第28話 山形県酒田市①

 ●十一月二十六日(残り七日)

 


 白い壁に黒の汚れが乗っかる建物を見上げた。


 この建物を見ただけで動悸がするなんて、まだまだ自分の気持ちを整理できていないのだろう。ここに来るとたくさんのことを思い出す。



 私たちは無言のまま、誰もいない学校に足を運んだ。


 校舎の周りをぐるりと回ると、私が最後の日までいじめられていた場所に行き着く。

 

 じめじめと人が寄り付かなそうな雰囲気のそこは、彼女たちにとっては絶好の場所だったのだろう。


 もう、二ヶ月も経っているのに、その時のことが先ほどのことのように鮮明に頭に浮かび、呼吸が乱れていく。

 

 心臓の音も不規則になり、吐き気を覚える。


 こんなところでじっとしていたら、狂いそうだと思って藍の手を引こうとしたら、藍が今までにないくらい辛そうな顔をしていた。


 あまりにも酷い顔だったので、無意識に彼女の頬に手が伸びていた。


「藍……大丈夫……?」

「……うん」


 藍はぎゅっと私を抱き締めてくる。

 その体は少しだけ小刻みに揺れている気がしたので、私は彼女の震えが落ち着くまで背中をなでさすった。


 少しすると、藍はむくっと顔を上げ、私を見つめてくる。その瞬間、頭でドクンと音がなり、それは体全体に広がっていた。


 羨ましいくらい綺麗なその顔に惹かれて、私は優しく彼女の唇に柔らかいものを当てていた。

 

 薄目に彼女のことを見てみると、少し目を丸くした後にすぐに目を閉じてくれる。目が開いている時は上を向いている長いまつ毛が下を向き、そんなことにも私の心は反応する。


 先程までこの場所に湧いていた嫌な気持ちは藍のおかげで薄まっていた。


 離したくない熱をゆっくりと離す。


「なんか、藍と同じ学校だったら、ここで隠れてこういうことしてたのかな」

「優織ってやっぱりえっちだよね」

「藍の方がこういうところに連れてきて『キスして』とか言いそうじゃん」

「い、言わないもん!」

「藍のえっちー」


 私は笑みがこぼれた。

 ここは好きな場所ではなかった。


 しかし、彼女が同じ学校だったならば、こういう世界もあったのかな、と少しうきうきする場所に変わる。


 藍にはいつも救われてばかりだ。


「優織のおかげで私もここが好きになったよ」

「ふふ。幸せだな」


 藍に私の過去を知ってもらい、そして、二人でその場所を巡り、嫌だと思っていたはずの場所を好きになる。

 こんな素敵なことはないだろうと思いながら、私は彼女の手を引いた。


 校庭、プール、渡り廊下――。

 いろいろな場所をゆっくりと進む。


 毎日、通っていた学校のはずなのに、誰もいない状態で来るとこんなにも違う場所に感じてしまうのかと驚きだ。


 私は無意識に自分の教室へと足を進めていた。


 三年C組の部屋は南階段を四階まで上がって二個目の教室だ。学校内は少し埃っぽい匂いが漂っている。


 廊下には個人ロッカーが並び、自分の教室の前のロッカーを見て驚く。

 

