第30話 山形県酒田市③


 見慣れた街を横目に歩く。


 ここはヨボヨボのおばあちゃんがコロッケを売っていた惣菜屋さん。

 ここはガタイのいいおじさんが野菜を売っていた八百屋さん。

 ここはちょっと無愛想なおじさんが洋菓子を作っていたケーキ屋さん。


 どこも見慣れているはずなのに、人がいないだけで背筋にゾッとする感覚が走る。みんな、元気に過ごしているだろうか……。


 知っている場所なのに誰もいない街を歩き、私はスーパーに向かった。


 自動ドアを潜れば入店音が響き、野菜たちが出迎えてくれる。


 私たちはたこ焼きの具材をカゴに詰めていった。


「藍は紅生姜いれる人?」

「入れない方が好き。優織は?」

「うちの家は入れてたんだ。私は入れない方が好きだったけど、言えなかったなぁ」


 そんなこと……かもしれないが、そんな小さなことすらも正直に言えなかった。

 

 思ったよりも私が気にしすぎていただけなのかもしれない。本人はすごく気にしていたことが、周りから見たら大したことがなかった、なんてよくある話だ。


 私は元の世界のあの状況を全て周りのせいにしていたけれど、自ら行動したことはあっただろうか?

 

 両親に期待されないことが怖い。

 周りに嫌われることが怖い。


 どれも自分を守るための言い訳をして、傷つかないようにしていただけなのだろう。



 いつも母の買い物を手伝っていたスーパーから出て、家に向かうことにした。スーパーの自動ドアを出ると、外の光景に驚きを隠せなかった。


 しんしんと雪が降り始めている。

 

 今年の初雪だ。

 そして、藍にとっても初雪だろう。


 雪なんて降るのが当たり前の地域で、いつの間にか降っていたな、と感じていたはずなのに、隣に誰がいるかによってこんなに感じ方が違うなんて、藍と居ると驚かされてばかりだ。


「綺麗だね」

「うん。藍と初雪見れてよかった」

「ほんと?」

「ほんとだよ」


 ちらりと横を見ると、少女も涙目になっていた。今日の藍はどうやら涙脆いらしい。


 そんな彼女も愛おしく思う。

 

 私は藍の頭をそっと自分の方へ引き寄せた。


「雪なんて当たり前だったのに、藍がいるだけでこんなに違った景色になるんだって思ったよ」

「私も同じこと思った」

「私たち仲良しだね」


 にっと笑って、ぎゅっと彼女の手を引いた。


 何も感じなかった帰り道が花畑で彩られているように感じる。その道を一歩踏みしめる度に時間が経っているのだと、寂寥感を感じるのもまた事実だった。


 そんな色々な感情を胸に、一歩一歩、足を前に進める。隣の少女もそれに合わせて横を歩いてくれた。

 

 すぐに実家に到着し、玄関で立ち止まってしまう。


 誰もいないし、ここは自分の家だから何も躊躇うことはないのに、他の家に入るよりも難しいことのように感じた。


 しかし、私よりも緊張しているのは藍の方だ。


 何がそんなに彼女の表情を硬くするのか分からない。いや、私も好きな人の家に入るとしたら、そこが誰もいない場所だったとしても、彼女くらい緊張してしまうだろう。


 藍が私よりも緊張しているからか、私の緊張はほぐれ、私は家に足を踏み込んだ。


 踏み込んでみれば、何ら変わりない私の家だ。


 右側にあるシューズボックスには綺麗に靴が並び揃えられ、私の靴も何個かある。もちろん、自分が今履いている靴以外が並んでいる状態だ。


 そのまま進んでリビングに向かった。

 

