第26話 新潟県新潟市③

 ●十一月十四日(残り二十日)

  


 いつものことなのだけれど、いつ目を開けようか迷ってしまう。


 温かいものが私の頬と瞼に優しく触れてきて、唇にも同じものを感じる。

 

 心臓にスピーカーが付いたのかと思うほど、どくどくと大きく音を鳴らしている。呼吸を止めたくなるけれど、止めてしまうと不自然なのでいつもの呼吸を繰り返す。


 呼吸ってどうするんだっけ、と今度は疑問が頭に浮かび、暑くもないのに汗が滲みそうだ。


 そんな思いをしても、私が目を開けないのには理由がある。


 そっと唇に柔らかいものを感じた。


 私はそのまま目を開けず、彼女を捕まえた。


 目を開けると予想通り、藍は目をぱちくりとさせている。


「おはよ」

「起きてるなら言ってよ」

「藍が変なことするから起きた」

「ごめん……」


 藍の前髪をそっと撫でると藍は嬉しそうに微笑んで、ぐりぐりと私の肩に額を当ててきた。


「優織がよく私の前髪触ってくれるのは好きだから?」

「うん。とても似合うと思う。藍の綺麗な目元が見えて」

「それ狙ってる?」

「何が?」

「優織ってずるいよね」

「へっ?」


 藍はうずめていた顔を上げて嬉しそうに私を睨んでいた。ぎゅっと抱きしめて私のことを離してくれなさそうだ。


 何気なく起きれば好きな人が隣に居て、好きな人が私を抱きしめてくれる。

 

 今まで何となく生きていた私の世界からしたら考えられない。今はあまりにも甘く、幸せで毎日が彩っている。こんなにも世界が桃色に彩られているのはきっと藍が隣に居てくれるからだろう。


 私は無意識に彼女を抱きしめる腕に力が入っていた。


「藍、ありがとう――」

「どうしたの急に?」


 藍は心配そうに私の頬を撫でてきた。

 私は頬にあった手を握って、そのまま手の甲にキスをする。


「どしたの?」

「秘密」

「秘密はなしだよ」

「藍だってよく秘密にする」

「ぐっ、そうかもだけど……」


 珍しく藍の眉間に力を入れて目を細めている。そこを優しく撫でて、モゾモゾとベッドの外に出る準備を始めた。


 出ようとすると後ろからぎゅっと藍に抱きしめられ、動けなくなってしまう。


「藍?」

「もうちょっとこうしてたい。寒いし」

「藍って意外と甘えるの好きだよね」

「そうかな?」


 先程から私たちの間に入りたいと言わんばかりにカーテンの隙間から光が差し込んでくる。

 その光から早く起きろと催促されている気もするが、今は彼女の意見を優先させたいと思う。


 彼女をそっと優しく包み込むと寝起きなのに嗅覚がしっかりと働いているらしく、彼女の匂いが鼻を通り過ぎる。

 

 幸せだ。

 

 最近は毎日夜が明けて欲しくないと思う。

 

 それは明日を迎えたくないという嫌な感情ではなく、彼女との時間を一分一秒でも長くしたいという願望から生まれるものだ。


 元の世界にいた時の私は毎日が早く過ぎて、辛い時間が早く終わって欲しいと願っていたので、そんな生活から考えると今が信じられない。


 藍は私の髪を触ったり、手を握ったり、頬を撫でたりを繰り返して、この上ないくらいのニヤケ顔をしていて、とても幸せそうだ。


 満足したのか藍が外に出ようとする。


 自分だけ満足して出てしまうなんてちょっと酷いと思うけれど、今日は二人の約束があるので、そろそろベッドにくっついた体を離さなければいけないと思っている。


 藍は小さな体を背伸びして布団から出てしまった。彼女の体温が少し残るベッドの熱を感じて、私もベッドから出た。


 二人で顔を洗い、朝ごはんを食べ、片付けをして、外に出る身支度を整える。


 藍が珍しくハーフアップをしていて、綺麗な形の耳が見えてドキリとする。


 そして、そんな少しおしゃれをする藍の様子を見て、私もなにかしなければいけないかと焦る。

 

 しかし、メイクもお洒落も何もしてこなかった私はどうしたらいいか分からず、藍の前で立ち尽くしてしまった。


 そんな様子に気がついたのか、私にぐっと顔を近づけてくる。彼女のそういう無自覚な行動は私の心臓の動きを激しくする。


「どうしたの?」

「んっ……私もなにかしたいなって」

「こっちきて」


 藍は今にも鼻歌を歌い出しそうなくらいルンルンで私を化粧台の前に連れてきた。


 セミロングくらいの長さになる私の髪を優しく手で梳かして、なにか決まったのか手を離してしまう。

 

 私の右側に来て、何やら横の髪をいじり始めた。何をしているのだろうと気になりつつもしばらく待っていると、私の右側の髪にはかわいい三つ編みが出来上がっており、片耳が見える。


