第17話 富山県糸魚川市
●十月十七日(残り四十九日)
足裏とふくらはぎがじんと痛い。しかし、そんな痛みを気にしていたら、彼女の背中がどんどん遠くなる。
焦りを感じて、足裏ではなく
鼓動が喉まで上がってきて、体全身が脈打っていることに気がつく。そのせいで呼吸が乱れ、辺りにはうるさいくらい自分の呼吸が広がる。
目の前の少女が急にブレーキをかけるから、私もぶつからないようにブレーキをかけた。
「ちょっと休もうか」
「まだ行ける」
「いいから」
近くの木陰まで無理やり手を引かれた。
「お互いちゃんと甘える約束でしょ?」
ランはそう言って私にタオルとスポーツドリンクを渡してくる。十月末だというのに汗がじんわりと滲み、私はそれを拭き取るようにふわふわのタオルを顔に当てた。
すごく具合が悪いわけではないけれど、年がら年中元気なわけでもない。
体の調子が悪い日だってある。
今日はたまたまそういう日だった。
ただ、それは自分の体調管理のせいなので、ランに迷惑をかけるのは違うと思って黙っていたが、すぐにバレてしまった。
ランは私の自転車と自分の自転車を木陰まで持ってきた後に、私の横に腰掛け「んんー」と言いながら背伸びをしている。
「ごめんね」
「こら。そういうのなしだって」
両頬が優しく彼女の両手に包まれ、気持ちの起伏が緩やかになっていく。
彼女の言うとおり、私が『お互いに甘えよう』と言ったのだから、その約束は守るべきだろう。
「今日は近くの街で休憩にしようか」
「うん……」
そんな急ぐ必要なんてないはずなのに、自分が旅の足を引っ張っていると思うと落ち着かない。
ランは何を思ったのか、そっと私の靴を脱がせ、靴下も脱がせようとしてくる。
「ラン!?」
「ちょっと足見せて」
「汗かいて汚いから嫌だ」
「いいから」
すっと私の靴下は簡単に脱がされてしまった。
彼女の手に収まる筋張った足の甲が赤く腫れていることが一目でわかる。
ランの少し冷たい手が私のペタリとした足をなぞるので、背筋にゾワッとした感覚が走る。
痛いとかそういうことよりも、こんな醜い部分をランに知られることが嫌だった。
「汚くなっちゃうから……」
「優織は汚くないよ」
ランは少しムッとして私の足をさっきよりも触っていた。他に腫れている場所がないかと顔の近くに持っていって確認している。私は恥ずかしくてじっとしていられなかった。
「ラン……」
「優織、しつこい」
ランはそのまま私の足の甲に唇をそっと当てていた。彼女の意味のわからない行動に自分でもわかるくらい顔に熱が集まる。
「たくさん頑張ってくれた足なんだから汚くない。綺麗だよ」
ランはまた唇を触れさせようとするので、さすがに耐えられなくなり、彼女の頭をぐっと押した。いつの間にか私の足を覆うランの手は熱くなっている。
「わ、わかったから……」
「うん――。湿布貼るね」
ひんやりした湿布が足に貼られ、また背筋にゾワッとした感覚が走った。
ランが変なことをするせいで、落ち着き始めた心拍数が上がり、呼吸が不規則になる。
ランが触れていた場所が熱い。
彼女の突拍子もない行動に私の心臓はいつも苦しめられる。
「優織……」
「ん?」
ランは頬骨が出るくらい力強くニコッと笑って私を見ていた。
「肩貸してあげる」
「肩?」
「顔色悪いから少し昼寝しなよ」
ランは私に密着するように横に座ってくる。こう頑固になった時のランは譲らないと知っている。
そういう時は私が諦めなければいけない。
そのまま木に背中を付けて、ランの少し固いような柔らかいような肩に頭を乗せた。
耳にどくどくと音が響いてくる。
最初は耳が圧迫されているからなのかなと思っていたけれど、明らかに二つの音が重なっている。
その音は私のより速く動いている。