 誰もいないとわかっていても、とくとくと胸が鳴る。

 部屋に入るとその光景に胸が高鳴り、そして、その高揚は落ち着きへと変わっていく。


 家具の配置から何から何まで、私の家は私の記憶そのままだった。


 そのことにこの世界に改めて恐怖的なものを感じる。


 この世界は一体何なのだろう。


 藍に聞いても答えてはくれないし、数ヶ月過ごしたはずなのに何も分からない。


 分からないことを解決したいけれど、せっかく藍が私の家に来てくれているのだから、もてなさなければいけない。


 藍は変なところが真面目で、私がいいと言っていないからか、リビングに入ってこない。


 私が手招きすると嬉しそうに「お邪魔します」と言いながら駆け寄ってくる。


 藍は部屋のあちこちを眺め、立てかけられている家族写真に釘付けになっていた。


「これは作ってる笑顔だね」

「よくわかったね」

「優織のことよく見てるからね」


 正直、家族写真を見ただけで、私が顔を作っていることに気がつく少女に驚いている。

 

 そんなに私のことをよく見てくれる人なんて藍くらいだろう。


 そのことが嬉しい。


 嬉しいという感情が触れたいという感情に変わり、抑えることが難しいようだ。


 買い物袋を手にぶらさげたまま、私はそっと藍を抱き寄せていた。


「藍、好き――」

「ど、したの?!」


 急なことにびっくりしたのだろう。

 私も自分でびっくりしている。


 こんなにも感情をコントロール出来ないなんて私らしくない。私は自分の気持ちをバシバシと叩き、気合いを入れ直した。


「準備しよっか」


 手に下げていた買い物袋を台所に運び、野菜をシンクの中に入れる。藍はしばらく時差があったあとに私の横に来てくれた。


 ほとんど母の手伝いなんてしなかったから、家の台所がこんな感じなのだと初めて知る。包丁やまな板を出して、キャベツやネギを切り始めた。


 藍に教えてもらったとおりに色々と作業を進め、ボールに切り終えたものを入れていく。私が準備したものを藍が味付けしてくれた。


「なんか、夫婦みたいだね」

「それ、私も言おうと思った」


 藍に思っていたことを先に言われてしまったのが少し悔しいし、同じことを思ってくれていることが幸せだ。


 必要な具材を揃えたらテーブルの上にたこ焼き器を出して温める。ここからがタコパの醍醐味だ。


「どっちが上手に作れるか勝負だね」

「優織って変なところ子供っぽいよね?」

「うるさい」


 今は彼女とのこの時間をどう楽しむか考えていた。私が真剣なトーンになってしまったせいで少し空気が悪くなる。


 ただ、藍は文句を言わず黙々と作業をしてくれた。


 藍はもりもりと具材をいれて、じっと待っている。私は少しずつ具材をいれて、ちらちらと焼けているか確認する。


 こんなところでも個性がでるなんて面白いと思った。

 

「優織のそれじゃあ形崩れるよ」

「ぐっ……。私はいつもこれで上手くいってるもん」


 お互いに睨み合って、笑いをこぼす。


 その後も色々な具材を入れてたこ焼きを作った。

 チーズ、ウインナー、明太子。

 どれもおいしくてお腹が満たされていく。


 私たちはひたすらに作って食べていた。


「藍の作ったのちょうだい」

「優織の作ったのもちょうだい」


 私たちは自分たちの作ったたこ焼きを交換した。フーフーとかつお節を飛ばす勢いでたこ焼きを冷まして、口に運ぶ。


 藍の作ったたこ焼きは生地がずっしりしているけれど、そのおかげで中の具材が際立ち、お店で食べるようなたこ焼きになっていた。


 やはり、先入観はよくない。


「藍の作ったのおいしいね」

「優織の作ったたこ焼きの方がおいしい――」


 どこか悔しそうで、でも、どこか嬉しそうな少女がいる。一緒にいる時間が長かったからなのか、それとも私たちの相性がいいからなのか分からないけれど、彼女と思うことまで似てきた。


「藍が作った方がおいしいよ」

「どっちのも美味しいんだね」


 藍は私の作ったたこ焼きばかり食べるので、その手を遮った。「自分のも食べなよ」と言うと藍はしゅんと悲しそうな顔をしている。そういう顔も見たかったので、藍が悲しんでいるのに私は喜んでしまった。


