2.ここから始まるマナのターン

 皆様は医者になるためにはどれくらいの勉強量が必要かご存じだろうか。医学部合格には高校生活三年間で約五千時間の勉強が必要だと言われており、二年生の僕に当てはめると、単純計算で一日六時間以上の勉強を毎日こなす必要がある。

 そんな血の滲む努力をして医学部に合格したのち、六年間の大学生活を全うし医師国家試験に合格。最後に臨床研修医として二年間以上の実務経験を積む必要があるらしい。

 単純に言えば、僕には無理ということだ。なんせごくごく普通の公立校の定期考査に四苦八苦しているような状況では、少なくとも医学部現役合格は夢のまた夢だろう。


「別に私も本気で言っているわけじゃないさ。もしやる気があるなら最大限の環境は提供させてもらうという意味だ。要はうちの娘を君に任せたいんだよ。例えば医師業は茉奈に任せて、君は経営に力を入れる、という事でも構わないんだよ」


 源治さんは空になったカップへコーヒージャグからおかわりを注ぎ、今度はブラックで飲んでいる。

 空気を含ませながらズズズと半分ほど飲んで、優しく微笑んだ。


「どうかね」


 どうかね、と言われても、正直返答に困る話題だ。

 答えは決まっている。僕には奏がいるし、マナちゃんは可愛いしいい子だとは思うけど、僕が好きなのは奏で、まだ正式ではないにしろ婚約も結んでいるわけで、マナちゃんと結婚することは出来ない。

 ただ困っているのはどう断るべきかという点。こうして源治さんがわざわざ出向いてまで僕に話を持ち掛けてきてくれているのに、一方的に断ってしまってもいいのだろうか、なんて考えてしまっているわけだ。

 とりあえず形だけでも持ち帰った方がいいのか。でも答えが決まっているのに悩むそぶりを見せるのもそれはそれで失礼な気もするし……。

 とまあこういった事情や感情を全てひっくるめて、先の感想前話末尾に至った次第である。

 

 そして冷静になって考えてみると、一つの疑問が湧き上がってきた。

 源治さんは言った。後継ぎとして婿養子が欲しいと。であるならば、決して誰でもいいというわけではないはずだ。僕のような街中を歩けば百人はすれ違いそうな平々凡々凡庸小市民では明らかにキャパオーバーだ。


「ところで、なぜ僕なんですか? 医者にしろ経営者にしろ、僕より優秀で有望なふさわしい人がいると思うのですが」


 しかし僕のそんな疑問が源治さんとっては簡単なことらしく、はははと笑ってジャグから三杯目のコーヒーを注ぎながら、


「だから言ったじゃないか。幸せになってほしいんだよ」

「いえ、ですからそれでなぜ僕なのかということをですね……」


 源治さんの答えは正直要領を得ず、僕の疑問が解決するものではなかった。

 しかしそれ以上言うつもりはないらしく、カップの中身を一息に飲み干し、ジャグを傾ける。どうやら四杯目にしてジャグが空になったらしく、店員さんを呼んでお代わりを要求していた。というかどれだけ飲むのん?。


「とにかく、まずはマナちゃんの意見を聞いて、それから考えることではないでしょうか。僕が決めることではありませんよ」


 父親に決められた相手と結婚しなくてはいけない。これは年頃の女の子にはあまりに酷な話だ。僕と源治さんが決めていいことでは決してないはずだ。春見家の話に首を突っ込むつもりはないが、そこに僕が関わるのならば少なくともマナちゃんが不幸になるかもしれない選択に肩入れするつもりはない。


 そんな意味を込めて、少し語気を強めて言うと、源治さんは目を丸くした思ったらガハハと豪快に笑いだした。その隣でもじもじしていたマナちゃんの肩がビクッと跳ね、頭からは湯気が立ち込めている……ように見える。


「まあ、いずれにせよすぐ決めろというつもりはない。奏さんも関わることだろうからね、じっくり考えてくれ」


 そう言って源治さんはテーブルの隅のプラスチックの円筒から丸まった伝票を取り上げて、支払いを済ませて帰っていった。

 マナちゃんが慌てて立ち上がり、「失礼します!」と頭を何度も下げ、小走りで後を追っていった。


 取り残された僕の目の前に、さっき源治さんが注文したコーヒーのおかわりが、ガラス製のジャグの七分目ほどまで満たした状態でやってきた。

 え、これ僕が飲むの?



 *****



 僕が家に着いたのは午後の二時半を少し過ぎたころだった。

 ソファにスマホを放り投げ、ドカッと座り込んだ。部屋着に着替えるのも面倒だ。

 意味もなくテレビの電源を入れて、よくわからないバラエティ番組の再放送を呆然と眺めていた。


 どこかで見たことある気がするお笑い芸人が、ひな壇で面白いであろうエピソードトークを披露し、MCが先端に謎のマスコットのついた支持棒のようなものでその芸人の頭をたたいてツッコミを入れている。

 観客やひな壇の他の芸人たちは大笑いをしているが、僕はちっとも笑えなかった。

 面白くないからではない。というより、面白いかどうか判断できるほどまともに聞いてはいなかった。


 頭の中は先の一件――源治さんがわざわざ僕をカフェに呼び出してまで伝えてきた、あの話でいっぱいだった。

 なぜ僕なのか、という問いに対し、源治さんは「幸せになってほしいから」と答えた。この場合、幸せになってほしいのはマナちゃんであると考えて間違いないだろう。

 となると、なぜ僕と結婚することがマナちゃんの幸せに繋がるのかを考える必要がある。

 父親の、実家のためになるから? だとすれば僕じゃなくても良いから違うだろう。

 美心と姉妹になるから? うーん、美心とマナちゃんは仲良しだけど、それも理由にはならない気がする。

 いろいろ考えて、でもそれぞれに否定材料も見つかって、なかなか前に進まない。

 そして、最終的に一つの可能性に辿り着いた。


 ”愛する人と結ばれて幸せになってほしい”

 ”僕と結婚することで、マナちゃんが幸せになる”


 この二つの前提条件がいずれも真とするならば、もう僕にはしか思いつかなかった。


 マナちゃんが僕との結婚を望んでいる?

 僕が、マナちゃんの愛する人だから?


 ……さすがに思い違いだろう。我ながら自意識が強すぎてが恥ずかしいよ、まったく。


 なんて考えていた時期が僕にもありました。

 そうだな、具体的には翌五月四日の朝。インターホンの音で起こされ、寝ぼけ眼で玄関のドアを開け、そこに立っていた予想外の来客につい声を出して驚いたあの時点では、少なくともそう思っていた。

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