第5話 福井県敦賀市⑤

 ●九月十四日(残り八十一日)

 


 頬に謎の不快感を感じ、意識がぼやっと体に伝わっていく。目を開けると、真顔でこちらを見つめる少女がいた。


 そのことに驚き、勢いよく起き上がると彼女のおでこと私のおでこがゴツンとぶつかる。


「いったぁ」

「優織、朝から勢いよすぎ」


 私はぶつかった場所を撫でさすった。

 

 確かに私も悪い。しかし、そんなおでこのぶつかる距離にいたランも悪いと思う。


 痛みが落ち着いていくと、先ほどの状況を思い出し、恥ずかしさが込み上げてくる。


 私は寝顔と寝起きの顔を見られた?

 どんな顔をしていた?


 こんな無防備な時の顔は誰にも見られたくなかった。そして、ランはなぜ私の頬をつんつんと触っていたのだろう。


「私が寝てる時に何してたの?」

「起こそうとした」

「頬つつかなくても声かけてくれれば起きるよ」


 寝起きが悪い方だから、声をかけたくらいでは起きないかもしれない。

 もしかしたら、最初は声をかけてくれてたのに、起きなかったからそうやって起こしてくれたのかもしれないけれど、私は恥ずかしさを紛らわすように彼女に言葉を吐き捨てて起き上がる。


 机の上には、昨日、調達した二人分のインスタント味噌汁とおにぎりが既に準備されていた。


「ランが準備してくれたの?」

「うん……」

「ありがとう」


 私たちの間には朝のやり取りのせいで、気まずい雰囲気が流れる。


 私はそのままおにぎりに手を伸ばして海苔を巻き、口の中に放り込んだ。パリパリっと音がして、おにぎりは私の口の中に消えていく。


 同じ音が正面からも聞こえる。


 ずずーっと味噌汁を啜る音もおにぎりを咀嚼する音も、もう一つではない。


 昨日はそれが不快だと思っていたはずなのに、今は少し嬉しい。


 “独り”という世界はあっという間に終焉を迎えた。


 朝の空腹を満たし終わると、ランはベッドの上に地図を広げた。その地図上には赤いラインで山形県までの道筋が既に書かれている。


 案内人というのはここまでしてくれるのかと感心してしまった。


「このルートで行きたいと思う。なにか質問ある?」

「ううん。逆にここまでしてくれるんだと感心」

「だって、この土地なんて分からないでしょ」

「うん」


 目的もなくこの世界で過ごしていた。

 何となく街を歩いて、なんとなく過ごして、私は知らない間に目覚めた場所から、かなり北上していたようだ。


 ランが指差しながら「このルートで行くから」と言った場所も全く知らない土地ばかりだ。


「ここが敦賀市。次に目指すのが福井市」


 ランは細くしなやかな指を地図に当てて、スーッとラインをなぞる。それを目で追うものの、どうやって行くのかは検討もつかない。


 何より電車などは駅に停車しているが、動かないことは確認済みだ。地図上ではこんな簡単に説明しているが、どれくらい果てしない道なのかと想像するだけで少しゾッとする。


「公共交通機関も動いてないのにどうするの?」

「今から足を調達しに行くよ!」

「はい?」


 ご飯を食べてすぐに動くと脇腹が痛くなるので、ゆっくり休みたいのに、彼女に手を引かれて外に出ることになった。

 

 今は九月十四日で、私がこの世界に来たのは八月六日だ。この世界にいることのできる期限は三ヶ月を切っている。

 こんな短い時間でランは何をしようと言うのだろう。そもそも、私の故郷まで無事着くのかもわからない。


 

 今日は雲がほとんどなくて快晴だった。

 暑さはだいぶ落ち着いているけれど、日に当たれば眩しくてそのことを不快に思う。


 ランが強く握っている手には汗が滲んでいて、じとりと少し気持ち悪い。振り払おうとしても、ランはぎゅっと掴んで離してくれなかった。


「歩きにくいから離して?」

「やだよ。優織、逃げそうだし」

「もう、逃げないから――」

「……わかった」


 ランは目を細めながら私の手を見たあとに、すっと離した。彼女の温かい手が離れても私の手は少し熱を放っていた。


 そのままランの後ろをついていくと、よく知る場所に着く。


「なるほどね」


 どうやら、案内人でも魔法の絨毯なんかは持っていないらしい。目の前にはピカピカに輝く丸いタイヤが二つ付いた乗り物がいくつも並んでいた。


 自転車であの距離を移動するなんてなかなかの距離だし、少し気が遠くなりそうだ。


「優織、好きなの選んで?」

「完全に悪いことだけどこれ」

「今更?」

「良心が痛むじゃん」

「ふふ。優織はやっぱり心が綺麗だよね――」


 全然、意味がわからない。

 何も綺麗じゃないし、当たり前に誰もが感じる感情だと思っている。


 今更と言われる理由もわかる。


 最初の頃は申し訳なくて、コンビニのものを食べることすら躊躇って生きていたが、食欲には適わず、そこからずっと私は大怪盗だ。


 今、私がこうやってこの世界で動けていることも、今、来ている服も全て私が盗みをしたから成り立っている。


 もう、一ヶ月もこの生活をしているから盗んでいるという感覚はなくなり、生きるために動いているの方が私の中ではしっくりくる。


 そもそも、ここは現世ではないので法も私を捕まえる警察も存在しないから、気にする必要はないのだけれど、それでも良心というものは厄介でこの世界にいると常に罪悪感がついて回るようになった。


