番外編

第0話 世界の始まり

 目の前に広がる真っ青な海がとても綺麗だ。


 綺麗過ぎて逆に私の心にぽっかりと穴を開ける。耳障りな音は何度繰り返されても止むことはない。


「学校行きたくない……」


 この景色も学校も人もみんな嫌いだ。


 学校なんてなくなればいいのに――。

 みんなこの世から居なくなればいいのに――。


 大好きだった青の景色を見ても、そう思うようになってしまった。



 今日も重い足取りで学校に向かう。自分から地獄に行くような真似をするなんて私は馬鹿なんだと思う。


 ただ、お母さんとお父さんに心配をかけられないから毎日あそこに行かなければいけない。



 ※※※



「ブスなんだから顔出すなよ」

「よくそんな恥ずかしい姿で学校に来れるよね」


 どんと床に押され、口の中に砂が混ざった。口内がジャリジャリとし、少し鉄の味がする。


 なんで自分がこんな状態になっているのかも、こんな心が押し潰されそうなのかも分からない。


 私は目の前にいる女の子たちが「ブスだから前髪を伸ばせ」と言うから、髪を伸ばしたのにそれでも満足しないらしい。


 

「……ご、めんなさ……」

「うるさい!」


 前髪をぎっと掴まれた。


 痛い。

 苦しい。


 もう心も体も限界で壊れそうだ。


 

「何してるの……?」

「おー、優織じゃん。こいつが言うこと聞かないから、説教してた」


 髪の毛が離され、私は崩れ落ちるように地面に手を付けた。


 一時でも辛い時間から解放されて呼吸をすることを思い出す。


 そんな私の耳に流れてきたのは衝撃の会話だった。


「やめなよ。自分がされたら嫌じゃないの?」

「は? いい子ぶるのやめなよ」

「いい子とかそういうの関係ないから。どけて」

「は?! ばかなんじゃないの!?」


 

 優織と呼ばれていた人物は私の方に近付いて来た。

 なにを考えているのか全くわからない。


 そっと手が伸ばされて、無意識に痛いことを我慢するようにギュッと体に力が入り、目をつぶっていた。


 ふわりと温かなものに頬が包まれる。

 そのことに安堵し、目を開くと穏やかに微笑む少女が私を見つめていた。


 

「口切れてる。痛いでしょ。あと、おでこも」


 目の前の少女が私の顔を隠している前髪をそっと上げようとするので、ビクリと体を縮こめた。彼女の手を防ごうと思ったけれど遅かったようだ。


 私のおでこは久しぶりに外の世界に“おはよう”した。


 傷になっているであろう部分に風が当たり、少し痛い。しかし、すぐにそっと柔らかいものが当てられた。

 

「小松さん、前髪切った方がいいよ。だって、めっちゃかわいいもん。あれ、小松さんであってるよね? あ、同じクラスの武田優織です」


 心臓がドクリと音を鳴らす。


 同じクラスの武田優織さんはクラスの人気者で、私が関わるような人ではない。それなのに、私の名前を覚えていてくれて、さらに助けてくれた。


 そんな人が急に優しくするせいで、ぎちぎちに閉めていた私の心の蓋は簡単に開けられてしまい、我慢していたものが目からポロリと零れていく。


 こんなの迷惑なのに、優織さんは私の涙をハンカチで優しく拭いて、私の気持ちが落ち着くまでずっと隣にいてくれた。


 じめじめした校舎の裏側。

 誰も来るのを嫌がるような場所でも、優織さんは嫌とは言わなかった。


 私があまりにも泣き止まないからだろうか。

 彼女は気の使ったことを言ってくれたのだ。

 

「友達になろう?」


 そんなことをしたら、優織さんが私と同じ目に遭う。こんな辛い思いをするのは私一人だけでいい。

 

「でも、そしたら優織さんが……」

「そんなのいいから。でも、無理にとは言わないけど……」


 せっかく優しい言葉をかけてくれた彼女に酷いことを言ってしまった。


 私は困った顔をして黙っていたら、優織さんはみるみる笑顔になり、こちらを向いていた。


「じゃあ、私と仲良くなりたいと思ってくれたら、前髪切ってきてよ。そしたら、また話しかけに行く」


 頭をぽんぽんと優しく撫でられて、彼女はその場を離れてしまった。


 

 私は次の日の朝、前髪をハサミで挟んだが、切ることはやめて学校に出た。


 そのことを一生後悔するようになる。


 次の日から優織さんが虐められるようになった。自分に向いていた矛先は全て優織さんに向けられた。


 いじめから解放されて嬉しいはずなのに嬉しくない。


 優織さんに声をかけたいのに、虐められていたことを思い出すと怖くて、足が震えて、声が出なかった。


 次の日は……。

 次の日は……。

 と、毎日前髪にハサミをかけては勇気が出ず、何もない学校に向かった。



「明日は切れるといいな……」


 弱い決心を言葉にしながらぼーっと帰り道を歩いていると、目の前に虐められていた時の私と同じ顔をした優織さんがいた。

 赤信号なのに進み続けている。


 私のせいだ――。


 頭で考えるより先に体が動いていた。


「危ない!」


 私の行動が間に合わなかったのか、私の意識はそこにはなく、目覚めると病室のベッドの上にいた。


 もしかして助かった……? と思い、辺りをキョロキョロすると一枚の便箋が転がっていることに気がつく。


『故郷に帰って生きなさい』


 そのメッセージと一緒に元の世界に帰る儀式の方法がこと細かに書かれている。


 最初はどういう意味か全く分からなかった。

 私は死んだはずなのに生きている?

 そしてこの世界に人はいない。

 お腹の辺りにあるカウントダウンの数字は一日おきに減っていく。


 わけも分からず数週間、孤独な日々を過ごしていた。


 人がいる世界を憎み、誰もいない世界を願ったはずなのに、自分の考えがあまりにも浅はかだったのだと気が付かされた。

 

 そんなある日、泊まった家で違和感を覚える。誰かが最近まで生活していた痕跡が残っていたのだ。


 私はその跡を辿るように色々な家を探した。


 きっと近くに人がいる。

 誰だろう――。


 誰でもいいから会いたい。

 もう、辛くても逃げたりしないから、この世界から抜け出したい。


 あるコンビニを通りがかった時、目を疑った。


「ゆ、うり……さん……」


 その時、なぜそう思ったのかは分からない。


 ただ、私は優織さんと一緒に故郷に帰らなければいけないのだと思った。あの辛い場所で生きなければいけない。


 現実世界でもこの不思議な世界でも私は彼女を巻き込んだ。何も悪くない、ただ優しい人の人生を狂わせた。


 これは私の罪滅ぼしのための旅――。


 

 優織さんは私に気がつくだろうか。

 いや、一度しか話したことのない私に気がつくわけがない。


 私はどうすればいい?


 彼女は帰りたくないと言う気がする。

 私だってあの世界でまた虐められると思うと帰りたくはない。しかし、弱い自分のせいで優織さんのことを苦しめるのは嫌だった。

 

 辛い場所に彼女を無理やり連れて帰るのは間違えているのかもしれない。ただ、少しの可能性に期待を込めて、彼女を説得するために、私はこの世界でこの世界の住人を装うことにした。


 らんとして――。


 

 急いで鏡の前に立った。

 あんなにも難しかったハサミは簡単に私の前髪を切り落としていく。


「優織さんと仲良くなりたい。彼女と元の世界に帰りたい」


 もう二度と後悔しないように決意して、私は前髪を押えながら彼女のもとに向かった。

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桃源郷少女 雨野 天遊 @rainten7777

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