第16話 富山県富山市②
「落ち着いた?」
「うん。ありがとう」
私たちは遊具の中で“つるつる”とすべるくつろぎスペースに座っていた。
「優織、何かあった? 私、なんかしちゃった?」
「ランは何もしてないよ」
正確にはランのことを考えて泣いていたが、そんなことを言えるわけもない。
「なんでも相談のるよ?」
ランは未だに心配そうに私の背中をさすっている。その手は小さいはずなのに温かく、優しく私を包み込んでくれる。
「ランは……」
「うん」
「ランは私が死ぬ選択をしても、生きる選択をしても、いなくなっちゃうの……?」
呼吸が苦しくなるくらい心臓が破裂しそうだった。ランは急に眉間に皺を寄せて、難しそうな表情でこちらを見つめている。
「そうなるね……」
「ランが私の世界に来ることって出来ないの……?」
「それは……」
ランはすごい困った顔をしていた。
彼女を困らせたかったわけではない。
ただ、今の私がこの事実を受け入れるには酷な話だった。
残された時間で私にできることなんて限られているだろう。
心臓がどくどくと体中に血液を送り込んでいる。その血液が戻ってくる時に私の体に広がる黒い感情も一緒に連れてくるように感じて、胸の辺りが気持ち悪い。
「ごめん、帰ろっか」
私はそのまま前を歩いた。
さっきまで普通に手を繋げていたのに、今は繋ぎたくないと思う。これ以上、この感情が大きくならないように、これから生活して行けるだろうか。
そんな不安に襲われていた。
今日は近くのビジネスホテルに宿を決め、また明日から自転車を漕ぐ日々が始まる。しかし、少し違うのは私の心の持ち方だろう。
ただ、故郷の景色を最後に見たいという目的で始めたこの旅に違う目的がたくさん追加されていく。
行ってみたい場所を二人で調べて、その場所に足を運び、綺麗な景色をランと見たい。
もう一度、二人で夜に散歩をして、夜にアイスを食べたい。
ランと色々な景色を見たい。
ランと色々な話をしたい。
ランと色々な思い出を作りたい。
ランとたくさん良いことも悪いこともしたい。
全てが他の誰でもなく“ラン”という存在が必要になってしまっている。
ランは何も言わないけれど、隣に居てくれた。いつものようにご飯を食べ、いつものように知らない場所に泊まる。
それなのに私の心の安念は保たれない。
私は先にお風呂に入ったのに、髪も乾かさずぼーっとしていた。
この自分の中にあるモヤモヤとした気持ちをどうしても解消することはできなかったのだ。
「優織? どうして髪乾かしてないの? 風邪引くよ?」
お風呂から上がってきたランは心配そうに私の濡れた髪の毛をなぞってくる。
「ごめん。考え事してて」
「そっか」
ランはそっと私の隣に座ってきた。でも、それ以上はなにもしてこない。
そういうところも彼女のいい所で好きなところだ。
無理に私に踏み込んでこない。
それが案内人の役目なのかもしれないし、彼女自信の性格なのかもしれないけれど、そのどちらでもよかった。
今はいろいろ踏み込まれたくない。
自分でも気持ちの整理ができていないのだから、仕方ないと思う。
「優織、髪乾かしてあげるよ」
「自分でできるからいい」
「じゃあ、私が乾かしたい」
むっとした表情でランはこちらを見ていた。
最初に“私のしたいことをするために旅をしよう”と言い出したのはランなのに、私が“ランのしたいこともしよう”と話したら、ランは私の言葉に存分に甘えて、願望を口にしてくれるようになった。
そのことを嬉しく思うけど、ちょっと強引なわがままが増えた。
私はいいとも言ってないのに、ランはドライヤーをかまえて、歯が見えるくらいにこりと笑っている。
「ランって意外とわがまま?」
「優織のわがまま移ったのかも」
そういえば、出会いはじめのころにそんなことを言われたっけ……。
あのときはもう死ぬんだし、誰かに気を使う必要もないと思ってそんなことを言っていた。
ランは優しく指で梳かすように髪にドライヤーを向けて、風を送り込んでくる。
風が耳に当たる音がやかましいけれど、今の私の邪念を消してくれるくらいに大きい音はむしろ心地いいのかもしれない。
さっきほどまで私の気分と同じようにしっとりと重たかった髪の毛は、ふわふわと柔らかく軽くなっていく。
「私もランの乾かす」
「いいの?」
いいの? とは言いつつ、待ってました! という表情していたので、そんな素直な彼女にぽかぽかとした感情が湧いてくる。
彼女は随分甘え上手だと思う。
人から好かれるタイプだ。
「ランってクラスの中にいたら人気者タイプの性格だと思う」
「そんなことないよ――」
私はほんの冗談で言ったつもりだったのに、想像以上に重いトーンで返されてしまう。
