第20話 新潟県上越市③
頬になにか違和感を感じる。
たぶん、藍の定例“ほっぺ触りタイム”なのだろう。
深い眠りに入ってから数十分しか経っていない気分だけれど、きっと彼女が起きているということは起きる時間ということになる。
もう少し寝たいと思い、目を開けなかった。
私の頬を好き放題されているが、それでも良かった。しかし、唇を好き放題されるのは違うと思う。
頬にあった藍のすべすべの指は、私の柔らかい唇を優しくなぞっている。
ある程度、触って満足したのか手が離れるから私はそのまま二度寝しようと思うと、指よりも柔らかいものがぷにっと当たる。
さすがにその行動にドクドクと心臓が起き始めるので、目を開けざるを得なかった。
目を開くと藍は目を丸めた後に顔が赤くなっていく。
「優織、おはよ」
「おはよ。じゃないよ」
ぐっと藍をベッドに引き寄せた。バランスを崩した藍は私に覆い被さるようになるので、そのまま彼女を抱きしめた。
「ゆうり!?」
「なんで勝手にキスしたの?」
私が藍にそういうことをするのなら分かる。
しかし、藍が私にそういうことをする理由はわからない。
そんなことをされたら、藍も私のこと好きなんじゃないかな、とすぐに勘違いしてしまいそうになる。
「ごめん……」
「ごめんじゃなくて」
私はそっと彼女の前髪を撫でて、おでこまで見えるようにした。
いつも前髪は切るのに、おでこは隠そうとする。
綺麗だからもっと見せてくれればいいのに――。
さすがに恥ずかしかったのか、藍はおでこまで赤くなっていく。そして、発する言葉はどれもカタコトでとても怪しい。
「おこしにきた」
「普通に起こせないの?」
「おきて、くれないから……」
時計を見ると短い針が四の数字を指していた。普段、生活をしていてこんな時間に起きたことなんてないのだから、起きろという方が酷だと思う。
しかし、今日はこの時間に起きるので間違えていない。
「確かに早くしないと見れなくなっちゃうね。起こしてくれてありがとう」
キスについては色々聞きたいものの、もたもたしていられないので、彼女の頭をそっと撫でて私は支度を始めた。
いつもはゆっくり朝ごはんを食べて、胃の中が落ち着いてから外に出ていたが、今日は何も食べずに自転車に乗った。
空腹感から胃がきゅーっとしているが、これもまた一つの思い出だろう。
体はガチガチで、いつもよりもペダルが重たい気がする。登り坂が多いので特に重く感じたのかもしれない。
息が上がるが、ぜえぜえとしていたらちょっとかっこ悪いかなと思って、鼻で息をするように努力する。
隣をちらりと見ると、肩を上下にして少し苦しそうな少女がいた。
「少し休む?」
「ううん。でも、自転車だとこの辺りまでしかいけないね」
私たちの目の前には木で整備された階段があって、自転車はこれ以上進めなさそうだ。階段の横に自転車を止めて、私たちは休みもせずに歩き始める。
自転車で散々登ったのに今度は徒歩で上まで登るらしい。一度、動きを止めたせいで、ぐんと心拍数が上がり、鼻で呼吸するのは辛くなっていた。
二人の「はぁはぁ」と息を吸って吐き出す音が響く。
頂上で二人とも膝に手を付いて呼吸を整えていた。
「疲れたね」
「うん。優織って体力あるよね」
「そうかな?」
ちょっとかっこつけていたからそう見えたのかもしれない。藍に少しそう思ってもらえてよかった。
少しでも藍にいいところを見せたい。
そんな欲で私は満たされている。
辺りは薄暗く木々や下草が鬱蒼としているので、不気味だ。
しかし、少し遠くに波の引いたり押したりする音が聞こえる。そちらの方を見るとほんのりと少しだけ明るい気がした。
頂上には
少しすると暗かった辺りは少しずつ明るくなっていき、海の水平線上から半円の明かりがひょっこりと顔を出した。
それはあまりにも赤く煌めき、寝起きの目には眩し過ぎる。
日中見るときは白い光りを放つ太陽は、なぜ、顔を出す時だけ赤いのだろう。状況によって顔色を変えるなんて、まるで人間のようだ。
海が太陽に赤く染められている。
海に反射した赤はゆらゆらと緩やかに揺れていた。
太陽がその姿の全てを表すにはあまりにも早すぎたと思う。それぐらい私がこの光景に夢中になっていたのかもしれない。
