第24話 新潟県新潟市①

 ●十一月九日(残り二十五日)



「藍、こっちおいで――」

「うん」


 ちょこちょこと小さい歩幅でかわいい少女が近付いてくる。


 さっき、藍が夢中で切っていた前髪を少し整えて、顔についている短い髪を払った。もう、抑えることができなかったらしく、私の想いは口の間を勝手に通って外に出てしまう。


「かわいいね――」

「ほんと?」


 上目遣いでこちらを見てくる少女は随分ずるい人だと思う。かわいいと言われたことがよっぽど嬉しいのか、藍は頬を緩ませてニコニコと笑っていた。


 このままというわけにもいかないので、彼女の首にふわりとマフラーを巻いてコートも着せる。


「手袋も持った?」

「最近、私に対して過保護じゃない?」

「藍のおせっかいが移ったのかも」

「おせっかいだと思ってたの!?」

「ふふ。冗談だよ。行こう」


 今日も私たちは一日しかお世話にならなかった見知らぬ家を出て、自転車に乗った。


 日本海が近いため風が吹きやすく、十一月上旬なのに寒さが厳しくなっている。しかし、自転車を漕ぎ始めると話は別だ。


 冷たく、体を冷やしていたはずの風は出発してから三十分後には、高くなりすぎた体温を冷やしてくれる快適な風に変わっている。


 隣の少女もいつの間にか顔を真っ赤にしていた。しかし、とても暑そうなのにマフラーだけはなぜか取らないでいる。


「藍、暑くないの?」

「暑い」

「マフラー取りなよ?」

「やだ」


 藍のおかしな様子を不思議に思い、自転車を止めた。


 私が漕ぐのをやめれば、もちろん藍も漕ぐのをやめてくれる。私は自転車から降りて、彼女の近くに駆け寄った。


「どうして嫌なの?」

「優織に巻いてもらったから外したくない」


 その言葉に心臓をもぎ取られた。


 私の心臓を簡単に狂わせてしまう藍は罪な女だ。


 無意識にぎゅっと彼女を抱き寄せていた。こんなのずるいと思う。藍が現実世界にいたら、無自覚あざとい罪で逮捕している。



「言ってくれたら巻いてあげるから、暑いなら外しな」


 そう言っても藍はマフラーを外さなかったので、私が巻いたマフラーを取ることになった。


 淋しそうにマフラーを見つめていたけれど、こんなところで変な体力を使っては欲しくない。


 私たちはそのまま先に進み続けた。


 ここ最近はどこを走っていても田んぼや住宅が広がっており、前のように山道などが多いわけではないので、かなりスムーズに道を進めていると思う。


「のどかだねー」

「ほんと、どんなに生まれ変わってもこんな経験できないよ」

「たしかに」


 人がいない世界にいるだけでも不思議なことなのに、その世界で一人の少女と故郷に帰るまでの道のりを旅する。こんな道路の真ん中を自転車で走るなんて一生できないだろう。


 半日程度進むと、田んぼの数が少なくなり、住宅やビルの立ち並ぶ街に出た。


 中でも特に目に入ったのが、広大な海に繋がる川の近くにそびえ立つ大きなビルだ。


「優織さん、どうやらあの建物から見える夜景が綺麗らしいですよ」


 藍は雑誌を見ながらにやけている。夜景に興味はないが、藍があまりにも目を輝かせているから、これは行くしかないと思った。


 秋は日が落ちるのが早く、四時頃には赤い夕日が街を染め、五時頃には光を失った街には暗闇と静けさが訪れる。


 もっと遅い時間から見に行ってもいいのだけれど、私たちの早く夜景を見たいという欲を抑えることは難しいらしい。


 ガラス張りの入口に入り、何台かあるエレベーターの一つに乗ると、ずらっと数字の書かれたボタンが並んでいる。もちろん一番上の三十一の数字を押して、エレベーターが上がるのを待った。


 ぎゅいーんと音を立てながらすごいスピードでエレベーターは上まで上がっていく。プールに入った時に耳が塞がれるのに似た感覚が耳を覆ってきて、少し気持ち悪かった。


 ピロンと音を立てて扉が開く。


 エレベーターを降りて、部屋の中を進むとガラス張りの先に景色が広がり、息を飲んだ。


 無言で私たちは走っていて、窓の外がよく見える場所まで進んでいく。


 私の目に映る景色はあまりに綺麗で、言葉にはできないほど美しく、心をくすぐってくる。


 キラキラと光る街を眺め、呼吸を繰り返す。


 大自然の綺麗な景色ももちろん好きだし、そっちの方が好きだと思っていた。


 しかし、デコボコに建物が立ち並び、キラキラ光る景色を見るのも心動かされるのだと初めて知った。


 道路に一定距離で並ぶ街灯も、大きな川に何本もかかる橋の光も、建物から漏れ出る照明の光も、何もかもが眩しい。


 川に反射した街の光は遠くから見てもわかるくらいゆらゆらと揺らめいて光が遊んでいるように見える。


 私は勝手に藍の手を握って、そのフロアを歩き回っていた。


 この展望台のすごいところは三六〇度、この街を一望できるところだ。

 

 特に好きなのは川が日本海に繋がる景色が見えるところ。


 暗くて海と空の境が何となくしか分からないけれど、ちゃんと水平線で交わっていて、地球が丸いのだと思い知る。


 珍しく藍は何も言わずに景色を眺めていた。


「綺麗だね」

「うん……」


 横目に彼女の目を見ると、いつもは黒いはずの瞳にたくさんの光が反射して輝いている。


 そんな横顔を見て思う。


 元の世界でも藍とこうやって手を繋いで横を歩いていたかった――。


 どこに行ったって大きくなる私の想いはどうしたら消えてくれるのか。

 

