桃源郷少女
雨野 天遊
本編
第1話 福井県敦賀市①
●九月十二日(残り八十三日)
ふかふかの柔らかいベッドから、勢いをつけて自分の体を起こす。今日は上手に引き剥がせたようで、私は部屋を出た。
出てすぐにキッチンに向かおうと右に曲がる。
おっと、間違えた――。
私は重たい体の向きを一八〇度回転させて、明るい方へ向かった。
十五畳ほどのリビングは一人で過ごすには広すぎる。
そんなリビングに足を踏み入れると、寝起きの目には眩しすぎる日の光が差し込んできた。
外の空気が欲しかった私の体のために、大窓を横にスライドすると、ふわっと暖かい風が流れ込み、部屋を程よい室温にしていく。
私はまばゆい光を浴びながら大きく深呼吸をした。
肺に入り込む空気が澄んでいて、私の中にある黒いモヤごと外に取り出してくれる気がする。
きっと、気のせいだろう。
朝の朝礼を終えたら、キッチンの冷蔵庫を開けて、昨晩、調達した小さな牛乳パックにストロー差し、カラカラに乾いた喉には甘すぎる液体を流し込む。
最初に水を飲むべきだった……。
私の脳に遅れて“おはよう”した胃はびっくりしているのか、ぐるぐると音を立て始めた。部屋が静か過ぎるせいで、その音が部屋中に響き渡り、顔が熱くなる。
顔はそのうち冷めるだろうと思い、他の準備を始める。
電気ポットに水を汲んで、スイッチとコンセントの位置を探した。ポチッと電源を入れ、冷蔵庫からおにぎりとカップ味噌汁とペットボトルに入った緑茶を出す。
ぐつぐつと煮えきったお湯をカップに流し込むと、ジワっという音を立てながら具材がふやけていった。
私は「おいしくなれよ」とその子に告げ、蓋を閉める。
用意したもの全てをテーブルに並べ、手を合わせて、そんなことをする必要もないのに大きな声で「いただきます!」と発する。
シーン……と漫画のワンシーンのような沈黙が部屋を支配した。
次からは虚しくなるのでやめよう。
窓を開けているのだから、鳥の鳴き声くらい聞こえたっていいと思う。聞こえるのは風が木々を揺らす音ばかりで、車の音も誰かの足音も声も聞こえない。
私は湧いてきた食欲をコンビニ食で満たした。
お腹が満たされ、ソファーに寄りかかるが、チクチクと針の音が聞こえるのみで、居心地が悪くなる。
「外行くか」
空のリュックサック一つ背負って、「ありがとうございました」と誰に言ったかも分からないお礼を告げて外に出た。
時刻は午前十時を過ぎていて、田舎というわけでもないのに、人っ子一人いない。
私は大通りの車道のど真ん中を歩いている。
こんなことをしていれば、いつか車に轢かれて私の体は真っ二つになるだろう。しかし、そうなれるのならばなってみたい。私を真っ二つにしてくれる車すら一台も走っていない。
当たり前だ。
この世界には、私しかいないのだから――。
この事実を受け止めるのにそう長く時間はかからなかった。この生活になってから早一ヶ月が経とうとしている。
普通の高校生ならば、人どころか動物や虫すら居ない日本の知らない土地に一人で取り残されたら、不安で押しつぶされ、精神状態がおかしくなるだろう。
私も普通の人間だったら、目覚めた場所で悶え、頭がおかしくなり、何も口にできず死んでいただろう。
しかし、そんなことにはならなかった。
だって、私は死んでいるのだから――。
学校の帰り道、ぼーっとして道路を歩いていたら、トラックが真横まで来ていて、「危ない!」と誰かが叫ぶ声が聞こえた。
次の瞬間、私の耳にはキーンと頭が割れそうなほど大きい耳鳴りが流れ、体には一度に色々な方向から金属バットで殴られるような痛みと音が広がった。
ここまでがこの世界で目覚める前の記憶。
私は死んだと悟ったのだ。
真っ暗な世界で体が横になっているという感覚だけがしばらく続いた。しかし、しばらくすると眩しい光が差し込み、重たい瞼に力を入れて、目を開けると、ムクっと簡単に起き上がることが出来たのだ。
どこも痛くないし、体は自由に動く。
交通事故は夢だった……?
そんな淡い期待が胸を走った。
急いで病室を出て、病棟を駆け回る。しかし、違和感に気がつくのにそう時間はかからなかった。
病院には私以外の人間がいなかったのだ。
そんなことはあるはずがないと、病院内を走り回る。大声で叫んでも走っても誰も見つからず、喉と肺が痛くなるばかりだった。
カウンターにある書類をガサガサと落としながら漁り、紙が破れているのも気にせずペラペラとページをめくる。
衝撃的な文字を見つけてしまった。
この病院の住所に『岐阜県大垣市』と書かれている。
私が住んでいた場所は山形県だ。
なんでこんな場所にいるのか分からないし、なによりも分からなかったのは、人が全く存在しないということだ。
不安、恐怖、焦りなど様々な感情を抱えたまま病院を飛び出し、数日間、街を彷徨い続けた。
わけも分からず心が苦しくなり寂しくなった。
しかし、自分が交通事故に遭って死んでいるということを思い出し、ここは死後の世界だと思った時に、この不思議な世界のことを受け入れることができた。
ポケットにはスマホと生徒手帳が入っていて、それ以外に所持品はない。唯一、使えそうなスマホを開いてもデータは何も残っていなかった。
試しに色々な電話番号を打って掛けてみるものの、流れるのはプープーという音のみで、あとは何もない。
街に出ると人は居ないが、店には潤沢な食料があった。どこの家にもどこの店にも入りたい放題で、現世だったら不法侵入と大泥棒の罪で重い判決が下されているだろう。
最初は寂しかったけれど、この生活には一週間程度でだいぶ慣れた。
ここでの生活は生きていた頃よりも楽だったからだ。
みんなにいい顔をして完璧な子を演じる必要もないし、人と関わる必要もない。人に関わることに飽き飽きしていたのでちょうどいいと思った。
今日も泊まりやすそうな家を探すために、口笛を拭きながら日が落ちる前の街を歩いている。
大通りの曲がり角で、るんるんになりながら角を曲がると何かにぶつかり、尻餅をついた。
ドンと体に音が響いて痛かったはずなのに、お尻の痛みよりも内蔵が破裂しそうなほど心臓が速く動いて、気持ち悪さが広がっていく。
おかしい――。
一ヶ月間そんなことなんてなかった。
受け入れ難い目の前の光景にどくどくと心臓は跳ね上がっていく。
驚くことに、目の前には黒髪ロングの可愛らしい女の子が立っていたのだ。
少し気恥しそうに目と眉毛の間に並ぶ前髪を整えながら、無口で何も話してくれない。
こっちは目が飛び出そうなほど丸くしているのにその子は真顔だった。
少し冷酷な雰囲気があるのにどこか安心感のある人。
そんな人から私の目の前にすっと手が差し出された。
私の目に映るのは確実に人間だ。
幽霊か、人間に化けた化け物か、その正体を確かめたくて、私はその子の手をぎゅっと握っていた。
それは、私が一生感じることの無いと思っていた感覚の一つだ。
温かい。
人の体温だ。
「あなたは何者――?」
これが、“
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