あっという間にその全貌を表した太陽は上に昇らなければいけない使命からなのか、ゆっくりと着実に上に昇っていく。
さっきまで海に反射する半円の光はいつのまにか丸くなっていた。不思議なことに赤さもだいぶ薄くなっている。
そこまで来て、私は写真を撮っていなかったことに気が付き、後悔した。
はっと隣にいる藍を見ると、彼女は優しく微笑みながらこちらを見ている。
「きれいだったね」
「うん。起こしてくれてありがとう」
「こちらこそ、一緒に見てくれてありがとう」
藍はぎゅっと勝手に私の手を握ってきた。そのことに、私の顔はさっき海に映し出された太陽よりも赤くなっていたと思う。
二人でしばらく太陽を見つめていた。
いつのまにか山を登った時の汗は引いていて、キャミソールがペタリと体にくっつき、少し心地悪く、寒い。
だから、彼女に身を寄せた。
これは私の欲望でもなんでもない。
藍も寒そうにしていたからそれでいいと思う。
「少し寒い」
「上着貸そうか?」
「こうがいい」
私はそのまま少し低い位置にある藍の肩に頭を乗せて華奢な腕を抱き寄せた。
隣の少女は少し身を縮めていた気がしたが、気にしないことにする。
ずっとこの時間が続けばいいのに――。
どのくらいそうしていたかわからないけれど、そろそろ寒さも限界を迎える。
なんていったってもうすぐ十一月だ。しかも、海に近いから、日が上がるごとに風が強くなっていく。
「そろそろ戻る?」
「うん」
このままなら彼女にくっついていい理由が立つと思ったけれど、これ以上は明日からの旅に影響がでそうだったので、ホテルに戻ることにした。
今日は完全な休みの日にすることにしたのだ。
一日、怠惰な生活をする。
毎日、自転車を漕いでいたのでこういう日も作ろうと提案したら、藍は快く、むしろ彼女の方が乗り気でこの話を受け入れてくれた。
私が藍と二人でゆっくり過ごす時間が欲しいという下心も知らずに……。
ホテルに戻り、布団に潜る。
ベッドの中は冷たかったけれど、そのうち温かくなるだろうと足や手を擦った。布団から顔を出すと、なにやら真顔の少女が目の前に佇んでいる。
「どうしたの?」
「優織のベッドに入っていい?」
「へ? どうして?」
「寒いから……」
藍は少し自信なさそうに私にかかっている布団をぎゅっと掴んでいた。
今日も彼女の行動の意味を理解することは難しい。なぜ、いつものように強引に入らないのだろう。わざわざ聞かれると逆に戸惑ってしまう。
しかし、藍のお願いを断る理由もないし、彼女が求めたのだから私が彼女の近くに居ていい正当な理由になると思って彼女の手を引いた。
藍は私の上に被さるように布団の中に入ってくる。
先ほどまで寒かったはずなのに、藍と体が接していて、今は熱すぎる。藍が寒いと言うから、この熱を彼女に移そうと、細い体をもっと抱きしめた。
「寒くない?」
「うん。温かい」
藍はびっくりするくらい私に身を寄せていた。
少しだけ、体は震えている気がしたのだが、気のせいだろうか。
いや、気のせいではない気がする。
「藍、なにかあったの?」
私がそう聞くと藍はよっぽど驚いたのか口まで開いていた。しかし、すぐに顔は真顔に戻り、眉は下に下がっている。
「優織はさ……元の世界に私がいたとしたら仲良くしてくれる?」
やはり、私の気のせいは勘違いではなかったようで、藍の声は明らかに震えていた。
「どうしたの急に?」
「なんでもない」
なんでもないと言いつつ、私の服を掴む手は小刻みに揺れている。
やはり、何かが変だと思う。しかし、理由を聞いてもっと彼女を苦しくさせるのが嫌だったので、私は藍の質問に答えるだけにした。
「藍が元の世界にいてくれたらよかったなと何度も思ったよ」
藍がいてくれたら、私は帰りたいと思えたかもしれない。
いや……その逆かもしれない。
彼女に情けない自分を見られたくない。
いじめられている私なんてかっこ悪くて見せられない。彼女の前ではかっこつけていたいし、嫌われたくない。
「私がさクラスのみんなに嫌われてても、優織は同じことが言える……?」
その言葉にどくどくと心臓が鳴り始める。
私も似たようなことを知りたいと思っていた。
藍がこの世界で私と仲良くしてくれるのは、私の元の世界での姿を知らず、ある程度仮面を被った私だからだと思っている。
