなくそわそわしているようにも見える。
まるで、誰かを待っているような、そんな仕草だ。
奈乃の位置まであと数メートルというところまで来ると、足音に反応したのだろうか、彼女が急にこちらを見た。
そして、一瞬笑みを浮かべ、すぐにいつものつんけんした顔に戻る。
「奈乃、今帰り?」
努めて気にしていない風に声をかけると、奈乃は持っていたスマホをカバンにしまい、僕の質問には答えずに不機嫌そうな顔で口を開いた。
「蓮人こそ、こんな時間まで何をしていたの。放課後も、しばらく残っていたようだけど」
「それを聞くためにこんな時間まで待ってたの?」
思わず、そんなことを聞いてしまう。
でも気になってしまったものは仕方がない。
こうやって衝動的に発言してしまうから、今朝の裸単騎的告白という事態に陥ってしまったのだけど……反省。
「わ、私のことはいいのよ!」
奈乃は慌てたようにそう言って、一瞬右下に視線を向ける。
そして、一秒、二秒、三秒……。
もうだいぶ傾いて、紫がかった空の色を、奈乃の頬は赤く照り返している。
ぎゅっ、と、彼女の握った両手に力が込められた。
刹那、顔を上げた奈乃は、先ほどの何倍も顔を真っ赤にして僕を鋭い
その気迫に、思わずたじろいでしまうが、しかし怒られるようなことをした記憶もない。……
「今朝の告白のことなんだけど」
あ、まさかの
そこまで言って、奈乃はまた黙ってしまう。
言うか言うまいか迷っているような、そんな表情に見えた。
絶縁するかどうかで迷っているのだろうか。
だとしたら僕はもう終わりです。さようなら。
父さん母さん、先立つ不孝を――
「わ、わたしっ!」
と、脳内で遺書をしたためていると、奈乃がダンっと強く足踏みして、大きな声を上げた。
力強く握られた両手は体の横でぷるぷる震え、顔はこれでもかと赤くなって目は閉じられている。
僕は黙って奈乃の言葉の続きを待つ。
「今朝はあんなこと言ったけど、わたしっ! わたしも――」
「奈乃」
「――え?」
僕は、その言葉を遮った。
もちろん、わざとに。
「僕は気にしてないよ。奈乃が謝ることじゃない」
「は? え? 何を言って――」
奈乃が何か言おうとしても僕は話すのをやめず、矢継ぎ早に言葉を重ねていく。
「奈乃が僕の告白を断ったから、僕が気まずい思いをしていると思って気に病んでくれているのは僕にも分かる」
そう、奈乃は本当はすごく優しい女の子だから、自分のせいで僕が陰口を言われてしまったと責任を感じているのだろう。
でも、それは間違いだ。
「僕が勘違いしちゃったせいだから。もしかしたら奈乃も同じ気持ちなのかもって……僕なんかが奈乃と釣り合うはずもないのにさ」
ははは、と、頬をぽりぽり掻きながら愛想笑いする。
言ってて泣きそうになるのを堪えながら、この恋とは決別するんだと、改めて自分に言い聞かせる。
「ち、ちが……なんでそんな……わたし本当は蓮人が――」
奈乃が何か言っているが、その声はあまりに小さく僕の耳には届かない。
だから、僕は気にせず思いの丈を全て吐露した。
「だからさ、奈乃。僕のことは気にしないでいい。僕も、新しい恋を見つけるよ」
「――っ!」
それは、精一杯の僕の笑顔。
奈乃が、僕に気を遣ってしまわないように、僕が
だが。
しかしどうやら。
「れ……れ……」
やはりまたしても。
「蓮人のバカーーーーーーーーーーーーっっ!!!!!」
「……え?」
僕は間違ってしまったらしい。
走り出す奈乃の背中を呆然と見ながら、僕は自分のセリフを全て
しかし、特に見つかるわけもなく――。
打つ手なしとばかりに、僕は独り言ちるしかなかった。
「僕、またなんかやっちゃいました?」
いや、マジで。
誰か教えて。
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