第19話 新潟県上越市②

 今日も静かな街を歩き、最初で最後になるであろう景色を目に収める。


 藍の様子が先ほどからおかしいが、気にしないようにしている。私は歩きながら、乾いた喉を潤そうとお茶を飲んでいると藍が口を開き始めた。


「今日、一緒にお風呂入ってくれるんだよね?」

「ごほっ」


 漫画のワンシーンのように綺麗にお茶を吹き出してしまった。


 私は急いでハンカチで口周りを拭いて、何とか気持ちを落ち着かせる。


 あれは冗談だと思っていたので、想像以上に本気の彼女に対してなんて言えばいいかわからなくなっていた。


 流れとはいえ、いいよと言ってしまったのは事実だ。


 しかし、私は好きな人とお風呂に入れるほど肝が据わっていない。

 どうしようと、しどろもどろしていると、藍の頬はみるみる膨らんでいく。


 なんで一緒にお風呂に入りたいのだろう?

 一緒に入る理由なんて何もないと思う。


「なんでそんなに一緒にお風呂入りたいの?」

「そんなこと聞かないでよばか――」


 なぜか私が馬鹿呼ばわりされてしまった。

 今日の彼女は一段とよくわからない。


 藍を知るために努力しているはずなのに、彼女のことでわからないことが増えた気がする。


 今は夜ご飯の調達のためにコンビニに来ていて、先ほどから藍は口を開いてくれない。


 明らかにいじけモードに入っている。


「ごめん……」

「優織なにが悪いかわかってないで謝ってるでしょ」

「――うん」

「そういうの逆に嫌な人もいるからやめたほうがいいよ」

「ごめん――」


 なにが悪いかわからないけれど、彼女を怒らせてしまったのは私だ。だって、この世界には私と藍しかいないのだから、彼女を楽しませるのも悲しませるのも怒らせるのも私しかいない。


「はぁ。わからない時はちゃんと聞いてよ。答えられることは答えるから」


 藍の言っていることは正しい。

 私だってなんとなく謝られたらいやだ。


 今まで誰かに謝ることが多かったが、それは保身のために謝っていたのだとハッとさせられた。

 

「そうだよね。なんで怒ってたの?」

「それは……」


 藍からは先ほどの勢いがなくなり、口元をもごもごしている。私は首を斜めに倒して藍を見つめると、ビクッと驚いている表情をしていた。


「優織が鈍感で怒ってた」

「へ?」

「それより、入浴剤何がいい?」

「へ?」


 結局、私の理解不足のせいで何も解決しないままだ。


 藍は頬を赤くしながら入浴剤を見ていた。

 

 普段、必要なもの以外にコンビニからもっていくのはだめだと彼女の方が厳しいのに珍しい。


 そう言おうかなと思ったけれど、今以上に藍を怒らせてしまう気がしたので、今日だけは贅沢をすることにした。


 色々な入浴剤が陳列される中、私は一つの入浴剤を手に取る。

 

「私はお花の香りがする、これがいいかな」

「どうして?」

「藍からいつも香るお花の匂いが好きだから」

「……優織っていつもずるい」


 藍は私の手の入浴剤をパシッと取って、持って行ってしまう。いつも通り、私はレジにお辞儀をしてコンビニから外に出た。


 辺りはあっという間に暗くなっていて、静寂だ。こんなに無音の中、一人ならきっと寂しいのだろうけれど、藍がいてくれるからその寂しさも紛れている。


 藍は広いお風呂のあるところにしようとホテルを選んでいたが、彼女にホテル選びを任せたのは確実に間違えだった。


 なぜ、私はラブホにいるのだろう。


 不思議で仕方ない。


「優織、お風呂入ろう」

「う、うん?」


 私は彼女に言われるままするりと服を脱いだ。


 藍に背を向け、できるだけ彼女の方を見ないように風呂に駆け込む。


 藍が来る前に急いで体を流し、お風呂にドボンした。しばらくすると、しなやかな体の少女が視界に映る。


 全体的に色白く、どこか柔らかそうな感じだ。


 藍は私に背を向けて体を洗っている。私はできるだけ見ないようにぶくぶくと顔をお風呂に沈めていた。


 入浴剤のおかげでお風呂は白濁色になっていて、自分の体が見えなくてよかったと思う。


 水面に細い足がチャポンと入ってくる。


 彼女の濡れた髪が艶を放ち、前髪は横に流れているから綺麗なおでこが出ていた。


 かわいい――。


 お風呂に入っている藍を見て、そんなことを思うなんて私は最低だ。

 

 それでも藍を見つめずにはいられなかった。


 そのまま撫でるように首、鎖骨と下に視線を落としていく。


「優織のえっち……」

「み、みてない!」


 藍が胸元を腕で隠すようにして顔を赤くしているから、私はあからさまに目を逸らして横を向いた。


「そっち行ってもいい?」

「ん? あ、うん」


 完全に変な人になっている。

 それでも私は冷静になることはできなかった。


 藍が私に背を向けて、寄り掛かるような形で近付いてくる。

 



