7.幸せな痛み

「こんちわー」


 錆びついて重くなっていた物置のとびらを、体重をかけて一息に開け放つ。

 音でしか中の状況が把握できず、奏の声が聞こえなくなったので突入したが、どうやら中の様子を見るにギリギリだったらしい。


「な、なんだお前! なんでこんなところにいる!」


 マットの上で奏の胸に手を伸ばしていた男──春見茉樹が驚いた様にこちらに振り向く。


「春見さんこそ、敷地内は関係者以外立ち入り禁止ですよ?」

「た、髙橋! なんで鍵かけてねーんだよ!」

「この物置は鍵壊れてるんすよ! だから俺らも入れたんすから!」

「ま、そういうことです」


 考えたらわかるだろうに。

 いくら勉強できても、頭の良さとは無関係なんだな。

 或いは下半身に脳を支配されていて、機能が著しく低下していたのか。

 きっと両方だろう。


「とりあえず、奏から離れてもらえますか? 僕の──許婚なんです」

「てめぇ──っ!?」


 努めて冷静に、端的に話す僕に怒りを覚えたのか、マットの上で奏の両手を抑えていた髙橋と呼ばれる男子生徒が、拳を振り上げてこちらに向かって走ってくる──が、僕の顔を見て足を止めた。

 いや、正確には、を見てと言うべきか。

 春見さんも、先ほどまで怒りで真っ赤になっていた顔を一瞬で真っ青に塗り替えて、愕然とその人物を見つめている。


 さて、一体その人物とは誰なのか?

 答えは春見さんに発表してもらおう。

 では、張り切ってどうぞ。


「と、父さん!? どうしてここに!?」


 そう。春見茉樹の父親、春見源治かすみげんじさん。春見医院を開業したお医者さんにして、一代で県内有数の医療法人まで育て上げた大先生である。


「茉樹! 貴様はなんてことをしてくれたんだ!」


 鬼とメンチ切りあっても勝ててしまうほどの怒髪天の形相で、源治さんはマットの上で固まっている春見さんの元へ歩いていく。

 お医者さんってもっとひょろひょろしたイメージだったけど、源治さんは歴戦の戦士を彷彿とさせるくらい筋骨隆々だ。

 後ろにホイ◯スライム引き連れて誘拐事件の捜査とかしてそう。


「と、父さん、これは――ごふっ!?」


 あっという間に春見さんの目の前に立った源治さんは、ムキムキのバッキバキに膨れ上がった右腕をノーモーションで一閃、思いっきり振りぬいた。

 顔面にもろに食らった春見さんは一馬身ほど吹っ飛び、自慢の銀縁メガネの破片で眉間を切り、鼻血も混ざってシャレにならない量の流血をしている。


「あ……がふ……ふが」

「貴様は勘当だ! 二度と春見の名を名乗るな!」


 もはやまともにしゃべられなくなっている(元)春見さんに、源治さんは雀の涙ほどの情けもかけず髪の毛を掴んで持ち上げ、おでこがぶつかるくらいの距離で大音声だいおんじょうを放って怒鳴りつけた。


 どさくさ紛れに髙橋とかいう男は逃げていったようだが、ま、それに関しては外に控えている肇さんがどうにかしているだろう。


 僕は急いで奏のもとに駆け寄り、震える小さな体を抱きしめた。


「奏、もう大丈夫だよ。ごめんね」

「れ、れれれれれんとくううぅぅぅぅんっ!」


 大粒の涙がせきを切ったように溢れ出し、僕の胸はあっという間にびしゃびしゃに濡れる。

 でも僕は、そんなこと気にも留めずにさらに強く奏を抱きしめた。


「ごめん、本当は奴らの狙いはわかっていたんだ。だけど、決定的なところを抑えないと、しつこく付きまとってくると思って、こんな手段をとってしまった。だから、結果として奏にひどい思いをさせてしまったのは僕のせいなんだ。ごめん」


 僕の胸で嗚咽交じりに泣きじゃくる奏に、僕はただひたすら謝った。



 どれくらいの時間が経ったかはわからないが、とにかくずっとずっと抱き合っていた。

 奏が落ち着いたころには、肇さんによって呼ばれた警察の方たちが到着し、名無し(旧春見さん)は手錠をかけられて警察車両に連行されていた。別の車両には髙橋も乗せられているらしい。


