第31話 山形県酒田市④

 ●十二月三日(残り一日)


 

 最後の日、私はわがままを言って、私の部屋から一歩も外に出ず、夜になるまでずっと藍から離れなかった。日中、藍は帰るために必要な儀式だから、と言ってよく分からないことをしていたが、彼女の隣でそれを見ているだけだった。


 私は最後の最後まで彼女に全て任せて、あと少しで元の世界に戻る。



「今日の日付を超えたらあっちの世界にいるのかな」

「うん」


 隣にのったり横たわる少女は微笑んでいる。


「出来ることはもう少ないけど、何かしてほしいことある?」

「いっぱい抱きしめて――」

「わかった」


 藍はしっかりと抱きしめてくれた。


 この温もりをいつまで覚えていられるだろう。


 人間の記憶はどうやったって抜け落ちる。

 

 どうしたら抜け落ちないようにできるだろう。


 藍とどれだけ多くの時間を重ねても、完全に覚えておくことは難しいのだと思う。

 それでも、元の世界に戻った後、一分一秒でも長く藍のことを覚えていたい。


 私は顔を上げて藍をまっすぐと見つめ、そのまま彼女の喉に手を当てた。

 

 藍は少し驚いていたけれど、ニヤリと笑顔を向けてくる。


 

「優織、もしかして、私の首絞めて殺そうとしてる?」

「好き過ぎて殺したいかも――。私もそのあと追って天国で会おっか」

「えっ――」


 藍の表情がみるみる青くなっていくので、それが少し面白いと感じてしまった。


 本当に天国という場所があって、藍とそこで再会できるのならば、その選択肢を選んでしまうかもしれない。


 それくらい、藍という人間は私を蝕んでいる。

 

 こんなにも私の世界に入り込んでくる人と出会えて幸せだと思っているし、こんなにも侵害してきたのに、私が死ぬまでそばに居てくれないことに対して憎いとすら感じてしまう。


 藍は未だに私の言葉を信じているようで、眉間にしわを寄せていた。

 


「冗談だよ。ねえ、藍――。私の名前呼んで」

「優織……」

「もっと何回も――」

「優織、優織、優織――」


 藍が私の名前を呼ぶ間も彼女の顔を見つめ続け、藍の顔を目と脳に焼き付ける。

 

 藍が言葉を発することで、大好きな声が私の鼓膜を震わす。この感覚を何度も耳に残す。


 藍の喉は私の名前を呼ぶ度に震え、その振動は私の手に伝わる。藍が私の名前を呼ぶ時の喉の動きすらも全て覚えていたい――。


 目も耳も手も体も頭も、藍で満たされ、私は藍の中に溶け込んでいく。



 

「ゆうり……?」


 最後の日ぐらい彼女と笑顔でお別れをしたかった。

 それなのにどうしても溢れるものを抑えることは出来ないらしい。


 藍はぎゅっと手を握ってきた。そして、柔らかな表情と穏やかな声で優しくゆっくり語りかけてくれる。


「一緒に死ぬ――?」


 その言葉に心が揺れてしまう自分がいた。その選択をすれば、彼女のそばに居る時間を長くできるのではないか、と。


 しかし、そうではない。

 私にはちゃんと決めたことがあるのだ。



「ううん。帰るよ」


 私は彼女の全てを覚えていたい――。


 だから、生きると決めた。


 その決心はどんなに辛くても苦しくても揺らぐことはないだろう。


 日付が変わるまではあと十五分。


 その時にどうなるかは想像もつかないし、今はできるだけ考えたくない。


 考えたくないのにチクチクという秒針の音がカウントダウンのように聞こえて、その音と心臓の音が重なっていく。


 

