第25話 新潟県新潟市②

「寒い……」 



 どのくらい走ったか分からないけれど、四十分以上は自転車で走り続けた。

 

 いつも藍に道案内を任せていたから、ここが故郷へ向かっている道なのか、戻っている道なのか、はたまた、全然違う道なのかわからない。


 この世界にいる目的も何も無くなった。


 元より現実世界に帰る理由もないので、あとは残りの時間をただぼーっとして生きれば、私という存在は消滅する。


 それでいいと思う。


 口から漏れでる吐息なのか嗚咽なのか分からないものは白い煙となって外に出ている。

 

 随分、寒くなった。


 無我夢中で自転車を漕いでいたから、少し汗が滲んでいて、それがひんやりとして余計寒い。

 早くどこか暖かい場所に移動して体を温めなければ風邪をひいてしまうだろう。


 今はざーっという音が流れる場所にいる。

 無意識に自分の好きな心落ち着く場所に来ていた。


 朝でも昼でも夜でも、春でも夏でも秋でも冬でも。

 いつ見ても海は綺麗だ。

 今はその美しさがあまりにも残酷過ぎて、目をつぶった。


 彼女に気持ちを伝えたら楽になれると思っていた。


 しかし、全然楽にはならなかった。

 むしろ、心臓は苦しくなる一方で、私の心は地面を這いつくばるように、この痛みから悶え逃げ回っている。


 藍に感謝の気持ちも伝えず、別れを告げたのは良くなかった。


 防犯カメラもスマホのGPSの技術も発達している日本で、こんな丸腰の人間を見つけるなんて容易にできるだろう。

 しかし、人もいない、電話も繋がらない、こんな広い世界ではその技術も全て無意味である。


 この世界ではぐれてしまえば、きっと藍と会うことはできないだろう。そんなことはわかっていて飛び出してきたのだから、今更後悔したってしかたない。


 逆に、こんなにも広い日本で彼女とあの時出会えたことが奇跡だった。


 それこそ、現実世界で大切にしたいと思える人に出会うくらい低い確率だろう。

 

 いや、もっと低いと思う。



 そろそろ、今日一人で泊まる場所を探さなければいけない。そう思いつつも、知らない間に海に足が浸かっていた。


 このまま海に呑まれれば、余計なことを考えずに済むだろうか……。


 私の体が重いのか、海の水が重いのか、足は信じられないくらいずっしりとしている。


 脚は寒さを感じなくなっていた。


 このまま何も感じない体になりたい。


 体はどんどん冷えていくのに、最後の最後まで藍への想いは胸を燃えたぎっていて、早くこの灯火をこの海とともに消してしまいたい。


 そのはずなのに、体はもう前に進まない。


 藍――。

 会いたい――。


 私の体はふわりと水面へ倒れていた。




「ゆうりっ!」


 後ろからぎっと痛み感じるくらい強く抱きしめられる。

 

 この状況を頭は全く理解できていないはずなのに、冷えていた心と体に温かさが滲んでいく。


「優織、ごめん。私、自分のことでいっぱいになってた」


 内臓が圧迫され、苦しいくらい抱擁されていた。


 なんで藍は私を見つけられるのだろう。

 なんで藍は私のもとに駆け寄ってくるのだろう。


 こんな遠くに離れたって、私は見つかってしまうらしい。それならば、あんな狭いデパートでのかくれんぼなんて無意味ではないか。

 

