第12話 石川県金沢市①

 ●十月二日(残り六十三日)


 

 私はそっと目の前にいる少女の髪を撫でた。そうすると重なっていたまつ毛が上下にゆっくりと開いていく。

 

 私が先に起きるなんて珍しいこともある。


 ランを起こしに来たのだが、少し不服そうな顔をされた。


 ランはすぐに起き上がり前髪を整えている。


「何してたの?」

「そんな怒んないでよ」

「怒ってない」



 明らかに怒っている。


 前髪を下に引っ張り、顔を隠そうとしているけれど、全然隠れていない。

 

 ランは週に一回くらいのペースで前髪を整えている。朝起きるとすぐに顔を洗いに行き、洗面台の方からはチョキチョキと音が聞こえる。


 彼女の中でなにか決めているルーティンなのだろう。


「ランっていつも前髪切ってるよね」


 私はそっと優しく彼女の前髪を撫でると腕を掴まれた。


 いつも私の方が遅く起きるから知らなかったが、もしかしたら彼女は寝起きが悪いのかもしれない。


 眉間に力が入りっぱなしだ。


「変……?」

「ううん。綺麗な顔がよく見えていいと思う」


 私が素直な感想を言うと、ランの顔には火がついたのか、ぽっと赤くなる。


 とてもわかりやすい。

 先程の不機嫌な顔はどこかに行ったので、少し安堵した。



「なんか切る理由とかあるの?」

「……うん」

「どんな理由なの?」

「……」


 珍しくいつも明るいランが黙ってしまった。


 もしかしたら、聞かれたくなかったことなのかもしれない。


 私まで言葉に詰まっていると、ランは整っている前髪をさらに梳かして整えながら声を発し始めた。


「尊敬してる人が『前髪切った方がいいよ』って言ってくれたの。その方がかわいいって」


 ランは顔を赤くしながらそんなことを言う。


 その反応から、彼女がその人物に対して少なからず何かしらの好意を抱いていることがわかった。


 キスは私が初めてだと言っていたけれど、好きな人はいたのかもしれない。


 そんなことは彼女の自由で、過去のことなんて気にしたって仕方ないのに、なぜか自分の虫の居所はだいぶ悪くなっていた。


 私だって彼女の綺麗な顔立ちを褒めたことがある。ただ、それは他の人も気が付くくらい当たり前のことらしい。


 ランの過去にこんなに心を掻き乱されるなんて、私は随分小さい人間だなと自分が嫌になってしまった。


 自分の嫌な気持ちを抑えられず、嫌な態度で言葉を続けてしまう。


「その人、ランのことよくわかってる人だね」

「うん。そう思う」



 そんな言葉期待していなかった。「そうかな?」といつもみたいにきょとんという顔をして欲しかった。


 しかし、そういう顔をされたらされたで、鈍感なランに対して苛立ち、嫌な態度を取っていたのも目に見えている。


 どうやったらこの自分の中の嫌な感情は消えるのだろう。


 胸の中に疼くこの感情を処理しきれずにいた。


 ランは相変わらず頬を赤らめ、前髪を抑えている。その人のことを思い出し、そんな顔をしているのだろうか。


 この世界には私とランしかいないはずなのに、見えもしないもう一人の人物が私の前にちらつき、私の胸を締め付けていく。


 これ以上、自分の嫌な感情が生まれない方法……。

 


「私、人の髪切ってみたい」

「はい?」


 ランはわけが分からないという顔をしている。


 その反応が正しい。


 しかし、私は初めてのキスを彼女に奪われたのだから、彼女の髪の毛を切る権利くらいはあると思っている。


 先程まで前髪を抑えて過去の人を思い出していたランの髪を切ることで、私との思い出で上書きしたいなんて低俗な考えが生まれていた。


「人の髪切ったことあるの?」

「ないよ」


 私は彼女のさらさらの髪を指で梳かしながら、ぎっと髪の毛を私の方へ引く。ランは少し痛そうにしていたが、私は手を緩めなかった。


「優織、なんか変だよ?」

「変じゃないよ」

「そうかな……」


 ランの言うとおり、今の私はおかしい。


 それでも、この気持ちを抑えることは出来なかった。

 