 私の胃の中に彼女の作ったたこ焼きと自分の作ったたこ焼きがどんどんと吸い込まれていく。


 お腹が満たされたところで私たちは片付けをして、寝る準備をした。


 藍に私のパジャマを貸すと、嬉しそうに袖を通していて、少しゆるそうだった。「いつものパジャマを着たら?」と言ったら、「いやだ!」と全力拒否されてしまった。


 しかし、彼女にパジャマを貸したことを少し後悔する。藍はずっとパジャマの袖の匂いを嗅いでいた。


「恥ずかしいからやめてよ」

「だって、優織の服貸してもらえるの嬉しいんだもん」

「回答になってないよ」

「えへへ、嬉しいの」


 その後はさっきも沢山見たくせにリビングをうろちょろする藍だった。


 先ほどからやたら藍がそわそわしているが、何となく理由はわかっていた。


「ソワソワしすぎだよ」

「だって緊張するんだもん!」


 ぶかぶかの服を着た少女はぎゅっと私の腕を掴んでくる。私は腕にしがみついた彼女ごと自分の体を二階に運ぶ。

 心臓の音が騒々しかった。


 色々な意味で緊張しているのだと思う。


 自分の部屋がこの世界でも自分の部屋であるか、そして、好きな人を初めて部屋に招き入れるということ。


 扉をゆっくりと開けると、三ヶ月前まで生活していた部屋だった。中に入ると安心感があり、眠気すらも襲ってくるくらいだ。


 私はベッドに駆け寄り、汚いところがないか確認して藍を座らせた。

 藍はいいとも言っていないのに勝手に私の布団にうずくまって「ふふっ」と嬉しそうな笑い声をもらしている。


「優織の部屋だぁ」

「私の部屋だよ」

「ねね、卒アルとか見せてよ」

「やだ」


 今もそんな自分の容姿がいいとは思わないが、中学生の頃はもっと野暮ったい感じなので藍に見られたくなかった。


「じゃあ、優織の言うことなんでも聞くからお願い」

「えー。じゃあ、裸なって」


 私は冗談のつもりだった。

 藍が嫌がることを言えば諦めてくれると思ったのだ。


「……いいよ」

「えっ……?」


 藍は私のパジャマのボタンを一個ずつ外していく……。


 私は罪悪感に駆られて彼女の手を止めていた。


「うそだから。見せるからちょっとまってて」


 熱くなる顔を見られないように彼女に背を向けて中学生の卒アルを探した。


 ホコリの被ったアルバムを取り出し、彼女の方へ持っていく。


 藍はいつの間にかベッドに腰かけていて、足をパタパタさせながら私を待っていた。


 藍に卒アルを渡すと、急いでページをペラペラとめくり、何かを必死に探している。ワッとした表情をしてニヤニヤと卒アルを見つめていた。


「ゆうり、みっけ」

「はいはい」

「冷たいー」

「恥ずかしいの」


 藍は私の恥ずかしいなんて言葉は無視でアルバムを見続けていた。私は恥ずかしくなり、アルバムから目を逸らし、藍の横顔を見つめていた。


 目を丸めたり、細めたり、微笑んだり、笑い声を漏らしたり……。たかが卒アルで彼女は随分楽しそうだ。


「優織って綺麗な顔立ちだよね」

「そんなことないでしょ」

「中学生の頃から整ってたんだなぁって」

「藍の方が綺麗な顔だと思うけど」


 私はそっと彼女の前髪を撫でた。

 少し目にかかるくらいの長さの前髪を横に流すと綺麗でぱっちりな目が出てくる。


 藍はまっすぐと少し上目遣いで私のことを見てきた。そんな顔が自然にできる藍は少しずるいし、私が独り占めできてよかったとも思う。


「ほら、かわいい」

「優織のすけべ」

「えぇ」


 藍は顔をかなり赤く染めていた。

 その表情が愛おしくて、かなり長い時間見つめていただろう。しばらくお互いのことを見つめ、にらめっこに勝ったのは私だったようだ。


「見つめすぎ」

「藍がかわいいのが悪いね」

「もう!」


 藍はむぎゅっと私の胸に顔を埋めた。すんすんと私の服の匂いを嗅いだ後に私から離れてまた卒アルに夢中になっていた。

 