 そこにはしっかりと『武田優織』と書いてあったのだ。

 ロッカーを開くと、私が使い古した教科書が沢山入っていて、そのことに少しだけ怖いという感情が生まれる。


 教科書を一冊手に取り、パラパラとめくると、先生の話を必死でメモしている跡が残っていた。

 変なところばかり真面目で、そんな自分がちょっと前まで嫌いだったけれど、藍のおかげで好きになれた部分でもある。


 他の教科書も手に取ると、表紙に黒文字で酷い言葉が書かれているものを手に取ってしまい急いで隠した。


 いじめられていたことについて、藍に話していたが、なんとなくその事実を見られることは嫌だったのだ。


 私の行動を不審に思ったのか、藍は私の隠した教科書を手に取ろうとするので、私はそれをなんとか阻止する。


「あんまり見られたくない」

「いいから貸して――」


 藍は少し強引に私の落書きされた教科書たちを握って、それを優しく抱きかかえている。


「何してるの?」

「許せないなって思った」


 藍の方が酷く悲しい顔をした後に、珍しく怒った顔をしていたと思う。


 そんな藍の優しさに救われる。


 藍がそうやって大切そうにしてくれたおかげで、その教科書たちはいじめの言葉が書かれた本ではなく、藍が抱きしめてくれた教科書に変わる。


「優織、一緒に授業受けよ?」

「授業?」

「うん!」


 藍は私の教科書を手に渡してきた。そして、私の隣のロッカーから、人の教科書をまるで自分のもののように勝手に持ち出している。


 藍が私の手を引くので、私は手に教科書を持ったまま教室に入った。



 驚くことに教室内の机の中にも道具が入っていて、筆箱や教科書が机の上に転がっている。


 私はその光景に驚き、教室を見渡していた。


 自分の席に行こうとすると、藍がハンカチでゴシゴシとずっと何かをしている。


「それ、落ちないよ」

「落ちるよ」


 藍はそう言って真剣に怖い顔をして机を拭いている。

 

 私も毎朝そんなことを繰り返していたと思う。そのことが懐かしくなり、藍が真剣なのに私は微笑んでいた。


 藍は自分の満足いくまで掃除が終わると、席に座ろう、としつこく手を引いてくる。


「優織、こっち」


 藍は私の隣の席の机をくっつけて、私をその横に座らせた。私は状況がよく分からず、呆けた顔をしていたと思う。


 藍は勝手に持ってきた教科書を広げるから、私も彼女の行動に合わせて教科書を広げた。


 藍は私に寄るように隣の席に座ってくる……。


 この感覚に胸がくすぐったくなった。


「こうやってると藍と授業一緒に受けてるみたいだね」

「……うん」


 藍はそれ以上何も言わなくなってしまった。

 さっきまで元気だったのに急に元気がなくなり、その理由を教えてくれないことには納得いかないけれど、私は彼女にかまわず好きなことをすることにした。


 藍の頭を撫でる。

 藍の頬を触る。

 藍の手を勝手に握る。


 こんなことが学校の先生とクラスの子たちにバレたら大問題だ。しかし、怒る先生も私たちを冷ややかな目で見る生徒もいないから、今は良かったと思う。


 聞こえるはずのない授業中の先生の眠たい声が聞こえ、教室を見渡すと真面目に話を聞く人もいれば、寝ている人もいれば、授業に関係ないことをしている人も居る気がした。


 藍は顔を赤くしながら教科書を見ている。

 私はそれを横目に見て、にこりと笑いながら教科書に目を移した。


 藍とこうやって一緒に授業を受けてみたかった――。


 もし、藍と授業を一緒に受けていたら、今みたいにずっと顔を赤くしていたりするのだろうか……?

 

 そうだと嬉しい……。


 そんな赤い彼女の頬をつんつんと指でつついてみると、あっという間に赤さが顔全体に広がっていく。


「顔赤いよ」

「優織がえっちなことするから」

「頬つついただけじゃん」

「優織に触られるの嬉しいの」

「へ……?」


 藍はいつも唐突だ。

 唐突に私の心臓をもぎ取りに来る。


 そういう彼女だからきっと好きになったし、彼女のせいで今もこの感情を抑えられないでいる。

 触れようと彼女の方へ体が引き寄せられていた。


 

 キーンコーンカーンコーン――。


 急なチャイムに現実に引き戻され、ガバッと藍から体を離す。



「ゆうりぃ、授業中なのにえっちなことしようとしてたでしょ」


 藍は悪巧みを考える少女の顔をしていた。

 鐘のせいでかなり冷静になり、落ち着く気持ちと恥ずかしさがぐっと込み上げる。


「そんなことしてないっ」

「嘘だぁ。優織は優等生だと思ってたのになぁ」

「優等生の方が好き……?」


 なんて子供じみた質問なのだろう。

 ただ、偽りの私じゃない私のことが好きだと嘘でもいいから言って欲しかった。


「わがままで、子供みたいで、寂しがり屋で、すぐ泣いちゃう優織が好き」

「いいところないじゃん」

「私から見たら全部いいところで好きなところだよ」


 藍の魔法の言葉に私はまた翻弄されていく。

 私の嫌いだった性格をこんな性格でもいいのかな、という感覚に変えていくのだ。


「藍のおかげでね、こんな自分でもいいんだって思えた」

「うん?」

「今までは自分を偽って隠して生きていたからさ」


 初めて本当の自分を受け入れてくれる人と出会えた。

 その事が何よりも嬉しい。


 素の自分は出来損ないで受け入れてくれる人なんていないと思っていたから――。


 また一つ、素敵できっと思い出す度に心が温かくなり、時に苦しくなるような思い出が出来てしまった。


「藍と授業受けれて一生の思い出だね」

「うん――」


 藍は少し切なそうに教科書を見つめていた。

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