第32話 現実世界

 顔がふやけてしまうほど涙を流し、暗闇を彷徨い続けた。


 知らぬ間に私の体は横になっていたようだ。


 暗い世界にいるはずなのに、瞼に明るい光が差し込むので、その明かりに少しずつ感覚を移す。

 

 これは目覚める時の感覚だ。


 これはきっと……。

 

 そんなことを思いつつ、眩しい光に少しずつ目を慣らし、目を開けるとそこにはただの白い光景が広がっていた。


 ただの白い天井だ。

 

 天井……。


 体を起こそうとすると、何かに縛りつけられているかと思うほど体が重く、一人で起き上がることは出来なかった。

 

 目が慣れてきたと思ったら音が聞こえ始める。人がバタバタと走る音だ。


「先生、意識が戻ってます! 今すぐ確認お願いします!」

「ご家族にも今すぐ連絡してちょうだい」

「はいっ」


 色々な人たちの声が聞こえる。

 そんなことはいつぶりだろう……。


 誰かの声を求めていたはずなのに、今はその声が不快にしか感じられなかった。


 しばらくすると、色々な人が目に映り込む。

 その映り込んだ人を見て、視界がどんどんぼやけていった。


 私の前にいる人もぼろぼろと目から涙をこぼしている。


 父と母と妹が泣いていた。


 三人ともベッドになだれるように体を伏せ、嗚咽を漏らしている。


 そのことに少しだけ安心した。

 私が居なくても三人は今まで通りの生活をしているのではないかと思っていたから。


 みんな私を優しく抱きしめてくれた。



 どうやら、交通事故に遭った私は意識不明の状態で四ヶ月近く過ごしていたらしい。

 ほとんど寝たきりだったので体はやせ細り、とても動けるような状態ではない。


 私が意識不明な時に不思議な世界で出会った少女はしっかりと私を現世に戻してくれた。案内人としてはこの上ないくらいの仕事ぶりなのだろう。


 そして、彼女と過ごした全ての記憶はしっかりと残っている。


 現実に戻ってきたことはとても嬉しい。

 

 嬉しいけれど、私が彼女とすごした三ヶ月間は何物にも代えられない時間だった。


 想像よりも自分の選んだ道は過酷な道だったらしい。


 藍の声が聞こえる気がする。

 

 今も頬を触られている気がする。


 いるわけもないのに藍の匂いがする気がする。


 私は目覚めてから暇があれば涙を流していたと思う。

 

 病院でぼんやりと過ごす日々。

 

 藍に会いたい――。


 叶うはずもない想いが胸を苦しめ、私の気持ちを地中の奥深くまで埋める。


 そんな想いを抱えたまま病院で一週間近く過ごしていた。


 

 窓の外から風が吹き、揺れるカーテンをぼーっと見つめていると、窓の外には綺麗な景色が見えた。

 今日は藍と過ごした日々ととても似ている。彼女と過ごした日は快晴の日が多かった。


 そういえば、私が目覚めた日から窓際に一輪の花がある。

 もう一週間も経つので、だいぶ弱っていた。


「お母さん、その花って」

「あなたが目覚めるまで毎日通ってたのにね。目覚めたって教えたら来なくなっちゃったのよ」


 私のお見舞いに来る人がこの世界にいるわけがない。誰だろうと思って聞かずにはいられなかった。


「誰が届けてくれてたの?」

「あなたと一緒に事故に遭った小松さんよ。あなたより一週間くらい早く目覚めたのよ。小松さんが飛び込んでくれなきゃ、あなた即死だったのよ。あとで家族みんなでお礼言わないとね」

「そうなんだ……」


 私はわけも分からず、またボロボロと涙を流していたらしい。


 私を見てくれているのは藍だけだと思っていた。しかし、ちゃんと私を見てくれる人が、自分の命を投げ出して私を助けようとしてくれる人がこの世界にもいるらしい。


 私はどこまでも愚か者だったようだ。


 

「優織、大丈夫?」


 母はとても心配そうに顔を覗き込んでくる。


 当たり前だ。

 私は目覚めてから暇さえあれば常に泣いている。私が家では絶対に泣いたりしないような人間だったから余計心配なのだろう。


 ごしごしと目元をごつごつとした病衣で拭った。


「ごめんね、心配かけて」

「ううん。私もあなたにたくさん無理させたのよね」


 母は私の頭を優しく撫でてくれた。

 どこか温かく包容力のある手だ。


 最初からちゃんと自分の感情を出して、母と接していればまた違ったのかもしれない。私は自分で自分の首を締めていたらしい。


 あの不思議な世界から帰ってきてまだ一週間しか経たないのに気が付かされることが多すぎる。

 

「ちょっと買い物に行ってくるね。何かあったらすぐ連絡して?」

「うん。行ってらっしゃい」


 母はそそくさと病室の外に出てしまう。

 