 私に夢中な藍は好きだけれど、隣に居る私に夢中でない彼女は好きじゃない。そんな子どもみたいなことを言えるわけもなく、私はただただ藍が飽きるのを待っていた。


 かなりの時間が経っても彼女がこちらを向いてくれることはなく、しびれを切らして、彼女の頬を引っ張った。


「ゆうりー、いたい」

「そろそろいいんじゃんない?」

「まだ、どこかに優織いるかもでしょ」


 嬉しいけれど、嬉しくない。

 こんな時、私は我慢できる人間だったはずだ。それなのに、彼女が今こちらを向いてくれないのは嫌で我慢できなかった。


 彼女の肩をそっと優しくベッドに押し倒す。

 藍は胸に卒アルを抱えて、ぽかんとしたままこちらを見つめている。


 その顔が正しい。


 私も自分が何をしているのかわからなかった。


 彼女の手から分厚い本をそっと奪い、床に落とす。そのまま覆いかぶさるように藍の桜色のぽっくらとした唇を奪った。


 彼女の柔らかな唇の上を私の熱くて湿った舌が這う。彼女の口をこじ開けるようにキスをしていた。藍の漏れ出る吐息も彼女の体温も忘れたくない。


 藍と触れることで感じる全ての感覚を自分の身に刻むように彼女に触れていた。


 あまりに私が彼女に触れすぎていたせいか、藍の方から肩を押し返される。少し呼吸を乱していて、私の服がゆるいせいで首筋から鎖骨まで見えている。


 自分から望んで自分の体に藍という存在を刻んでいるのに、私ばかりが彼女に満たされているだけでは満足できないと思った。

 

 藍にも私の何かを感じるものを刻みたい。


 ちゅっというリップ音とともにジリジリと首筋の皮膚を吸い上げる。長い時間そうしていたからか、前付けた時よりもあきらかに濃く強く“私のもの”がついていたと思う。


 藍の体に私という存在が少しでも感じられたからか、私の心はだいぶ落ち着いていて、そこでやっと彼女と一定の距離を保てたと思う。そして、冷静になって初めて自分が最低なことをしていたのだと自覚する。


「藍、ごめっ…………」


 私が謝罪の言葉を口にするとわかっていたのか、藍は唇で私の口を塞いできた。


 その後にそっと私の手を取って、指をぬらっと舐めてくる。


「ら、らん!?」

「優織もえっちなことしてきた。だから、私のすることに文句言わないで」


 私はうんともすんとも言っていないのに、藍はそのまま私の人差し指を丁寧に舐め続ける。彼女の柔らかい舌の感覚が指にずっと伝わってくる。


「私がどうやって触れたか覚えてて」


 いつもは幼いはずの少女が色気のある声でそんなふうに言うから、私の欲が変なところにたどり着きそうだ。


「藍って無意識に誘ってくるよね」

「優織もだよ」


 抑えの聞いた声が耳元で聞こえたと思ったら肩に強い痛みが走る。藍の柔らかい唇から出てくるその牙は信じられない勢いで肩にくい込んでくる。


「ら、ん……いたい」

「がまん、して」


 藍は噛むのをやめずに話すから、熱い吐息が肩にかかる。そのことに心臓が胸を突き破りそうな勢いで動く。


「らん……」

「ご、めん」


 あまりに痛くて私が涙目になっていたからか、藍は慌てて私から体を離した。


「藍、急にどうしたの……?」

「私のこと忘れて欲しくない――」


 その言葉に心臓はもう壊れかけていた。

 そんなことを言う彼女はずるい。

 ずるすぎると思う。


 私だって彼女を覚えていたくて、覚えていて欲しくて彼女に触れた。それなのに藍はそれ以上の記憶を私に植え付けてくる。


「痛みって忘れにくいんだって。だから、噛んだ――」

「私も忘れて欲しくない」


 私も彼女の指に噛みついた。

 指の骨と私の歯の間にある皮膚がガリッとスライドする音が聞こえたが、かまわず噛み続けていた。


 絶対に痛いはずなのに、藍は文句も言わず私の要求を呑んでくれる。


 その後はどのくらい二人で触れ合っていたかわからない。


 この温もりも痛みも一生忘れたくない――。

 

 そして、残り少ない時間を噛みしめるように彼女と過ごし、最終日を迎えるのはあっという間だった。

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