 私はたくさんの自転車が並ぶ店の中を見渡す。律儀な程に全部の自転車は鍵がかかっていなくて、「どれでも使っていいですよ」と言われている気分だ。

 

 私はたくさんの自転車が並ぶ中から適当にシティサイクルを選んだ。マウンテンバイクや折りたたみバイクの方が走る機能としては優秀なのだろうけれど、良心が痛んだので安価なものにした。


「それでいいの?」

「うん」

「じゃあ、私もそれにする」

「ランは好きなのにしなよ」

「優織と同じのにする」


 ランはそう言って私と同じ種類の黒の自転車を手に取っていた。私は白にした。「汚れが目立つから黒にしたら」とランに言われたが、この世界でそんなことを気にするなんて随分変わった案内人だと思う。


 私は「これがいい」と言うとランは「そっか」と言ってそのまま私についてきた。私はリュックに今日の昼ごはんを詰め込んで、自転車のカゴにリュックを投げ入れた。


「じゃあ、出発しようか」

「道案内はお願いしていいの?」

「もちろん」


 ランはガッツポーズを構えて私の前で自転車にまたがる。


 新しい自転車を買った時、初めて乗るのが勿体ないという感覚と早く乗りたいという感覚に襲われる。その感覚が今の私の体に浸透したまま、私も急いでまたがり、ペダルに足をかけて力を込めた。

 


 ランと旅をすると覚悟を決め、出発して一日目。


 私の心は既に折れそうだった。


 私たちは高速道路のど真ん中の太陽の光を何も遮るものがない中、自転車をかれこれ三十分は漕ぎ続けている。足裏にはジンとした感覚が広がり、太ももには力が入らなくなって、体は「漕ぐのをやめたい」と言っている。


「他の道はないの?」

「だって、これが一番分かりやすくて早いじゃん」


 確かにその通りだ。高速道路ならば標識もあるので、行きたい場所に行きやすいし、目的地までの距離が明確でわかりやすい。


 しかし、これでは私は故郷に着く時には別人かと思うくらい真っ黒な筋肉マンになっていそうだと思った。


 そんな必要も無いのに次の休憩場所に着いたら日焼け止めを調達しなければと決心したのだ。


 途中のサービスエリアで何回か休憩を重ねる。


 もちろん、人は居ない。


 静か過ぎて気が狂いそうなこの世界で、まだ私がおかしくなっていないのは、目の前の少女が居てくれるからなのだろうか。


 無意識にランを見つめているとランが不思議そうに私の顔を覗き込んできた。


「なんか私の顔についてる?」

「あ、ううん」

「優織、何かやりたいこと決まった?」


 彼女は昨日からずっとそればっかりだ。急にランが現れて、やりたいことをやろうなんて言われても、そんな簡単に見つかるものではない。しかし、私はコンビニのおにぎりを頬張りながら自分の願望を無意識に口にしていたらしい。


「誰かが作ったご飯が食べたい……」


 もちろん、コンビニのご飯も美味しい。種類豊富で飽きることなくご飯を食べているだろう。しかし、一ヶ月もこの生活を続けていると誰かが作ったものを食べたくなったりするものだ。



 現世で生きている時はコンビニのご飯なんてほとんど食べたことはなかった。

 いつも母が作るご飯を父と妹と食卓を囲んで食べていた。


 それが急になくなって、もう誰かとご飯を食べることなんてないと寂寥感を感じていたから、そんなことを言ってしまったのだと思う。


「じゃあ、今日の夜ご飯は私が作るよ」

「へ?」

「何食べたい?」

「ランって料理とかできるの?」

「おいしいかどうかは別として、料理はできるよ」

「なんか、こっちの世界のゲテモノとか出てきそう」

「なにそれ。まあ、食べてからのお楽しみだね」


 私とそんな歳の変わらないくらいに見える少女は料理が作れるらしい。


 私は母に任せてばかりでそういうことはしたことがなかった。今考えれば、生きている間にしっかり母の手伝いをして、料理なんかも経験しておけばよかったのだろう。


「じゃあ、今日は料理器具揃ってる家に行かないとね」

「私たち随分図々しいけど大丈夫そう?」

「今更何気にしてるの。誰もいないんだからいいじゃん」


 そう言って、ランは休憩を終えて、出発する準備をしていた。


 私は全然体力が回復していない……。



「ランってめっちゃ体力あるね」

「優織が運動不足なだけじゃない? 一ヶ月、ゴロゴロしてたんじゃないの?」

「なっ!?」


 出会ったばかりの少女にそんな失礼なことを言われとは思わなかった。私はそれを認めたくなかったので自転車に勢いよく乗り込んだ。


 足がクタクタで、もう少し休みたいのにランに言われた言葉を認めたくないとむきになって、私は重い足をペダルに乗せて、力いっぱい漕ぎ出した。

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