 無音ではないが母が居なくなって静かになった病室に私は残された。


 ぽすっとベッドに寄りかかり、弱る花を見つめる。また、涙が出そうになるので見るのをやめた。 


 小松さんが私を助けてくれるなんてこともある。

 

 世の中どこで繋がっているかなんて分からない。


 そして、私が起きたら会いに来てくれないなんて、いつも長い前髪を下ろし、顔を隠していた暗い雰囲気の彼女らしい。小松さんのことを考えていると涙は自然と止まり、笑みが洩れていた。


 そういえば……。



『小松さん、前髪切った方いいよ』


 前髪で顔の隠れた少女はブンブンと顔を横に振っていた。


『友達になろう?』

『でも……』

『じゃあ……』

 

 途切れ途切れだけれど、断片的に彼女と一回だけ交わした会話が何故かフラッシュバックした。

 数ヶ月前のことなのに思い出せないなんて、人間の記憶力はあるようで、全然ないのだと思い知る。


「藍、この世界にも私のことを命がけで助けてくれる人がいるみたい――」


 小松さんにお礼を言いに行った時に友達になって欲しいともう一度伝えようと思う。


 事故に遭う前にできなかったことをしよう。


 そう思うと心にぽかぽかと熱が宿り、少しだけこれからが楽しみになった。


 私がこう前向きになれるのも、藍のおかげだろう。じわっと目に滲む涙がこぼれ落ちる前に指でそっとすくった。


 病室の入口から窓に向かって風が吹き、ふわりと覚えのある匂いが漂う。


 きっと、藍のことを考えていたせいで、思い出してしまったのだろう。


 そう思って、匂いのする方向へ顔を上げると目の前の光景に息ができなくなった。


 

 どうして――?

 

 なんで――?


 

 目の前にいる私と同じ病衣を着た少女は前髪を抑えながら恥ずかしそうにしている。体を起こし、何とか肺から空気を振り絞り、喉を広げた。


「ら、ん……?」

「おはよう――」


 私は骨に皮しかついていない体を精一杯動かし、ベッドの布団を剥いだ。


 床にそっと足を着くけれど、立てるほど回復していなくてバランスを崩しそうになる。


 それを目の前の少女に優しく支えられた。


 ふわりと大好きな人の匂いで包まれて、私の顔はぐちゃぐちゃになっていたと思う。


らんってそういうこと……」

「ごめん、隠してて。私のせいで優織がこうなったから、恨まれてるかなって思って本当のこと言えなかった」

「ほんと、勘弁してよ……」

「ごめん……」


 あんなに沢山泣いたのに、私の体からはまだまだ涙が出るらしい。


 しかし、それはここ最近流していた涙とは違う。そして、涙が出るよりも伝えなければいけないことがある。空気を上手く体に取り込み、呼吸を整えた。


 

「また、会えて嬉しい。小松こまつ藍華あいかさん――」


 大して力も入らない体にできる限りの力を込めて、彼女を精一杯抱きしめた。私と同じく体のやせ細った少女もそっと優しく私を抱きしめてくれる。


 あの世界で感じた彼女の肌の感覚とは少し違うけれど、紛れもなくこれは私が恋をして愛した人の体だ。


 そっと彼女の目を見つめると、大好きな人が頬を紅潮させている。いつも整えていた前髪に手を添えるともっと顔は赤くなっていった。


「前髪切ったんだね」

「うん。優織に会いに行くために切った」

「似合ってる。かわいい――」

「優織もかわいい」

「ふふ。ガリガリな私が好きなの?」

「今の優織も好きってこと」


 少し頬を膨らました少女はすぐ真面目な顔になっていた。その表情はどこか不安そうだ。


「私はもうらんじゃないけど……」

藍華あいか、好きだよ」


 私は彼女に寄りかかるように唇を重ねる。

 あんなにも沢山感じていた藍香らんの唇は今日初めて感じるのかと思うほど柔らかかった。


 もっと肉付きのいい時にかっこよく告白したかったけれど、今の私はもう気持ちを抑えることができない。


 あの不思議な世界でもこの世界でも私を見つけて、私を救ってくれるのはどうやら小松藍華らんだったようだ。


 そして、彼女は私に会いに来ると言う約束をしっかり守ってくれた。

 


 小松藍華らんに恋をして、彼女を忘れないために生きていくという選択をして良かった。


 どの世界に居ても彼女が私の黒く塗り潰された世界を華やかな色に染め上げていく。この世界に彼女が居てくれるのならば、私の世界は桃色で彩られるだろう。

 

 これからどんなことが待ち受けているのかわからない。もしかしたら、これまで以上に辛いことが沢山あるかもしれない。しかし、私は生きるという選択をするだろう。

 

 藍華あいかと生きていくために――。


 


 病室には嫌な薬の匂いと大好きな藍華の匂いが広がって、カーテンが風に揺らされて舞っていた。



 

 

 ――完――

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