第29話 山形県酒田市②

 ●十一月二十八日(残り五日)


 

 急ぐ必要もないのに小走りになっていた。まだまだ遠いはずなのに、さーっざばんっ! と波が遠ざかったり近づいたりする音が聞こえる。


 何本も空に向かってそびえ立つ松林を抜けると、遥か彼方まで続く青い景色が見え始め、薄い青と濃い青の境界線が目線上で交わる。


 向かい風が程よく当たり、少し湿り気のある風を感じる。


 小さい頃からこの海を見て育ってきた。


 何かがあればここに来ていた。


 楽しい時も悲しい時もこの景色を見て、心を綺麗に澄んだものにしてもらう。

 

 そんな場所だ。


 もう一歩踏み出せば海の中。

 そんな場所まで走っていた。


 右を見ても左を見ても果てしなく砂色が広がる。


 これまでの旅でたくさんの海岸を見てきた。

 その度に心躍らされ、嬉しい気持ちになって心が満たされてきた。


 私は小さい頃から隣にいてくれた海が大好きなのだろう。


「ゆうり……?」


 大好きな人の声にはっとして、私は目をゴシゴシと拭く。

 心配そうに少女が駆け寄ってきた。


 藍の前では泣いてばかりだ……。

 悲しい涙も嬉しい涙も彼女の前で隠すことはできない。


「藍、私をここまで連れてきてくれてありがとう――」


 私は真っ直ぐと彼女の目を見つめるが、私の視界は海に溺れていた。そんな溺れた私を引っ張り出してくれるのはいつだって藍だ。


 彼女は私に生きることを強要しなかった。

 ただ、やりたいことをやろうと言ってくれた。やりたいことをいっぱいやって、後悔なく終わると思っていた。

 

 それで良かったはずだ――。


 ぼろぼろと溢れる涙も想いも、どうしたら止めることが出来るのだろう、とずっと旅をする中で考えてきた。

 

 考えても私の頭は痛くなるばかりで、いつも答えを見つけ出せない。


 ただ、今日、確実にわかったことがある。


 鼻から海の匂いを吸い込み、入れ込んだ空気を口から吐き出す。

 


「私、元の世界に戻って生きたい――」

「えっ……?」


 藍は驚いた表情をしている。

 予想どおりの反応だ。


 今まで帰ることを頑なに拒否していた私が、自分から帰りたいなんて言うのだから。


「どうして……? 私に申し訳ないから?」

「そうじゃない」


 藍に申し訳ないと思うのならば、もっと早くから私は現世に帰りたいと言っていただろう。


 私には絶対に譲れない想いが生まれてしまった。


 

「藍のこと忘れたくない――」


 私が元の世界に帰りたい理由はそれだけだ。

 

 もちろん、藍はその世界にはいない。


 せっかく好きになれたのに、好きな人のいない世界を生きていかなければいけない。

 そんなのは、ただの地獄だ。


 しかし、それでもやっと気がついたこの気持ちも、誰も認めてくれなかったのに認めてくれる人がいるという事実も、ここで終わりにはしたくなかった。


 この記憶は私の寿命を全うするまで、私の中に収めておきたい。もしかしたら、あちらの世界に帰ったら、ここでの記憶は全て消えてしまうのかもしれない。


 しかし、ここで過ごした時間は私が生きている限りは消えないと思っている。


 だから、私は生きるという選択をしたい。


 彼女と旅をする中でそう思えるようになったのだ。


 私は凛と胸を張り、海を見ていた。


 気持ちは驚くほど清々しく、今は目の前に見える海よりも広い心なんじゃないかと思うほどだ。

 

 ちゃんと今なら前を向いてあの世界でも歩いて行ける。そう思えた。


 全部、隣の少女のおかげだ。


 もう一度、お礼を伝えようと彼女の方を見ると今まで見たこともない少女がそこにいた。


 彼女の目からは綺麗な雫が何滴も砂浜に吸い込まれるように落ちている。


 なぜ……?

 

 藍は私の前で泣きそうになったことはあっても泣いたことは一度もない。

 

 急な出来事に私は動揺してしまったと思う。何が彼女をそんなに悲しくさせたのか分からなかった。


 私がかぼそい声で名前を呼ぶと、藍は目を大きく見開いたあと、ポロポロと涙の溢れる場所をゴシゴシと拭っていた。


 それでは目が腫れてしまう。


 そっと抱き寄せて彼女の涙を指で優しく掬った。それでも藍は泣き止んではくれなさそうだ。


 そこまで彼女が泣く理由はなんなのだろう。


「どうしたの?」

「……わ、た……のせ、い……」


 ぐずっと涙を流していて何を言っているかよく聞き取れない。


 私は彼女が泣き止むまで優しく背中を撫でて待っていた。しばらくして落ち着いたのか、藍は顔を上げてくれた。


 目はパンパンに腫れてしまっている。


 だからこすってはいけなかったのに遅かったようだ。


「ゆうり……さっきの、本当?」

「ほんとだよ」

「やっぱりなしはだめだからね?」

「嘘つくと思う?」

「ううん」


 藍は知らない間に私の手をぎゅっと握っていた。


「優織がまたあの世界で生きたいと思ってくれて良かった。そして、その理由が私なことが何よりも嬉しいの――」


 せっかく収まったのにまた少女の目には涙が溜まっていた。

 私のためにそこまで泣いてくれる少女に今度は私の感情が込み上げそうになる。


「こちらこそ、ありがとう」


 何故かその言葉に返事はなかったけれど、私はそのまま大好きな人を抱きしめ、大好きな海を見つめていた。


 しばらく風に当たって寒くなったので藍の手を引く。


「今日は私の家で寝よう」

「いいの?」

「うん。好きな人、初めて部屋に呼ぶ……」

「えっ……」


 別に深い意味はないけれど、何故か言い回しが変になってしまって、私たちの間には気まずい空気が流れる。


 私は海岸に背を向けて歩き出した。


 私の家は学校からすぐ近くの場所にある。最近、雪が降り始めて、長距離を移動することもなくなったので、私の家にチャリは止めたままだ。


 家までの道を歩いていて、やりたいことを思い出した。


「藍! スーパー行くよ!」

「う、うん?」


 私は彼女の手を引いてスーパーに向かうことにした。

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