「どう?」

「三つ編み、かわいいね」

「ね、優織かわいい――」


 嬉しそうに笑い声を漏らして、私の露になった右耳に近づいたと思ったら、ちゅっという音が鼓膜を揺らす。そのことに顔が熱くなり、私は少女を睨んでいたと思う。


「そんな顔しないでよ。思ってること言っただけだよ」

「藍って恥ずかしいことすらすら言えるし行動できるよね」

「伝えられるときに伝えないとでしょ?」


 今度はその言葉にズキズキと胸が痛くなった。そうだ、私たちの時間は限られている。


 苦しくて辛くて、それでも私は彼女と一緒にいることを選んだ。だから、その事実を受止め、残りの時間を大切にしなければいけない。


「行こっか」


 私は藍の手を少し強く引いて外に出た。


 外はだいぶ冷えていて、そろそろ雪が降り始めそうだ。雪の降る前に目的地に向かわなければいけないのかもしれないけれど、今日はふたりの時間にしようと決めている。


 今日は藍と初めてデートをする日。


 そして、ちゃんとしたデートは今日で最後になるだろう。


 誰もいない道を少し冷たい少女の手を握って歩く。握っているうちにお互いぽかぽかと熱を出し始める。


 手を握りながら、トンと肩をぶつけたりぶつけられたり、そんなふうに戯れながら静かな道を歩いていく。


 着いた場所は日本海でも有名な水族館だ。


 もちろん館内に入っても人間どころか水槽の中にいるはずの魚もいない。何も楽しくないはずなのに藍はずっときらきらと目を輝かせていた。


「初デートだね」

「うん」


 何が楽しいのか分からない少女の手を握り、私は少し軽い足を前に進める。


 入ってすぐに少し暗い雰囲気の水槽だけがライトアップされた場所に出る。


 水槽の近くには色々な魚の説明があり、この魚がこの中を泳いでいたらどんな感じなのだろうと頭の中でイメージを膨らませる。藍も同じだったのか、顔のパーツが全体的に中心に寄っていた。


 暗い雰囲気を抜けるとカワウソやビーバーが展示されているはずの海辺の小動物エリアに出た。


「ビーバーってのほほんってしてるよね」

「藍ってビーバー見たことあるの?」

「まあ、写真とかでね」


 少女は何もいないケースと説明用の看板を交互に見ていた。


 もし、ここに実際にビーバーが居たらもっと楽しそうに笑ってくれるのだろうか。

 喜んでくれるのだろうか。


 この世界では実現できない想像ばかりが膨らみ、それは時に私を虚しくさせる。そして、私がそう感じていると、藍はすぐに気が付き嬉しそうに笑ってくれるのだ。


 表情で「楽しいよ」ってずっと伝えてくれる。だから、私の中の不安や悲しさを溶かして馴染ませてくれる。


 そのまま静かな水族館を進むと少し開けた場所に出て、そこはコンサートホールのような形になっていた。

 その光景を見ただけで、私の心は昂り始める。


「イルカショー見たかったなあ」

「元の世界に戻ったらいくらでも見れるよ?」

「違うよ。藍と見たかったの」


 珍しく私が頬を膨らまして、藍みたいな顔をしていたと思う。


 藍は変なところで鈍感だ。

 乙女心をわかっていないと思う。

 そんな彼女も好きなのだが、今のは感じ取って欲しかった。


 他人なのだから思っていることなんてわかるはずもないのに、私は藍に勝手に期待して、勝手に落胆している。


 私の様子に驚いていた藍は手を引いて、私を観覧席の真ん中に座らせてくる。藍もその横に座ってきて、急に目をつぶり出した。


「優織がイメージするイルカショー教えて?」

「それ、すごい難しくない?」

「お願い」


 目をつぶっているのに、藍からは真剣さが伝わってくる。だから、私も真剣に応える。


「イルカが三匹いて、一匹ずつ自分の芸を披露するの。盛り上がってきたところで、三匹同時ジャンプとか、二匹飛んだ後に一匹がもっと大きく飛ぶとか、みんなでその会場を作り上げる。イルカたちが上げた水しぶきを頭から被って気持ちいいと思う」


 藍は嬉しそうにコクコクと頷いていた。

 今のでイメージが伝わったのだろうか。


「優織も目をつぶって今の想像してみて? 目の前にイルカがいる気分になるよ」


 藍は目も開けずにそんなことを伝えてくる。だから、私は目をつぶった。


 聞こえるはずもない飼育員さんの声、飼育員さんに懐くイルカたちが見える。辺りは観客で埋め尽くされ、皆が今か今かとイルカのショーを楽しみにしている。


 イルカが大ジャンプする光景に息を飲み、太陽の光が眩しく差し込んでくる。


「きれい……」

「うん」


 目をそっと開けると、藍もそっと開けてにっこりと微笑んでくれた。


「デートぽいね」

「そうだね」


 人もいない、生き物もいない世界で何故こんなにも幸せで満たされるのだろう。


 藍は本当に魔法使いのようだ。


 元の世界で藍が居なかったとしても、こうやって彼女と過ごしてきた場所をめぐって、さっきみたいに目をつぶって藍のことを思い出せば幸せに包み込まれるだろうか――。



 その後も二人で水槽の前に立ち止まっては目をつぶって、想像するデートを続けた。

 

 幸せに包まれた一日だったことは死ぬまで忘れないだろう。 

 

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