 そういうところが大好きで、私を苦しめる。


 私はズルズルと海の外に引きずり出された。


 藍の首筋にはたらりと汗が滲んでいる。

 今も肩を上下に揺らしているから、本気で私を探していたことが伝わる。


 もう、私に関わらないでほしい。

 これ以上、惨めな自分と向き合うことが苦しい。


「もう私に関わらないでっ!」

「ゆうりきいて!」

「やだ! 触らないでっ!」


 私は藍の腕の中で暴れまわった。何回も肘が腹部に当たって痛かったはずなのに、私を抱きしめる力は緩むどころか強くなっていく。


 両頬を少し痛いくらいにぺちっと叩かれた。


「ゆうり! 話聞いて!」

「話すことなんてない」


 頬が痛くないけど痛い。

 彼女の手があまりにも冷た過ぎて心が痛くなった。


 こんな寒い日に手袋もしないで自転車を漕ぎ続けたのだろうか。

 藍は本当に馬鹿だと思う。


 罪悪感からか、もう二度と会えないと思っていた藍に会えたことに対する安堵からなのか、私の気持ちは緩やかになっていた。


 彼女の顔を見るとあまりに真剣にこちらを見つめるので、私の体は固まってしまう。「ふぅ」と白い息を吐き出して、呼吸を整えていた。

 

「私も優織のことが好きなの――」

「えっ…………?」


 その言葉を理解できなかった。

 

 藍が急に変なことを言うから私のぼやぼやとしていた意識が全て彼女に向く。


 藍は何を言っているのだろう。

 


「でも、私は優織の案内人で、こんな感情は間違えてると思った。だから、自分の気持ちを押し殺すように優織と過ごしてたの」


 藍と過ごす時間が長すぎたからか、彼女の声色からとても辛そうな感情が伝わる。


 藍も気持ちを押し殺そうとしていた?

 私と同じ気持ちだったということだろうか?


「ら、ん……?」

「優織、好き。大好き。だから、どこにも行かないで」


 苦しいくらいに抱きしめられ、体の色々なところで音が鳴っている。


 藍が嘘をついているようにはとても見えなかった。


 しかし、彼女が私を好きな理由が何も分からないから、私は受け止めきれないのだと思う。


 本当に……?

 

 もう死んでいて、実は夢を見ているとか……?


 藍は顔を上げ、私を真っ直ぐ見つめてきた。私はその顔に近づくように顔を落とすと、藍は柔らかく目をつぶる。


 ふわりとそしてどこかしっとりした感覚が唇に走る。


 藍の熱だ……。


 どちらの体も冷え切っているけれど、それは藍の熱だった。


 私はそのままぎゅっと彼女を抱きしめる。

 

 叶うことのない想いが通った。


 そんなことがあるのだろうか。

 こんなに嬉しいことがあっていいのだろうか。

 夢を未だに見ているのではないだろうか。


 もはや、この世界では何が夢で何が現実かなんてわからない。



 私たちはお互いの気持ちが落ち着き、砂浜に座っていた。


 こうやって砂浜に腰掛けていると、二人で旅を決心した時のことを思い出す。


「藍、私に合わせてない?」

「合わせてないよ。本気」


 彼女は案内人で、私がどこかに逃げそうになったから、引き止めるためにそんなことを言っているのではないかと不安になった。


 しかし、それは要らぬ心配だったようだ。


 二ヶ月以上、彼女をしっかり見てきたからわかる。


 彼女は本気の顔をしていた。


 私は信じられなくて、倒れ込むように背中を砂浜につける。夜空にはあっちこっちに雲があって星は見えない。

 しかし、たまに現れる月が眩しかった。


「なんで?」

「人を好きになるのに理由ってそんな大切かな……」


 たしかにそうだ。

 私は知らない間に彼女の性格に惹かれ、好きになっていた。いつからか目で追うようになり、気持ちも彼女を追うようになった。


「たしかにね」


 その言葉以外不要だ。


 藍は本気で私を好きらしい。


 いつの間にか藍も私の隣に横たわっている。

 私の手は彼女にぎゅっと握られ、ただただ、雲に見え隠れする月を眺めていた。


 私の目から涙が溢れていたようで、藍はそれを優しく拭いてくれる。


 嬉しい――。


 ただそれ以上に新たな悩みが私を苦しめてくる。


 藍とずっと一緒に居たい――。


 しかし、それはどうやっても叶うことはない。


 あと、約三週間。

 

