3.誤答
帰宅して二時間ほど経った午後四時半、奏から着信が入り、出てみると「せめてディナーデートはしようよ!」ということだった。
実は春見一家とカフェにいた間も、僕のスマホはポケットの中で着信やらRINE通知やらで
さて、『まだかかるの?』『喫茶店で何の話をしてるの?』『まだ?』『さすがに(以下略)』と闇の深いメッセージが相当数来ていたが、ご所望のディナーデートを快諾したことでその怒りもある程度は収まったようで、待ち合わせ場所で合流した時にはいつも通り一万ボルトの瞳をキラキラ輝かせていた。まさに地上に降りた最後の天使。かの堀内氏もよく言ったものである。
なんだか高級そうなホテルの最上階、ドラマでしか見たことないようないかにもなレストランで神戸牛のフィレがどうしたこうしたという料理に舌鼓など打ちつつ、ジンジャーエールをあおって最後に幸せなキスをしてその日は終了。その間も僕の胸中は
ちなみに、先に僕はこのレストランを『ドラマでしか見たことがないような』と形容したが、僕はこんなレストランが出てくるドラマは観たことがないため矛盾が生じてしまうことになる。……だがまあ、そんなことはどうでもいいだろう。
翌朝。僕を夢の世界から半強制的に引っ張り上げたのは、けったいなインターホンの音だった。
開いているのか閉じているのかも判然としない目で壁に掛けられた時計を見やると、おぼろげながら浮かんできたんですよ……八時半という数字が。
確か今日は美心が帰ってくる日だったけど、まさかこんな早い時間に来るだろうか。スマホを開くと、美心からの連絡は来ていない。
となると、誰かほかのお客さんということになるが……あいにく休日の朝早くに訪ねてくるような客に心当たりはなかった。
などど言っているうちに、催促するように二度目のインターホンが鳴ったので、急いで一階に降りた。
玄関のドアを開けると、青みの帯びたポニーテールをふりふりぶら下げた可憐な少女が一人、グレートバリアリーフよりも透き通ったコバルトブルーの瞳を引っ提げてそこに立っていた。
それではご唱和ください。せーの、
マナちゃんじゃーん……(十二話ぶり二回目)。
「先輩、おはようございます!」
マナちゃんは僕と目が合うと、その瞳をまあるく見開いて、伴ってお餅みたいな両頬にほんのり朱を差して、元気に頭を下げた。
一瞬遅れて頭を追いかけるポニーテールが、朝日に照らされてキラキラと光って見えた。
「おはよう。どうしたの、こんな時間に」
「あう、ごめんなさい……。ご迷惑でしたよね」
「いやいや、そういう意味じゃなくてさ。何かあったのかなって思って」
しゅん、なんて音が聞こえてきそうなほどにうなだれているマナちゃんはやたらと庇護欲をそそる。思わずその形のいい頭をなでなでしたくなる衝動に駆られ、特に抗うこともなく思うまま撫でることにする。
マナちゃんは「うにゅ」やら「はにゃ」などと可愛らしく声を上げ、僕にされるがままになっている。俯いているのでその表情は窺い知れないが、抵抗しないところを見るとまあ不快には思われていない、と信じたい。
「ああそうだ、とりあえず上がってよ」
「はふぅ……失礼します……」
と、けっこうな時間玄関先に立たせていたことを思い出し、家の中へ促す。マナちゃんはどこか心ここにあらずというような様子ではあったものの、素直に靴を脱ぎリビングまでついてきた。
対面で置かれたソファの片一方に僕が座ると、マナちゃんは自然に僕の隣に座ろうとして――「あっ」と小さく声を上げたかと思うと、向かいのソファに慌てて座りなおした。別に隣でもいいのに。
「それで、今日はどうしたの?」
しばらく待っても一向に喋りだす気配がなかったので、僕の方から改めて用件を聞いてみる。
マナちゃんは肩をびくっと跳ねさせると、俯いていた頭をゆっくりと持ち上げた。リンゴかトマトくらい赤くなっていて、コバルトの瞳にはうるうる涙がたまっている。
「あの……昨日は私の父がすみませんでした」
出てきたのは、そんな謝罪の言葉だった。わざわざそれを言いに来てくれたのだろうか。だとしたら、あまりにもいい子過ぎる。やはり、この子の人生の大きな選択を、僕の判断に委ねられていいはずがない、と改めて思う。
「そんな、気にしないで。でも、マナちゃんは本当に好きな人と結婚するべきだよ。お父さんが言ったことだからなんて理由で決めていいことじゃない。たとえマナちゃんが納得していたとしてもね」
努めて優しく、諭すように言葉を紡いだ。マナちゃんは何も言わず、黙って僕の話に耳を傾けている。
マナちゃんが帰ったら、この件について今日中に源治さんに断りの連絡を入れよう。そう思っていたのだが……。
マナちゃんはすくっと立ち上がって、地中海を湛えたような瞳で僕をしっかりと射抜いた。
「マナちゃん?」
「私が言ったんです」
「……え?」
マナちゃんはちょっとも僕から目をそらさず、その白い顔に絵具を落としたように赤色を拡げている。
少しだけ乾いた唇を小さく開いて、震えるような声をこぼした。
「私が、父に言ったんです。婿養子を取るなら、先輩がいいって」
「そ、そうなんだ……え、なんで?」
「父の言ったこと覚えてますか?」
父の言ったこと。もちろん覚えている。僕だって一度はその可能性にたどり着いた。でも、そんなはずない、思い違いだと結論付いたはずだ。
だけど、それがそもそも勘違いなのだとしたら。
その解が誤りだったのだとしたら。
一瞬の出来事だった。咄嗟のことに、何の反応も出来なかったんだ。僕の視界いっぱいにマナちゃんの顔が広がって、気が付けば、唇が触れ合っていて――。
「私は……私は先輩のことが好きなんです! だから先輩と結婚したいって、愛する人と結ばれて幸せになるために、先輩と……っ!」
どうしようもなく、僕の出した答えは間違いだったんだと、脳に直接刻み込まれたような感覚さえした。
僕の唇を通して衝撃を流し込んだ彼女は、あふれ出した感情を涙としてその瞳からとめどなく放出し、僕の胸に
僕も抱きしめようとして持ち上げて、思い直してやめた。やり場のなくなった両手は、所在無げに体の左右に収まった。
とにかく感情が揺れていたし、気も動転していたと言って差し支えなかったと思う。そうでなければ説明つかないんだ。
一部始終見ていた人間がいるってことに、気が付かなかったなんて。
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