第9話 福井県坂井市②

 さっき食べた昼飯がお腹の中でぎゅるぎゅると音を立ててながら消化活動が始まっていく。


 その音をランに聞かれたくなくて、無意識にお腹に力を入れていた。


「今日の夜は何ご飯にする?」


 先程までこちらも向かず、絶対に話さないという態度を取っていた少女はいつもの少女に戻っていた。


 私の胃袋は消化を頑張り始めたばかりだというのに、もう夜ご飯のスケジュールを詰め込まれるらしい。


 いつもランには作ってもらってばかりなので、私もなにか彼女にできることがしたいと思った。

 

「私もなんか作れる料理がいい」

「野菜炒めとかなら簡単だよ」

「いいね。なんかこの会話、付き合いたてのカップルみたいじゃない?」


 私が冗談ぽくそう告げると、隣に座る少女はまたこちらを向いてくれなくなった。


 少し赤く染まった頬は膨らんでいる。


 そうやってランが素を出してくれるのは嬉しいけれど、なにがだめだったのか言葉にしてほしいとも思う。


「ランってそういう顔すること多いけど、不満があるなら言ってよ」


 私はつんつんと頬を触ると、ぱしっと手を払われてしまう。ランがそんな態度を取るなんて珍しいと思った。


「優織が変態過ぎて困ってます」

「え、どこが?」

「全部」

「わけわかんない」


 意味がわからない。


 急に変態呼ばわりされる私の気持ちにもなって欲しい。彼女のその言葉に納得も理解もできなかった。


 カップルの話が良くなかった?


 何が良くなかったのか頭をめぐらせてもよく分からない。


 私の人生経験の少なさが仇となっているのかもしれない。


 私は十七年も生きてきて、一度も恋をしたことがない。恋をしたこともないような人間が、恋人同士でする会話なんてもっと分かるわけがないだろう。


 人を好きになるってどういう感覚なんだろうとか、恋人同士ってどういうことをするんだろうと気になってはいる。


 さっきランとしたみたいな会話をして心温まったりするのだろうか。


 学校に通っている時はドキドキしたいとかそういうことにも憧れを抱いていた。


 そういう年頃だったのだと思う。


「恋人ってどんな感じなんだろうね」

「優織ってそういうの興味あるの?」

「あるよ。一応、ピチピチの高校生だよ?」

「そっか……」

「初めてのキスの味はいちごとかレモンの味って聞いたことあるけど、あれってほんとなのかな?」


 いじめられる前まで仲の良かった友達が、初彼氏とのキスの味はそうだったと言っていた。


 正直、そんなわけはないだろうと思って聞いていたけれど、それを自分で検証することもなく人生は終わってしまったわけだ。


「してみる――?」

「へ?」


 少し抑えのきいた声が隣から聞こえた。

 

 ふっと隣を振り返るとやたら真剣な顔をした少女が佇んでいる。


 ぐっと私に顔を近づけるので、さっきまでどこにあるかもわからなかった私の心臓の位置がどこにあるのか分かるようになった。


 

「ま、まって――」


 私はすっと彼女の肩を押す。

 恥ずかしくてちゃんと私の理性が働いてくれたようだ。


 不思議な世界の案内人といきなりキスするなんてあっていいもんか……!

 

 私は自分の心のお尻をバシバシと叩き、深呼吸する。


 相変わらずランの距離は近いままだ。胸の動悸が治まらない私に対して、ランの猛攻は止まらなかった。


「だって、優織は帰る気ないんでしょ? だったら、一生経験できないと思うよ」

「そうだけど……」



 そうだけれど、違う。

 違う……。

 違う……?


 

「嫌だったら言って――」


 ランは私の左頬にそっと手を添えてきた。その手は私の顔よりも熱く、その熱が伝染して私の顔まで熱くなっていく。


 どうやら、その熱が私の思考をおかしくしてしまったらしい。


 もう、死ぬんだからいいんだよ――。


 誰かのささやきが聞こえた気がした。


「いいよ――」


 私がそう告げると、ランは瞼をぴくりと上にあげていた。しかし、すぐ真顔に戻って視線は私の目に移る。


 綺麗な目に真っ直ぐと見つめられるから、私はそれが恥ずかしくて目をつぶっただけ――。


 いつの間にか、さっきまで聞こえていたはずの波の音も風の音も聞こえなくなっていて、自分の耳鳴りとうるさ過ぎる心音だけが体中に響き渡る。


 視界が真っ暗になると、柔らかく湿ったものが私の唇に重なった。


 胸がぎゅうと締め付けられていく感覚――。

 

 私の唇はすぐになにも感じなくなるので、ゆっくりと目を開けると、視界が安定していき、無音だった私の耳に波の音と風の音が戻ってくる。


 さっきまであんなに見つめていたのに、今度は目を逸らしてこちらを全く見てくれない少女がいた。


 私のファーストキスはよく分からない世界のよく分からない少女に奪われたらしい。



 目の前にいるランの方が恥ずかしそうに頬を赤らめるので、何を言ったらいいか分からなくなった。


 二人で砂浜に横並びになり、ただ、波を眺める。


 ドクドクといつまでも心臓がおさまる気配はどこにもなかった。


「初めてのキスの味はどうでしたか?」


 しばらくすると、ランはいつもの調子に戻っており、私ばかりが意識していたようで少し嫌になる。


 ランはいつもよりもテンションが高い気がした。ニヤッと笑う少女の顔に安心とちょっとむかつく気持ちが湧いてくる。

 

 本当に意地悪な人だと思う。


「ランの馬鹿、変態、あほ!」

「ひどいー」


 酷いと言う割には嬉しそうだ。


 私は足を抱え、両膝に顔を埋めた。


 初めてのキスの味はよく分からなかったけれど、ランの優しい匂いに包まれたキスだったことは死ぬまで忘れないだろう――。



 ランはそういうことを誰とでもするのだろうか……。そんな人に初めてを奪われたのはなんか嫌だと思った。

 

「ランはキスしたことあるの?」

「ないよ」

「え?」

「だから、優織が初めて」

「ふぇ?」


 思わぬ回答に気の抜けた声が空気と共に漏れ出る。


 あまりにもキスまでの流れが自然過ぎて、てっきり経験豊富だと思っていた。


 いや、冷静に考えれば、ランは案内人なのだから、この世界に迷い込んだ人間とキスをするシチュエーションになる方がおかしい。


 そうなると、余計に同い年くらいの少女に感心してしまう。


 そんな私のくだらない考えがふよふよ浮いている中、ランは平然としていた。


 さっきの頬を赤らめていた少女が嘘のようだ。


「私の初めては優織で良かった」

「はい?」


 ランは私の手をぎゅっと握ってくる。


 わけが分からないけれど、それを拒否しなかった自分が一番よく分からないと思った。


 最後にやりたいことを全部やって終わる――。


 そのためにランを利用しただけ。


 そう思うことにした。

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