いつものランなら、「そうかな」と言って笑顔で私を見てきてもおかしくないのに、どうしたのだろう。
私は重たいドライヤーのスイッチを入れた。
ランはこちらを見てくれないけれど、背中からでもわかるくらい明らかに元気がなくなっている。
その寂しそうな背中を抱きしめたいと思ったのは、きっとなにかの間違えだろう。
私がまっすぐに切りそろえたはずの髪の毛はもう伸びてきていて、でこぼこにずれている。その様子に彼女が生きているのだと感じた。
未だにランという存在も、この世界が夢なのか現実なのかもわからずにいる。
ピリっとした雰囲気の中、ドライヤーの大きい音が流れるおかげで憂鬱な時間がすこし短くなった。
ランは「ありがとう」とだけ告げてドライヤーを片付けてしまう。こちらも見ずに布団に入ろうとするので、その態度が気に入らなかった。
きっと、ランが私の立場なら私に気をつかって「おやすみ」とだけ告げて寝てくれるのだろう。しかし、私はそんなには大人になれなかった。
自分だけ気分が晴れない状態でこの場に置いていかれることは嫌だ。
私はランのベッドに腰掛けた。
壁側を向いているランの背中にはぴっと力が入っているのがわかる。起きているのにこちらを向かないなんてあまりにも意地悪だと思う。
「私が嫌なことしたならちゃんと言って」
「優織はなにもしてない」
「そんな明からさまな態度取られると傷つく」
そう言うとランはピクリと動いて、もぞもぞと布団の中から出てきた。
「ごめん。優織のこと傷つけたかったわけじゃない」
「わかってる。だから、ランがそういう態度になった理由教えて?」
「……」
ランが珍しく黙ってしまった。私がこれだけお願いしても教えてくれないのはとても珍しい。それくらい聞かれるのが嫌なことで、これ以上聞くのはしつこいだろう。
私は諦めることにした。
「ごめん無理に聞いて。明日も長旅になるだろうからゆっくり休んで。おやすみ」
「待って――」
ぱしっと腕を掴まれる。
その手はどこか強くてどこか弱い。
そんな力だった。
「優織、一緒に寝よ?」
「はい?」
「だめ?」
だめかどうか聞いているくせに、体はランのベッドの方に引かれていて、私はそのまま横になっていた。
今日はいろいろな感情が入り乱れすぎて、わけのわからない日になっている。
ランに対する思い。
今後の自分のこと。
ランの意味のわからない行動。
私の頭はぐちゃぐちゃで、一人で布団に入って整理したかったのに、ランはそれを許してくれない。
布団に入るとランと体が密着して熱い。
心拍数はどんどん上がっていく。
私は心も体もこの場についていけていない状態なのに、ランが急に抱き締めてくるから余計わけのわからないことになっていた。
「少しね、辛いことを思い出してた」
「辛いこと……?」
「うん」
その言葉に今までの自分の発言、態度に反省した。
案内人のランにも過去があり、辛いこともあるのだろう。
私の何が彼女を傷つけたのかはわからなかったが、私の思わぬ言葉で彼女を傷つけてしまった事実は変わらない。
「ごめんね」
「優織は悪くないよ。私が勝手に辛くなって、八つ当たりしてた」
ランはまっすぐと私を見つめて、「ごめんなさい」と横になりながら頭を下げている。
そのことに少し心がじんわりした。
なんでかなんて自分が一番よくわからない。
ただ、一つわかることはランは私に当たってしまうくらい、心を開いてくれているということだった。
元の世界にいた時に私がこんなに甘えられる人も逆に甘えてくる人もいなかった。
ランはやはり特別な存在だ。
先ほど胸の中でモヤモヤとしていた感情が少しだけ解消されていく気がした。
「ラン。八つ当たりなんていくらでもしていいから、理由を教えて」
「へ?」
きょとんという顔を優しくなでると、くすぐったいと少し身を縮めていた。
「私がいるんだから、辛いことは私にぶつけて。一人で抱え込まないで」
「だって、迷惑になる……」
「大丈夫。私も遠慮なくぶつけるから。私一人だったらそれもできなかった。ランがいるから私の心は救われてる。残りの三ヶ月間を一人で過ごすよりも、目的をもって、こうやって過ごせる毎日が幸せなの」
私はかなり真面目に彼女のことを見つめていたと思う。
ランは最初は少し驚いていたが、すぐにいつもの笑顔に変わっていた。
「今よりわがままになっても嫌いにならない?」
「なるわけないじゃん」
「じゃあ、優織に思う存分甘える」
ぎゅっと苦しいくらいにランは私を抱きしめてきた。
私よりも少し小さいはずの体が、今は少しだけ頼もしく感じる。
残り二ヶ月を切っている。
彼女と何度も衝突するかもしれない。
だけれども、彼女とならきっと大丈夫だろう。
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