 誰もいなくなった物置に奏と二人。

 先程までの喧騒が嘘のように、お互いの鼓動すら聞こえそうなほど静まり返った空間で見つめ合う。

 その瞳に、口許に、どうしようもなく惹きつけられ、どちらからともなく唇を重ね合った。

 初めて、自分の意思でキスをした。

 短く、小さく。甘く、柔らかく。結ぶ、ほどく。

 それは、一回一回は一秒にも満たない時間。だけど、何度も何度も繰り返された。


「奏」

「蓮人君」


 もう止まらなかった。止まるもんか。

 このまま、行けるところまで行きたい。

 おあつらえ向きにマットがあるじゃないか。

 薄暗い物置の中。

 男は僕だけ。女は奏だけ。

 やることなんて、一つだよね?


「きゃっ」


 僕は奏をマットに押し倒した。

 僕の両手は、奏の顔の横に置かれている。

 奏の両手は、僕の背中の後ろに回されている。

 見つめ合う。吸い込まれそうな瞳だ。

 奏の頬が淡く紅潮しているのがわかる。

 暗くても見えた。奏の顔だけは、身体だけは。

 僕の右手が、奏の頬を撫でる。撫でる。

 そのまま降りていく。顎をなぞって、首筋をなぞって、鎖骨をなぞる。

 そして──


「あのー、自分の部屋でやった方がよくない?」

「「〜〜〜〜〜っ!!!???」」


 いつのまにか、肇さんが困ったような笑顔を浮かべて入り口に立っていた。



 *****



 新堂さんが運転する車に揺られて、僕は奏の家へやってきた。

 肇さんは騒動が落ち着いたあと、またすぐ仕事に戻ってしまった。

 元々急な連絡にも関わらず、仕事を抜けてきてくれたんだから、感謝しかない。

 あの時、連絡先を交換していなかったら……。どうなっていただろう。


 あの電話を聞いた時点で、奏を一人で呼び出しに応じさせることはなかったが、問題を先延ばしにするだけで、いつか取り返しなつかないことになっていただろう。

 そう考えたら、一度で息の根を止めることができたのは良かったといえる。


 だけど、その代償に、奏は心に傷を負ってしまっただろう。

 だから僕は、どんなことをしてでも償うつもりだ。


「奏、何か僕にしてほしいことある?」

「どうしたの、急に」


 奏の部屋のソファ。隣に座る奏の目を見つめてそうきいた。握った手から伝わる温もりが心地良い。


「アイツを陥れるためとはいえ、奏に一生残る傷を与えてしまった。心に痛みを与えてしまった。僕はそれを償いたいんだ」


 だから、僕にできることならなんでもする。させてほしいんだ。


 心からそう伝えると、奏は少し驚いたように目を見張り、そのまま少しの間考える素振りを見せた。

 そして、見るもの全てを恋に落としてしまうような、天使のような微笑みで僕を見つめる。


「わたしのためにやってくれたことだってわかってるから、謝る必要はないよ。だけど、蓮人君が何かしたいって、そう思ってくれてるなら──」


 そう言って、奏は少しだけ僕の方に身体を傾ける。

 右手を胸の前でぎゅっと握り込み、その大きな胸を押し付けている。


「──上書き、してよ」

「え?」


 別になんてことない言葉だ。日常的に使われる、ごく普通の言葉。

 なのに、奏は熱っぽく顔を蕩かせて、吐息は湿り気を帯びている。

 やけに妖艶な奏の表情に、僕は目を逸らすことができない。


「未遂だったけど、触られずに済んだけど、すごく怖かった。このままじゃ、トラウマになって男の人に触られるのが怖くなっちゃうかも知れない」


 だから──


「だから、蓮人君が、上書きしてよ」





 天蓋付きの大きなベッド。大人が四人横並びになってもまだ余裕がありそうな、特注サイズのベッドの真ん中に、僕と奏は身を寄せ合っている。

 お互いの肌と肌の間には布一枚の隔たりもなく、素肌同士が触れ合っていた。

 あたたかくて、絹のようにすべすべで、滑らかで。

 目がくらくらするほど、強い刺激だった。


 上気した身体が、運動をしたあとのような深く早い息で揺れる。

 奏の前髪が、汗でおでこに張り付いているのがいやに煽情的にみえた。


「ねえ、蓮人君」

「ん?」


 奏が、潤んだピンクの唇を小さく開いて、鈴のように澄んだ声で囁いた。


「幸せな痛みって、あるんだね」

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