藍はクラスのみんなからいじめらる私を見て、私と仲良くしたいと思ってくれただろうか。
答えは“NO”だろう。
「優織?」
「ごめんごめん」
自分の過去のことにばかり囚われて、藍の質問に答えるという大切なことを忘れていた。私は咳払いをして、少し声を整え、落ち着いて話を進める。
「私は藍がクラスのみんなに嫌われていても、藍と仲良くしたいって思うかな」
「どうして?」
「どうしてだろうね」
元の世界では、自分の正義感からいじめられている子を助けて、自分がいじめられるようになった。あの時に戻れるとして、もう一度同じ道を選べるかと言われたら難しい気がする。
しかし、それが藍のことならば話は別だ。
藍が苦しむくらいならば、藍が隣にいてくれるのならば、私は友達がいなくてもいいとすら思っている。
現に元の世界を含めても仲のいい人は藍しかいない。
「だって、優織がいじめられるかもしれないよ?」
「そうだとしても藍と一緒に居たいって気持ちに嘘はつきたくない」
「でも……」
「藍は私がクラスのみんなにいじめられてたら、もう仲良くしたいと思わない?」
藍に情けないところを見られたくはないが、もし、私のそういうところを見たら彼女はどう思うのだろう。
「私は優織と仲良くしたいって思うけど、いざ、優織がいじめられているところを見ると足が
「ふふ。それでも助けたいって思ってくれるんでしょ?」
「うん、それは思うよ」
その答えは藍らしい答えだなと思った。
私は考えるより先に体が動いてしまうから、後先考えずに行動する。
藍はしっかりと考えて行動するタイプだから、きっといろいろ考えて行動に移せないでいるのだろう。
藍と私は似ているようで全然性格が違う。
だから、藍にこんなにも惹かれたというのも一つの事実だろう。
私にはないものを持っていて、少し羨ましくて、尊敬している。
すっきりと私の考えがまとまっていく一方で、藍の顔はどんどん曇っていった。
「私って最低だよね……」
「どうして?」
「優織みたいに行動できないから」
藍は悲しそうな顔をして、私の肩に顔を押し当ててきた。
きっと、優しい彼女はその時の状況を考え、罪悪感に押しつぶされそうになっているのだろう。もしもの話なのに、そんな辛そうにする藍は馬鹿だと思う。
「私は私。藍は藍だよ。どういう形でもお互い大切って思ってるのならいいんじゃないかな」
何が正解なんてわからない。
この話だって何が正しいのか、これから一生をかけても答えが出ない気がする。
しかし、私がどんなに惨めでも助けたいと思ってくれる人がいるだけで、私の気持ちは救われるだろう。
「やっぱり、優織は優しいね」
「普通だよ」
「優しいよ。優しすぎるよ」
「でもね、このばかみたいな正義感が自分を苦しめたりするんだよ」
「どういうこと……?」
藍と密着しているから彼女の体温が心地良い。
体だけでなく心までも温まっていく。
今日も沢山話ができるから、耳も大好きな声で満たされていく。
まさか、冷え切ってしまった心を知らない世界の少女にここまで溶かされてしまうなんて思いもしなかった。
彼女になら話してもいいだろうか……。
もう、どうせ死ぬのだから誰にも話すこともない。最後に藍になら自分の姿をさらけ出してもいいのではないかと思った。
きっと、藍はどんなことを話しても受け止めてくれるだろう。
「あのね……」
「うん?」
そうは思ったものの、どうやら辛かったことを思い出して話すというのはかなり勇気のいることらしい。
少し呼吸を整えて彼女をぎゅっと抱きしめた。もしかしたら、話している途中に泣いてしまうかもしれないし、酷い顔をしてしまうかもしれない。
だから、その顔を見られなたくない。
彼女のつやつやした耳元で抑えのきいた声で話を始めた。
「私、元の世界でいじめられてたの……」
「……うん」
うんってそれだけかと思ったけれど、藍はなんて言ったらいいか真剣に考えて、考えすぎてなにも言えないのだろう。
藍はいつも言葉選びに注意しているように見える。その行動はまるでなにかに怯えているようにも見える。
だから、彼女のことは気にせず、話を続けることにした。
「いつもクラスのみんなに嫌われないようにいい子を演じてたんだ。みんなの顔色窺いながら生きてた。だから、私のことを嫌いな人なんてほとんどいなかったはずなんだ」