「あのね、綺麗事に聞こえるかもしれないけど聞いて欲しいんだ」

「うん……?」


 藍はずっと私の頭を撫でてくれる。

 とても心地いい。

 ずっと感じていたいと私を貪欲にする。


「どんな関係の人たちにだって別れは必ず訪れるよね?」

「うん……」


 そうだ。家族だって友達だって恋人だって、どんな形になるかは分からないが、いつか別れが訪れる。


「でもね、私は一生の別れはないと思ってる」

「どういうこと……?」

「ふふ。そんな不思議そうな顔しないの」


 藍の声が心地よく部屋の中を満たしていく。


「どっちかが先に死んでもきっと天国で再会出来る。天国で会えなかったとしても、本当に会いたい人には来世で会えると私は思ってるんだ」

「そんなのあるわけないよ」

「あるわけないと思っててもいいよ。でもね、一つだけ約束する」


 藍は私に小指を差し出してきた。


「優織がどこにいても、私からどんなに逃げたとしても、私は必ずあなたに会いに行く――」

「そんなの……」


 そんなの無理だよと言いそうになった。

 しかし、目の前の少女の顔を見てそんなことは言えなくなる。藍も私と同じく目に涙を浮かべていた。


「優織がどこにいたって、私が優織のこと見つけられなかったことってないでしょ?」


 そうだ……。

 藍はかくれんぼの時も、私が右も左もわからず駆け回っていた時も、この広い世界で私のことを見つけ出してくれた。


 藍の抱きしめる腕にぎゅっと力が入ると、「ふぅ」と言って優しく背中を撫でてくれた。


「その時は優織は優織じゃなくて、私は藍じゃないかもしれないけど――」


 藍はぎゅっと小指を握って、柔らかく微笑んでいた。


「必ずあなたに会いに行く――」


 


 前世の記憶はない。


 生まれ変わればこの記憶だって消えるのだろう。きっと、今ある記憶も生きている間に半分以上消えるだろう。


 それなのに藍のその言葉はとても説得力のあるものだった。

 いや、藍の言葉を信じたいという私の願望なのかもしれない。


 私はそっと藍の小指を握り返した。


 温かい――。


 じわじわと小指から温かさが伝わってくる。


「優織のベッドいい匂いだね」

「藍の方がいい匂いだよ」

「じゃあ、沢山覚えてて」

「うん――」


 藍の細い背骨が折れてしまうのではないかと思うほど、強く強く抱きしめていたと思う。


 藍の言っていることは理解出来る。

 

 しかし、それでも嫌だ――。

 

 彼女と離れたくない――。

 

 嫌だ――。

 

 嫌だ――――。


 

「らん、す……」


 最後に彼女に好きだと伝えようとしたら、辺りが一気に真っ暗になり、私は暗闇の中に倒れ込んでいた。


 さっきまで隣にあった熱はなくなり、驚くほど体が冷えていく。


 縦横無尽に頭を動かしても暗闇が広がっていた。


「らん……?」


 右も左も分からないけれど走り続けた。

 何度呼んでも見つかるはずのない彼女の名前を叫び続け、少女を探した。


 家族に期待されないことより、いじめられていた時より、一人になった時より、何よりも苦しくなっていた。


 藍にちゃんと「好き」と伝えたかった。


 最後に「ありがとう」と伝えたかった。

 

 さっきまで隣にいたはずなのに、もう藍に会いたい。


 どうしても叶うことのない想いを声に乗せ、ずっと大好きな少女の名前を叫んでいた――。

 

 

 声も枯れ、体力も尽き、その場に座り込んでしまう。


 さっきまで感じていた温もりはもう全く感じなくなっている。

 私は体を抱え込むようにして、さっきのことを必死で思い出した。


「らん――」


 どんどん消えていく記憶に恐怖を感じ、彼女の残像を探して、その後も暗闇の中を走り続けた。


 消えて欲しくない――。


 しかし、私の願いはこのブラックホールのような暗闇の中に消えていく。


 涙で視界は溺れ、声も出なくなり、私はその場に倒れ込むしかなかった。

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