ランの方を見たいけれど、今は顔を上げる力もなくなっていた。
あんなに苦しかった呼吸は安定していて、息を吸って吐くことがとても心地良い。
私の視界は気が付かない間に暗くなっていた。
『友達になろう』
『でも、そしたら優織さんが……』
「そんなのいいから』
私はそっと少女の手を引いた。
数ヶ月前のことなのに、その会話とその少女の少し冷たい手の温もりしか覚えていない。
顔も声もどんな人だったか、よく思い出せない。
彼女は元気に過ごしているだろうか。
もし、私が元の世界に戻ったら仲良くしてくれるだろうか。いや、「仲良くしよう」と言ったのに、次の日に話かけてこなかった時点で、仲良くはしたくなかったのだろう。
目をそっと開けるとまぶしい日差しが目に差し込んできた。また、過去の夢を見ていたようだ。
横に目をやるとランはいつものようにマップとにらめっこして、赤いラインで今後の道を描いている。
私が休んでいるときまでそんなことを考えてくれるなんて、ランはあまりにも献身的過ぎると思う。
私は重い頭をそっと起こして、目を擦った。
「おはよう。体調どう?」
「だいぶ良くなった」
「足は?」
「だいぶ軽くなった」
「よかった」
私は重い腰を上げて立ち上がった。
思いっきり立ち上がったせいで、ぐらりと視界が揺れる。こめかみの辺りに手を添えていると、ランにまた支えられた。
「全然よくなってないじゃん」
「ごめん。立ちくらみ」
私は自転車にまたがろうとしたが、それを阻止される。
「優織のこと連れていきたい場所あるんだけど少し歩ける?」
「え、うん?」
私たちはその場に自転車を置いてそのまま歩き出した。
今日は風も落ち着いていて、空の三割くらいを雲が占める。
絵に描いたような空だった。
「優織がここで体調崩したのってきっとなんかの運命だと思うんだ」
「どういうこと?」
「いいからついてきて?」
空に呆けている私に対して、ランは真剣そうでもあり、楽しそうでもあった。
道路を抜けるとすぐに海岸が見えてきて、それは旅をしている時によく見えるいつも日本海だ。
しかし、ランは明らかに様子が変だった。
私は手を引かれて海の前にある砂浜に座らせられた。
「優織はここで待ってて?」
「ランはなにするの?」
「探し物」
「探し物?」
少女は笑みを浮かべながら「うん」とだけ告げて、靴と靴下を脱いで、裾を捲って海の方へ行ってしまう。
私はただ呆然とその光景を見ることしかできなかった。
なにをするのだろうと彼女を見ていると、急に海に入り始める。
突発的なその行動に少し不安になり、立ち上がると、ランは大きくこちらに手を振ってきた。「大丈夫だから休んでてー!」とランの明るい声が波の音と一緒に聞こえてくる。
私はその言葉を信じて座るしかなかった。
先ほどの汗はだいぶ引き、海風が心地よく当たる。心もだいぶ落ち着いていて、大好きな海とその海に浸かるランを見ていた。
ふと写真を撮ろうと思い、スマホを彼女の方へ向ける。
いつからか私はランを目で追うようになった。
いつからか彼女がなにをするのか気になるようになった。
知らない間に私の写真フォルダには、景色の写真よりもランの写真が増えている。
写真フォルダと同じように、私の心の中にもランの存在がどんどん大きくなっていく。
それを止めたいのに止めることができなくて苦しい。
私の命はもうすぐ終わる――。
そのために悔いの残らないように生活をしていくとランと旅を始めた。
それなのに、やりたいことやしてみたいことが増えていくのはなぜなのだろう。
そして、やりたいことの全てに“ラン”という少女の存在が不可欠になっている。
最近の私はランのことで頭がいっぱいだ。
そんな自分がいやになる。
こんなことなら、最初から最後までこの世界で一人の方が良かったのかもしれない。