 私は彼女に何をしてあげられるだろう。

 私たちはこの残された少ない時間で何ができるのだろう。


 どんなに考えても答えの出ないような悩みが出てくる。


 私のくしゃみが増え、体が限界を迎える前に急いで宿を探した。温かいお風呂に浸かると、キンキンに冷えた体を温めてくれて、心もじんと温かくなっていく。


 藍はベッドの上で待っていてくれた。


「優織……手握っていい……?」

「うん……」


 少しだけ冷たい彼女の手が私の手に重なる。

 しなやかでどこか物寂しい手は私の熱を求めるように密着してくる。



 勢い余って告白して、逃げて、告白される。

 

 私の心はこの状況について行けないようだ。


 藍と両想いになった……?


 しかし、この関係はなんて呼ぶべきなのだろう。

 付き合ってとは言われていないし、言ってもいない。恋人というものになったとしても、数週間後に別れが待っている。


「私たちって……」

「優織は付き合いたいって思う?」


 付き合いたいってなんだろう――。


 これが元の世界にいたらそうだと言えるのだろう。


 ただ、この世界でその誓約をつけてしまえば、私たちはどちらも苦しむ未来が見える。


「わからない……藍が私のこと好きで両想いだって事実だけで心がいっぱいになっていた。藍は?」

「私も同じ。私は優織のことが好きで、優織は私のことが好き。私は優織のしたいことを優先したいし、優織も同じことを思うと思うの。私たちはお互いのために行動出来る。そういう関係でいいんじゃないかな」


 藍の言っていることは分かるようで少し分からない。


「藍はどうしてもこの旅が終わったらいなくなるの……?」


 震える声を抑えながら彼女に問いかける。そうすると、握っている手にピクっと力が入っていた。


「藍という存在は消えるよ――」

「そっか……」


 それ以外、何も言えなかったし、いい言葉が見つからなかった。



「優織はあと、何したい?」

「藍は?」

「私はいいよ」

「藍のしたいことしたい」

「私は優織のしたいことしたい」

「いやだ」

「こっちもいやだ」


 私たちは目をぱちりと合わせて笑い声を上げた。こういういたちごっこがこれからたくさん増えそうだ。


 馬鹿みたいにお互いが大切で、お互いのことが大好きなんだと思う。


 名前はないけれど、そういう関係。


 これが正しいとか間違えているとかは分からないけれど、今の私たちにぴったりの関係だと思った。


「また明日から気合い入れ直さないとね」


 藍はそういいながら地図を広げている。

 ただ、私はそんな彼女を自分の方にぎゅっと抱き寄せていた。


「ゆうり……?」

「今はこうしてたい――。だめ?」

「だめじゃないけど……」

 

 みるみる藍の頬は赤くなっていく。


 そういえば、藍のこの顔は何回か見ている。

 私を意識しているからそういう顔をしていたのだろうか?

 いつから……? 

 全然、藍の気持ちに気がつかなかった。


「藍はいつから私のこと好きなの?」

「秘密」

「教えてよ」

「優織より先に好きになってたよ」

「私がいつから藍のこと好きになったか知ってるの?」

「優織じゃないんだから、分かるわけないじゃん」

「じゃあ、なんで私より先?」

「秘密って言った」


 私の言葉を遮るように、藍は私の唇に優しくキスをして微笑んでいた。


 「うれしい……」と言って、ぎゅっと私の胸に顔をうずめてしまう。私は聞きたいことを聞けず、彼女の頭を撫でるしかなかった。


 さっきまであんなに冷たかったはずの体が今は信じられないくらいの熱を放っている。


 少し考え事をしている間に藍の寝息が聞こえてきた。


 私の気持ちも知らないでだいぶ意地悪な人だと思う。


 そんな藍の頭にコツンと自分の頭を乗せて、彼女の熱と香りを感じながら夜を過ごした。

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