 ランは少し困惑した顔をして「ふぅ」とため息をついている。


 そのことにズキリと胸が痛み、私はいつもの私を取り戻し、少しずつ冷静になる。しかし、戻ってきた私をランは意味のないものにしていく。


「私も優織の髪の毛切っていいならいいよ」

「へ?」


 思わぬ言葉が飛んできて今度は私が戸惑った。ランはそのまま肩にかかるくらいの私の髪を優しく梳かしてくる。


「ランは人の髪の毛切ったことあるの?」

「そんなのないよ」


 その言葉に喜んでいる自分がいた。


「じゃあ、ランの初めては私だね」


 自分でも意味のわからないことを口にすると、ランは呆れた顔で私を見ていたが、気にしないことにした。

 


 髪の毛を切る準備をして、私たちはビニール袋を被って二人で佇んでいる。その面白い光景に笑わずにはいられなかった。



 最初は言い出しっぺの私がランの髪の毛を切る。


 いざ切るとなると緊張し、躊躇ってしまい、先程から私はランの髪の毛を梳かすばかりになっていた。


 ランが痺れを切らして「まだ?」と不服そうに言ってくる。


 だって、どうやればいいか分からないから仕方ないじゃないか……。


 私は誤魔化すようにランに質問をすることにした。


「どのくらいの長さがいい?」

「優織の好きにしていいよ」


 なんとか切る覚悟の時間を作るために質問をして時間を引き延ばそうとしたのに、私の意向にすべて委ねるという回答が返ってきてしまった。

 

 ランは出会ってから、私のお願いを断ったことはない。最初は嫌だと言うこともあるけれど、なんだかんだ私に合わせてくれる。


 それが嬉しいと思いつつも、少しは自分の意志を持って欲しいと思うわがままな私もいる。


「私のじゃなくて、ランの好きな長さにする」

「じゃあ、今の優織と同じくらいにして?」

 

 今の私の髪の長さはミディアムくらいだ。ランは肩甲骨くらいまで髪が伸びているので、切ってしまえば十五センチくらいは切ることになるだろう。


「なんかもったいなくない?」

「優織が切りたいって言ったんじゃん」


 「はぁ」と吐息とともに声を漏らし、肩を落とす少女の様子にハサミを持っている手に汗が滲んでいく。


 そんな嫌々そうにしなくてもいいと思う。


 いや、どんな髪型になるかも分からないのに他人に髪の毛なんて切らせたくないだろう。


 それでも、私に彼女の髪を切らないという選択肢はなかった。


「切るからね?」

「うん」


 覚悟を持ってパツンと髪の毛を切る。


 ふぁさふぁさと床にランの綺麗な髪が落ちていく。その髪が落ちる前に手で掴まえると、指の間を通ってパラパラと床に落ちていく。


 私は指にまとわりついた彼女の髪の毛を見つめていた。


 私の下手なカットのせいで、ランの後ろの髪の毛は右から左まで一直線になる。髪の長さが変わっただけでだいぶ印象の違う少女になった。


 今度は前髪を切るために彼女の前に屈む。


 その人の印象にも繋がる一番重要な前髪だ。


 前髪に手を通すと、その手をぎっと掴まれた。


「前髪はこれ以上短くなるの嫌だ」

「なんでよ。目にかかりそうじゃん」

「隠れるくらいがちょうどいい」

「そんなことないと思うけど」


 ランは目元が綺麗だから、眉毛と目の間くらいの位置に前髪を切りそろえれば、もっと彼女の顔が映えるだろうと思った。

 

 私が真っ直ぐランを見つめると、目をあからさまにそらされて下を向いてしまった。


 無理やり彼女に嫌なことがしたいわけではない。


 ただ、彼女の前髪を切りそろえたい。

 

 私の好みにしたい――。

 

 ランの今の髪の長さが、先ほど話していた彼女の頬を赤らめさせる人物の好みの長さなのならば、尚更、私の好きな長さに切りたかった。


「ランは綺麗な顔だからちゃんと目元出した方がいいよ」

「優織ってそれ無自覚でやってるの……?」

「無自覚?」


 私はただ彼女の髪を切りたいから素直なことを話しているだけだ。


 そして、私の素直な思いを聞いて少しでも気持ちが変わってくれればいいと思った。


 私がぽけっとしていると、ランはなにかを諦めた顔をしていた。


「前髪、優織の好きにしていいよ」

「じゃあ、切るね」


 私は手にハサミを持とうとするとその手をパシッとまた掴まれる。ランを見ると彼女はやたら真剣な顔をしていたと思う。


「いいけど、その代わりに優織からキスして」

「はい……?」


 わけが分からないという顔をしたら、ランは耐えきれず笑い声を漏らしていた。その後に私の手にハサミを渡してくる。


 キスのことはとりあえず無視して、私はそのまま彼女の前髪をハサミではさんだ。

 