何度も考えた。
誰もいない世界でランに出会って、ランと生活しているのだから、彼女のことを考えるのは仕方ないことで、彼女のことで頭いっぱいになるのは当たり前のことだと。
しかし、そうじゃないと最近理解した。
何度も元の世界のことを思い出し、そこに彼女がいてくれたらと思うようになった。
ランは素敵な性格だから、現世で高校生なんかだったら私みたいな何もいい所のない人間に目もくれないだろう。
今のような関係で彼女があの世界にいてくれるのなら、私は生きていたいと思えるな、なんて最低なことを考えていた。
人生の最後がこの世界でいいと思っていた私は、この世界でも元の世界でもなんでもいいから、ランと一緒に生きたい――。
そう思うようになってしまった。
ランのことを考えると毎回、胸が苦しくなる。
苦しいのにどこか温かく、私に生きたいと思う活力をくれる。
誰にも感じたことのない感情で、ランにしか感じない特別な感情。
ただ、認めてはいけない。
それを認めてしまえば、あと少しの時間を苦しんで過ごさなければいけないことなんて、目に見えていたから……。
自分の気持ちで頭がいっぱいになって、最初にランの写真を撮ってから、四十分近く時間が経っていることに気が付き、驚きを隠せなかった。
考える時間が長過ぎた。
しかし、それ以上に彼女が海に入る時間が長すぎる。今が真夏なのならばまだいいのかもしれないけれど、十月と肌寒い季節なのになにをしているのだろう。
私は不安になって急いで彼女のいる所へ駆けつけた。
ランは少し鼻を赤くしているが、すがすがしい顔をしている。
「何してたの?」
「夜のお楽しみ」
「はい?」
険しい顔になっていく私とは逆に、目が細くなって口角の上がっていくランに手を引かれる。
あまりにもその手が冷たくて心配になった。
彼女がどこかに消えてしまいそうで、不安だったのかもしれない。
そっと後ろから彼女を抱きしめていた。
「ゆ、ゆうり!?」
「心配になるから変なことしないで」
「ごめん。夢中になってた」
私も悪い。
ランのことで頭いっぱいになって、彼女の危ない行動を見落としていたなんて馬鹿な話があるか。
今度は私がランの手を引いて、今日泊まる場所を探した。
着いたらすぐに彼女をお風呂に入れ、自分もお風呂に入り、すぐに彼女のところに戻る。ランが危ないことをしないように叱らなければいけないと思っている。
「ちゃんと危ないことしてた理由話してもらおうか」
「うぅ。優織怖いよ」
「いいからふざけないで答えて」
私が真剣な顔をしているのに対して、ランはずっとニヤけている。
かなり険しい顔でランを見つめていると、彼女は手のひらをこちらに向けてくる。
彼女の嬉しそうな顔から嬉しそうな手のひらに視線を移すと、その上にはとても綺麗なエメラルドグリーン色の宝石のようなものが乗っていた。
「優織、少し前に誕生日だったでしょ?」
「えっ……?」
「十八歳の誕生日おめでとう。少し遅くなっちゃったけど、受け取って欲しいな」
前髪を照れくさそうに押さえている。
また、ランの意味のわからない行動に私の頭は悩まされていく。
「なんで、私の誕生日知ってるの……」
「ごめんね、生徒手帳勝手に見ちゃった」
いつものおどけて見せる少女が目の前にいた。私の隣にそっと寄ってきて、嬉しそうに肩をくっつけてくる。
「ずっとお祝いしたかったんだけど、なにか良いプレセントないかなってずっと考えてた。だから、今日たまたまあの海岸に寄れてよかった」
ランは私と一ヶ月とちょっとしか一緒にいないのに、私のことをよく理解していると思う。
私がなになら受け取りやすいかを考え、あんなにも長い時間、海に浸かっていたなんて馬鹿だと思う。
「綺麗でしょ?