 平常心。平常心。平常心。


 もう体のあっちこっちが熱くて、お風呂がぬるく感じる。


 藍の背中が私の胸に当たり、心臓がバクバクと肺を圧迫するくらいに動き始める。


「これいい匂いの入浴剤だね」

「……うん」


 藍は熱いのか耳まで真っ赤だ。


 なにが私を突き動かしたのかわからない。


 ただ、自分の衝動を抑えることはできなかった。


 私は藍を自分の方に引き寄せていた。

 彼女の肌と私の肌が密着する。


「ゆ、ゆうり!?」

「そんな離れてたら足窮屈でしょ」

「うん……」


 私はそれらしい理由を並べて、彼女に近づいた。最初は強ばっていた藍の体からは力が抜けていく。


「暖かいね……」

「そうだね」


 藍はなんでなのか会話を途切らせようとしない。しかし、そんな彼女の頑張りも無駄になるくらい、私は彼女の姿態に夢中だった。


 色気のあるうなじ、しなやかなカーブを描いた肩、しっとりと水に濡れてまとまった髪、足を抱えているから水面から少し顔を出す膝。


 彼女のどの部位にも目が行ってしまうなんて私はよっぽど変態なのかもしれない。

 

 先ほどから、真っ赤な藍の耳がかわいいと思っている。


 赤くてすべすべしていて触れたくなる。


 私はそのまま彼女の耳に優しく歯を立てていた。その後、耳をなぞるように舌を這わせると、彼女の体はピクリと反応する。


 藍が逃げないようにもっと自分の方へ抱き寄せた。



 最低だ……。


 藍が私のことを否定しないと分かっていて、こんなことをするなんて――。


 しかし、藍も悪いと思う。

 なぜ、急にお風呂に一緒に入ろうと言ってきたのだろう。


 そのせいで私はこんなに悩んでいる。

 

 もう、限界だった。

 頭がくらくらとしている。

 完全にやってしまった。


「ゆうり……?」


 藍の声が聞こえる頃には、意識は遠のいていた。




 ※※※

 



 顔にパタパタと気持ちいい風が送られている。


 頭の中で工事が行われているのかと思うほど、ガンガンと騒がしい音が響いているが、なんとか眩しい光に目を慣らした。


 目を開けると心配そうにこちらを覗く少女がいる。


「大丈夫……?」

「うん。ごめん……」


 どうやらのぼせてしまったようだ。

 

 私は藍が持ってきてくれた水をごくごくと勢いよく喉に通す。


「優織……ごめんね」

「なんで、藍が謝るのさ」


 私はしょぼんとした彼女の頭を優しく撫でた。

 

 完全に私が悪い。


 勝手に好きという気持ちを抑えられなくなり、彼女に触れて、ヒートアップしてのぼせるなんて恥ずかしい話があるものか。


 急にさっきのことを思い出して、せっかく冷めた顔にまた熱が集まる。


 それよりも……私は服を着せられている。


 まさか……。



「私の裸見た?」

「うん……」

「藍のえっち、変態」

「え、ええ……」


 藍はとても困惑している。


 しかし、そんなことはどうでもいいくらい恥ずかしかった。


 私はどうしようもない恥ずかしさを藍の中に埋めるように、彼女の肩に自分の顔を埋めた。


「藍のばか」

「ご、ごめん……」


 藍は何も悪くない。


 ただ、好きな人に全部見られたと思うと、恥ずかしさでこの場から消えたくなった。


 藍はもう一度「ごめんね」と言ったまま私の腕を引いてくる。


「一緒に寝ながらお話しよう?」

「うん?」


 藍は私を横にして、その横に身を寄せるように並んでくる。


 今日の、というか、最近の藍はあまりにも私の心臓に悪い存在だと思う。


 

「優織って好きになったことある人いるの?」

「いないよ。藍は?」

「秘密」

「ふーん」


 普通、いなければいないと答える。


 今の答えから推測すると、好きな人はいるけれど、私には教えたくないということなのだろう。


 きっと、前に話していた前髪のことを褒めてくれた人のことなのだろうと勝手に理解した。

 

 その事実に胸は潰れそうなほど締め付けられていく。

 

 私のその苦しい気持ちも知らないで、藍の質問は止まらなかった。


「優織はどんな人を好きになるの?」

「どんな人かぁ……」


 

 今、目の前にいるよ――。

 

 なんて言えるわけもなく、私は好ましい回答を考える。


 

「私のことちゃんと見てくれて、考えて行動してくれる人。そういう人には私も同じものを返したいと思えるから」

「そうなんだ……」

「藍は?」

「優しくて、正義感があって、人として尊敬できる人かな」


 藍らしい回答だなと思った。


 私も私らしい回答だったと思う。


 冷静に考えれば不思議だ。



 夢のようなこの土地で、藍と出会い、彼女に恋をした。


 生まれて初めて恋をするという気持ちを知った。


 そして、一番恋してはいけない相手に恋をした。


 好きになるのなら両想いになりたい。


 これから先もずっと一緒にいたい。


 たくさんの思い出を作りたい。


 どれも藍とは叶うことない想いだった。



 しかし、彼女を好きになったことを全く後悔はしていない。むしろ、好きという気持ちを教えてくれた彼女には感謝している。


 最後にこんなにも苦しく、そして、幸せな感情を教えてくれた藍に出会えた私は幸せものだ。


 

 この夢のような世界にはなんでもある。


 食べ物も服も住む場所も楽しい場所も綺麗な景色も何もかも。


 生きていくことに困ることはない。


 それなのに一つだけどうしても叶わないことがある。



 『好きだよ』


 そんな簡単な四文字すらも言うことが出来ないこの世界のことを少しばかり恨んだ。


 弱々しい藍の体をそっと抱き寄せる。


 明日も彼女との何気ない生活を噛み締めて生きていくのだろう。


 私はあとどれくらいこの気持ちを押し殺していけばいいのだろうと不安を誤魔化すように藍の体を抱きしめていた。

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