 さっきのように適当にはできない。

 

 少しずつ丁寧に刃を横に進めていく。


 数センチしか切っていないのに、びっくりするくらい真っ直ぐな前髪が出来上がった。しかし、眉をギリギリ隠すくらいのその前髪のおかげで、ランの綺麗な瞳がより見える。


 美人だ――。


 どうやら私は彼女に対してそう感じてしまったらしい。


 ランは短い前髪を頑張って抑えている。


 私はハサミを置いて、ランの前髪を触る手を握り、そのまま、唇にそっと唇を重ねた。


 体が勝手に動いていたらしい。


「ゆうり!?」

「なに?」

「いや……突然だったから……」

「キスしろって言ったのそっちじゃん」


 私は恥ずかしくなったので、背を向けたが、すぐに腕を引かれてしまい、今度は私が椅子に座らせられた。

 

 残念ながら、私が髪を切る番は終わってしまったらしい。


 さっきのことがまるでなにもなかったかのようにランは片手にハサミを持って、挟んだり開いたりして使い方を確認していた。


「優織さん、お好きな髪型ございますか?」

「おまかせでお願いします」

「……いいんだ」

「ん……?」


 ボソボソと言っていたのでなんて言ったか聞こえなかった。ランは後ろにいるので顔は見えない。


 少しすると辺りにはチョキチョキと私の髪の毛が切られる音が響く。ランは私と違い躊躇っている時間なんて少しもなかった。


 あっという間に私の髪切りも終わる。


 ランはほんとになんでも出来るとても器用な人だ。

 

 少し僻んでしまうくらいに……。

 

 私の髪型はお店で切ったみたいに整えられていた。

 

 後ろを振り返り、ランを見るとまあ随分不格好な髪型になっている。

 

 お互いに対して同じことをしているのにかなりの差が出る。


 なんで私はいつもこうなのだろう。



 私はいつも出来損ないだった。


 隠せてはいなかったけれど、いつもそれを隠すように生きていた。


 家族を心配させないように。妹のお手本となるように……。


 でも、何をやっても私は私らしい。


 別に誰に見られるわけでもない。それでもランが気の毒なくらいの髪型に見えてしまった。


「ラン、ごめん」

「え、どうしたの?」


 鏡の前で自分の姿を見ていた少女はそんな必要もないのに急いで私のもとに駆けつけた。顔を覗き込み、心配そうにしている。


「どうした……?」

「私のせいでせっかく綺麗な髪が変になった」


 私はそのまま彼女の顔を見れなくなった。

 そうすると優しくふわりと頭に手が乗っかる。


「私、そんなに変?」

 

 その言葉にはっとして顔をグッと上にあげる。

 

「違う! ランが変なんじゃなくて、私のせいで……」

「私はこの髪型お気に入り」

「えっ……?」


  ランの顔を見ると嬉しそうに笑っていた。


「自分だとこんなに前髪短く切る勇気ないし、優織って私のことよくわかってるなぁって思った」


 私の頭に置かれていた手はいつの間にか私の手をぎゅっと握ってくれている。


「何より、優織に切ってもらったのが嬉しい」

「それは、なんで……?」


 私が彼女の顔を見ると「ふふ」と微笑んでいた。


「秘密」


 くるりと回転して、ランは鏡を見ていた。


 そんなのずるい――。

 

 ランはいつもずるいと思う。

 

 出会ってからいつでも私が喜ぶことをしてくれる。


 ランは私を元の世界に返す使命があるから、その使命のために行動してくれているだけなのかもしれないけれど、私はそれでも嬉しいと思ってしまった。


 ずるい少女に対して、私が不服そうな顔をしていたからか、ランの顔はみるみる悪い顔になっていく。


「そんなに申し訳ないと思うなら、今日行く場所でデートしよ」

「デート……?」


 コクコクと頭を動かして、嬉しそうに腕を引いてくる。


 付き合ってもないのにデートってなんだと思ったけれど、ランの勢いに負けて、私はそのまま外に出てしまった。

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