「ランってばかだよね」
「ばか!? 失礼すぎな……」
もう、自分の欲望を抑えることはできなかった。
ランの黙らない口を塞いだ。
ふわりと優しく私の唇に重なるその感覚は、初めて彼女とキスをしたときよりも鮮明で、どこか温かい。
もっと触れたい――。
だめだとわかっている。
それなのに私は彼女をベッドに押し倒して、覆いかぶさるようにもう一度キスを落とした。
彼女の唇をぬるりとした舌で優しくこじ開ける。ランはすんなり私の行動を受け入れてくれた。
それは彼女が私の案内人で、私のしたいことを叶えるという約束だからだ。
今は何が理由でもよかった。
彼女の中を私の熱で乱すように動かすと、私よりも少し控えめだけれど、熱すぎる熱が返ってくる。
どうやって呼吸をしたらいいかもわからず、私と彼女の間に吐息が漏れ出る。
「ゆ、うり……?」
その言葉にはっとして彼女からガバっと体を離した。ランも呼吸を乱していて、それを整えるように肩を大きく上下に揺らしている。
「ごめん……」
それしか言えなかった。
ランは少し恥ずかしそうに前髪を整えて、起き上がって私の横に並ぶ。
しかし、なにもしゃべってはくれない。
私は先ほどの行動を反省しながらも、自分の手に握っていた翡翠を見つめた。
とても綺麗で目が離せなくなる。
そんな石だ。
こんなに嬉しい誕生日プレゼントは初めてかもしれない。
誕生日プレゼントなんて、親の期待を裏切らないように大人の欲しがりそうなものをお願いしていた。友達からもらうものもなんとなく受け取っていた。
しかし、ランからもらったものは違う。
私にとって特別な人が体を壊すかもしれないのにそれを無視してまで私にプレゼントしてくれたもの……。
「ラン、ありがとう。今まで生きて、一番嬉しい誕生日プレゼントだよ」
「それはよかった――」
ランはくるりとこちらを向き直して前髪を整えている。
どうしたんだろうと彼女を見つめると、あまりに真剣な顔でこちらを見てくるので、目を逸らしたくなった。しかし、逸らしてはいけない気がして、見つめ返す。
ランは大きく肩を揺らし深呼吸をしていた。
「優織、生まれてきてくれてありがとう。優織に出会えてよかった――」
どのくらい動けないでいただろう。
かなりの時間、私の目は泳いでいた。
泳ぎ過ぎて目は溺れてしまったようだ。
なんでランがそんなこと言うのだろう。
彼女は私を元の世界に戻すための案内人でそれ以上でもそれ以下でもない。
そんな相手に私の存在を肯定されたって何も思わないはずだ。
そのはずなのに、なぜ私はこんなにも感情が高ぶり、目からその感情がこぼれ落ちているのだろう。
誰に言われる言葉よりも重みがあり、そして私の心に深く刻まれていくその言葉に、私はどうやって応えればいいかわからなかった。
苦しい。
苦しいのにどこか温かい――。
ランはそっと私の目元の涙を拭ってくれた。
「ごめん」
「なんで謝るの?」
「泣いてばかりだから……」
この世界に来て三回目だ。
この世界に来るまでは、人前で泣いたことなんてない。
私には完璧が求められ、涙を流す姿なんて誰も求めていなかったから、絶対に泣くことなんてできなかった。
いつも自分の感情を押し殺し、丁寧に過ごしていく毎日に確実に私の心はすり減っていたのだと思う。
ランは簡単に私を完璧ではない人間にしてしまう。
ランは簡単に完璧ではない私を受け入れる。
そんなのずるい……。
私がどんな選択をしても数十日後には彼女は私の前から居なくなる。
そんなの分かっているのに彼女の優しさに救われ、そして、私という人間が変わっていく。
その事実を否定することは出来なかった。
しばらく無言だったランは私の目元にキスをして、涙を舌でそっとすくうように撫でてくる。
「ふふ。しょっぱい。私の前なら沢山泣いていいよ」
ぎゅっと私はランに抱き寄せられた。
その体温が私の気持ちを穏やかにしていく。
私のぎゅっと苦しくなった気持ちに一時の癒しを与えてくれる。
私が苦しくなる度にこうやって抱きしめて欲しい。そんな叶いもしない願いばかりが次々と出てきてしまう。
私はランの背中に腕を回した。
「ラン、ありがとう」
「どういたしまして――」
「ランの誕生日はいつなの……?」
「――優織と出会った日」
ランは未だに正体不明だ。
ランは明らかに過去がある素振りで話していたのに、誕生日は私と出会った日と言う。
あくまで案内人としての誕生日しか教えてくれないのだろう。
そのことに私は酷く落ち込んだ。
「ランのいじわる。けち。ばか」
「ひどい……」
酷いことを言ってもランはどこか嬉しそうだった。
握っていた翡翠をそのまま手に持っているわけにもいかないので、飴を入れていた小さな巾着を空にして、その中にひょいと入れる。
「そろそろ寝ようか」
「優織、一緒に寝ようか?」
「なんで?」
「また泣いちゃうかなって」
「ランのばか。そんな子供じゃない」
私は彼女のベッドから離れ、自分のベッドに入った。
巾着に入れた翡翠をぎゅっと握る。
今まで生きてきた中で何よりも嬉しいプレゼント。
言ってしまえば、ただの海の石ころだ。
そんな石ころに私の心は簡単に転がされ、そして、幸せという感情が生まれていく。
私は大切な宝物を握り、夢に落ちていた。
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