 多分、どこに行っても、なにをしても、生きているかぎり消えることはないのだろう――。



 しばらく、素敵な景色を堪能していると、飽きたのかそれとも話したかったのか、藍が口を開き始めた。


「やっぱり、優織に元の世界に帰って欲しくないかも……」

「えっ?」

「なんてね――。冗談だよ」


 とても冗談には聞こえないようなトーンだった。


 今まで、私に元の世界に帰って欲しいから献身的だった彼女が急に豹変するから、少し怖くて、背中に変な汗が滲む。


「どういう意味?」


 私はかなり真剣に彼女の顔を見つめ、腕を掴んでいたと思う。そうでないと藍が逃げてしまいそうだった……。


「優織が元の世界に戻ってほしいと願っていたはずなんだけどね。帰ったら、私のことなんて忘れて、いつか大切な人ができて、その人とこういうところに来るのかなって思った」


 珍しく藍が声を震わせながら話している。


 暗いせいで彼女の表情がよく見えない。


 彼女の言っていることは理解できない。


 こんなにも私の世界に入り込んでおいて、そんな言葉はあんまりだと思う。



「忘れるわけないじゃん!」


 悲しさなのか虚しさなのかわからない感情は全て怒りとなって外に出てしまう。

 

 あまりに私が取り乱していたからか藍は驚いている。それでも、今日の彼女は優しくなかった。その後に続く言葉はいつもの私を受け入れてくれる優しい言葉ではなかったのだ。


「そんなのわかんないじゃん――。私のことなんてどうでもよくなるよ」

「どうでもよくならないよ」

「なんで……?」 


 なんでなんて聞かないでよ――。

 いやだ。

 ちゃんと鍵をかけたはずだ。

 今日も鍵がかかっていることを確認して出てきた。


 だから、こんなの間違えている。


 誰もいない世界で誰でもいいから私を止めて欲しいと願った。

 


「藍のことが好きだから――」

「えっ……?」



 言ってしまった……。


 絶対に言ってはいけないこと。


 ちゃんと墓場まで持っていかなければいけなかったこと。

 

 こんなのただ藍を困らせるだけだ。


 思っていたとおり、目の前の少女は目が泳ぎ始めて困惑していた。ただ、ここまで言ったのなら今更、引くことはできない。


 今、まさに窓のない三十一階の屋上の角に立たされている気分だ。そこから飛び下りる気分で言葉を続ける。



「藍のことが好きなの。友達としてとかじゃなくて、あなたの特別になりたい。そういう好き――」


 藍は眉間に皺を寄せていた。

 

 そんなにあからさまに嫌がらなくてもいいと思う。私の鼓動はどんどん速くなり、気持ち悪くなっていく。


「それは……この世界には私しかいないから、私が良く見えただけだよ……」

「えっ……」


 私はその言葉に何も言えなくなってしまった。

 

 この世界に来て、一番恋をしてはいけない相手に恋をした。

 

 そんなの自分が一番よく分かっている。

 何度も気持ちを押し殺し、消そうとした。


 しかし、人を好きになるというのはそんな簡単な話ではなかったのだ。


 そんな都合よく気持ちをコントロールできるのならば、私は藍を好きになっていない。


 私の気持ちは一方通行どころか、進むことすら許されないらしい。


 受け止めてもらえるとどこかで期待していたからなのか、彼女を想う気持ちすらも否定されたことに私の胸は押し潰されそうだった。


 苦しい……。


 辛い……。



「ゆうり……」

「さわらないでっ!」


 私の気持ちを拒絶しておいて、そんな優しい声をかけないでほしい。


 もう、彼女とは一緒にいたくない。


 私は彼女の手を叩き、払い除けた。


「この世界には藍しかいない、そんなの分かってるっ!」


 私は大きく呼吸して、無理やり肺に空気を送り込んだ。もう視界はぼやけていて、立っているのもやっとだった。


 しかし、最後にこれだけは伝えて彼女との関係を終わりにしたい。



「それでも、私が恋をしたのはあなただった――」


 

 だから、私の気持ちを否定しないで――。

 そんなこと言わないでよ――。


 そう言葉を続けたかったのに流れる涙が口に入り、言葉を続けることはできそうもない。

 

 呼吸も乱れて、頭は真っ白だ。


 藍は私の腕を掴もうとしていたけれど、それを振り払って走り出した。エレベーターが閉まる時に最後に見えた彼女の顔はとても悲しそうなものだった。


 最後に見る顔くらいは好きな人の笑顔がよかった……。


 私は最低だ。

 そんなことはわかっている。


 一階に着くまでにどれくらいの涙を流したかなんてわからない。短い時間でたくさんのものがこぼれ落ちた。


 私が自分の気持ちを最後まで我慢できていたら、二人で夜景を見て、今も彼女は笑顔でいてくれたのだろうか。


 そんな“もしも”の話を考えても仕方ないのに、何度もそのことだけがしっかりと頭に浮かんできて、頭の中はそのことで埋め尽くされる。

 

 私は自転車に急いでまたがり、走り出した。


 右も左も上も下も分からない。

 東も西も北も南も分からない。


 胸を突き破りそうな勢いで心臓が動いている。

 いっそのこと破裂してしまった方が楽だ。


 苦しい――。


 苦しいなんて言葉で片付けられるような痛みではなかった。死んでしまった方が楽なのではないかと思わされるくらい苦しい。


 こんなことなら、藍に出会わなければ良かった。


 彼女を好きにならなければよかった。





 …………違う。


 彼女に出会ってたくさんの気持ちを知った。

 たくさんの幸せを知った。


 だから、嘘でもそんなことを思ってはいけない。


 私は嗚咽を漏らしながら、藍からできるだけ遠くに離れるように自転車を漕いでいた。

 

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