「うん」
「家ではね、両親に心配かけないように、そして、妹のお手本になるように完璧な自分を演じてた」
そこまでは勢いで話せていたが、だんだんと声が震えてきて、話すことがぐっと難しくなっていく。
大きく息を吸って、胸に呼吸を送り込み、それを吐き出す。空気を全部吐き出すと、頭が少しがんがんと揺れている気がした。
藍は私のおかしな様子に気がついたのか、いつの間にか私の背中を擦ってくれている。
藍の手は私の手より小さいはずなのに、その手には安心感と緊張感のどちらも混ざったみたいな感覚があった。
「無理しなくていいよ?」
「藍に聞いて欲しいっていうのはわがままかな」
「ううん。優織のこと知りたいけど、無理はしてほしくない」
「ありがと」
藍は私がどんなになっても、苦しそうでも、優しく撫でるばかりで、私のことを待っていてくれた。
もちろん部屋の中に音は無くて、藍の息遣いと私の呼吸の音が小さいはずなのに、えらく大きい音として聞こえる。
「学校でいじめられ始めて、信頼していた友達はいなくなって、自分の築き上げてきたクラスの人気も失った。家では心配かけないように絶対にそれを悟られないように完璧な子を演じてたらね、いつの間にか、なにも感じない人間になってた」
あの日々は今でも思い出すと吐き気がして、体が無意識に忘れようと頭痛がする。
辛かった――。
あの日々からどうしても抜け出したかった。
私の背中を撫でていた藍の手にはぎゅっと力が入って私の服を掴んでいるようだ。そのまま気が付かない間に苦しいくらい抱きしめられている。苦しいはずなのに今はそれが私の安寧を保っていた。
「だから、私は逃げちゃったんだ――」
交通事故に遭ったあの日、私はぼーっとしていたわけではない。
心の何処かで死んだら楽になれるんじゃないかと思っていた。
私は逃げたんだ――。
ずっと認められなかった。
私は苦しいことから逃げていただけなのに、あの世界のせいにして戻りたくないと嘆いていた。
「なんで……そうなったの……」
「きっかけはある子を助けたことだった」
「その子のこと恨んでる……?」
「全然」
「えっ?」
きっとあの酷過ぎるいじめを見逃していたほうが生きていて辛いと感じと思う。
どうしたってそれが私の性格なのだから仕方ない。
コマツさんはずっと我慢していた。
形は違うかもしれないけれど、私も同じように家では自分を押し殺して、いじめられ始めてからは嵐が過ぎるのをずっと待っていた。
そんな私とどこか似ていないようで似ている彼女を放ってはおけなかった。
「助けない方が後悔してたと思う。私はそういう人間なんだ」
私はそこまで話し終えて、笑顔になれたと思う。
ずっと誰にも言えず苦しかった。
誰にも打ち明けられずに私という人間は消えていくのだと思った。しかし、藍はどんなに時間がかかっても最後まで待っていてくれた。
そのことが何よりも嬉しい。
「優織に助けてもらった人は幸せものだね」
「どうだろうね。元気で過ごしてくれていたらいいなって思うよ」
「きっと、優織のこと待ってると思う」
「そんなことないよ」
そんなことはないと思う。
むしろ、余計なお世話だったかもしれない。
私はそのまま藍の方を向くと、唇にキスをされた。
なぜ……? と思っていると今度は藍の顔を見て驚いた。
藍のその綺麗な瞳から透明な雫がこぼれそうになっていた。
「なんで……?」
「優織が優しすぎて――」
藍の目元から液体が溢れそうで溢れない。泣くのを我慢しているように見える。
よくわからないけれど、私はそのまま彼女を抱きしめた。あまりにもいつもの藍に比べたら弱々しすぎて心配になってしまう。
「誰にも話せなかったから、藍に聞いてもらえてよかった」
「話してくれてありがとう」
今日も彼女のことはよくわからないけれど、こうやってゆっくりと過ごす日を作って良かったと思う。
その日は一日ベッドの上でゴロゴロとたわいのない話をした。
明日からはまた足がちぎれれるくらい自転車を漕がなければいけない。そのことが嬉しいような嬉しくないような気がするけれど、それでも藍との残り少ない時間をたくさん楽しみたいと思えた。
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