6.醜悪な笑顔
なんでこの人がここに。
これはバカ橋先輩に引っ張り込まれた倉庫の中、わたしが一番最初に抱いた感想だ。
そこには本来ここにいるはずのない人間がいて、それはシャツの上から白衣を羽織って、女騎士に媚薬を盛る直前のオークよりも醜い
ともかく、どうやらわたしに本当に用事があったのはバカ橋先輩ではなく、コイツだったらしい。
「奏さん、また会えましたね」
「そうですね。もう会いたくなかったんですけどね、二度と」
「おやおや。未来の夫に対してその態度は些か薄情ではないですか」
「え、オットセイ? あなたの未来がオットセイってことですか? どういう成長過程?」
何を言っているんだろう、この人は。
わたしの未来の夫は蓮人君だし、薄情というより、あなたの勘違いっぷりに爆笑って感じなんだけど。
「お、おい! 春見さんになんてこと言ってるんだ!」
「いや、いい」
横からバカ橋先輩がなにやらしゃしゃり出てきたのを、春見さんは手で制する。
バカ橋先輩はしぶしぶ引き下がった。
なんの茶番?
「……で、何の用でしょうか? 縁談のお話なら、何度もお断りしてますよね?」
既に、親戚のおじさんがお酒を呑みながら語る
少しだけイライラを声音に乗せて渾身の真顔で春見さんを見据えるも、彼は少しも気にした様子なく、銀縁のメガネをくいっと持ち上げた。
「ええ、その件なら私も承知しています。今回は
慇懃な態度は崩さず、しかしその柔和な笑みの奥にはそこはかとない気持ち悪さを感じる。
バカ橋先輩が、ははっと気色悪く鼻で笑う声が聞こえた。
「私と結婚してくれとはもう言いません」
「さっき似たようなこと言ってませんでした?」
「……あれが最後です」
「あ、そうですか」
ひくひくとこめかみが動いているのがわかる。
煽り耐性はザルらしい。正味どうでもいいけど。
さすがにこれ以上放課後の貴重な時間を割くわけにはいかないので、とっとと本題を話して解放してほしいところだ。
ちらっと右手の腕時計を見ると、結構な時間が経っている。
蓮人君と一緒じゃない時間は、まさに一日千秋に感じられる。今十分経ってるから、十分六.九秋だ(?)。
じりっと、春見さんが一歩距離を詰めてきた。反射的に同じだけ後ずさると、いつの間にか後ろに回り込んできていたバカ橋先輩にぶつかった。
「……なんですか」
努めて冷静に声を出す。
でも、身体が小刻みに震え出すのを感じた。
なにやら危ない雰囲気だ。はいそうですかと解放される可能性は少ないような気がした。
「今まで私は女性に拒絶されたことはないんです」
と、春見さんが聞いてもいないことをいきなり喋り出した。なぜ急に「まともな価値観を持った女性に出会ったことがない自慢」を始めたのかは定かではないが、その"女性"にわたしを含めようとしているなら、オーシャンビューが自慢の別荘の目の前に85階建タワーマンションの建設が始まったくらい迷惑だ。
「なぜだか気になりますか?」
いいえ全く。
コーラのペットボトルに角砂糖をいくつか入れて、「こんなに糖分が含まれているんですよ!」と声高に主張しているあの謎の展示物くらいどうでもいい。
あれホントどうでもいいよね。あれをみて「やば!コーラ飲むのやめよ!」ってなる人は最初から飲んでない。
しかしわたしのそんな考えとは裏腹に、春見さんは勝手に続きを喋り出した。
この人は普段から相手の都合を考えずべらべら喋り続けているのだろうか。もはや病気だよ。
「初めは嫌がっていても、最後には求めてくるようになるんですよ、女の方からね」
春見さん改めカス見さんは、フライパンにこびりついた油汚れよりも不快な笑顔を更に気持ち悪く歪ませ、右手を顔の横あたりで振った。
「きゃ!」
それが合図だったのだろう。
わたしの後ろにいたバカ橋先輩が、背後からわたしの両腕を羽交い締めにした。身動きが取れない。
わたし自身腕力がある方ではないし、そもそも相手は歳上の男性。暴れたところでびくともしないのは当然だった。
──怖い。
大声を上げたいのに、喉が震える。声が掠れる。
「マットに」
目の前の男がそう指示を出すと、バカ橋先輩がわたしを引きずる様にマットの方へ移動させる。
足は自由に動かせるのでバタバタと暴れるが、後ろに蹴るというのはかなり力が伝わりにくく、バカ橋先輩のスネや膝に何発当たっても怯む様子はない。
そうして、されるがままマットに仰向けにされ、わたしの頭の上にまわったバカ橋先輩が両腕に体重をかける様にして床に押し付ける。
身を
先ほどまで綺麗に整った顔に柔和な笑みを浮かべていた男性は、別人のように醜悪な面構えで、カチャカチャとベルトを緩めながらこちらへ近づいてくる。
──蓮人君、蓮人君! 助けて!
必死に叫ぶ。なのに喉から出るのは、掠れたような吐息だけ。
そっか、ここで奪われてしまうんだな。
蓮人君のために残しておいた、蓮人君に捧げたかった純潔は、今ここで。いっそ舌でも噛んで死んでやろうか、なんて考えすら浮かんでくる。
「髙橋、ちゃんと抑えとけよ。終わったらまわしてやるから」
「っす!」
バカ橋の笑顔に吐き気を催す。
嫌だ、嫌だよ、蓮人君……。助けて──!
わたしの想いも虚しく、その気持ち悪い人間はどんどんわたしの距離を詰める。
右手がわたしの胸に向かって伸びてくる。
ブラウスのボタンに指がかけられようとしたその瞬間──
「こんちわー」
物置の扉が開き、先ほどまで切れかけの電球しか明かりのなかった室内に、眩しい外の日差しが差し込んできた。
逆光で暗くなったその入口に立っていたのは……。
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