第3話 福井県敦賀市③
私は平和に過ごす高校生だった。
そのはずだった。
自分の悪いところと言えば、あまりにも周りの人たちの評価を気にして、真面目なふりをして、良い人間を演じて生きていたことくらいだろうか。
両親からはかなり期待されていた。「優秀な子だ」と言われて、妹のお手本になるように育てられた。
私には恵まれた才能なんてなかったのに、必死にそう見えるように生きていた。
友達は多い方だったと思う。
クラスで私のことを嫌いな人なんてほとんどいなかっただろう。
当たり前だ。
当たり障りのない会話をして、みんなに合わせて生きていたから――。それが一番平和に暮らせると思っていた。
ある日、虐められている子がいたのを見かけた。
普段の私なら周りに合わせて、知らんぷりをしていただろう。しかし、あまりにも行き過ぎたいじめだったので、体が勝手に動いていた。
虐められていた子は確か『コマツ アイカ』と言う同じクラスの子だったと思う。
あまりにも暴力的ないじめだったので、見ていられなかった。
コマツさんは“かわいいからむかつく”というだけの理由でいじめられていた。私が気がついた頃には、息を潜めるようにクラスで過ごしていて、暗い雰囲気の子という印象だ。
そんな理由で暴力まで振るわれるなんてあまりにも酷いから、私は居ても立っても居られなかったのだろう。
彼女を助けた時に私は周りに合わせるだけではなく、自分の意志でこうやって動けるのだと少し自信に繋がった。
しかし、彼女を助けた次の日から私はいじめのターゲットになってしまったのだ。
最初は机に落書きとかそんな可愛いものだったけれど、水をかけられたり靴を捨てられたりとあまりにも耐え難いいじめに変わっていった。いつしか、私も暴力に近いものを奮われるようになっていた。
それでも私は明るく生きていたと思う。
なんとか、前の生活を取り戻せるように愛想を振りまき、友達との関係を取り繕い、前よりも自分の気持ちなんか全て無視して過ごすようになった。
しかし、友達だと思っていた子達も私に対するいじめについて見て見ぬふりをするようになったのだ。
学校では誰も私の味方をしてくれる人はいない。
両親や妹にはこんな情けない自分のことを話せるわけもない。
私は学校にいても、家にいても孤独になった。
人間の心には限界というものがあるらしく、私の心は確実に壊れていった。生きることが辛いと思うようになってしまったのだ。
誰もいない校舎の裏側。
何人かの生徒に囲まれている。
『土下座して謝れよ』
私は湿った土の上に膝と手と頭をつけていた。
『ごめんなさい……』
謝罪を口にした瞬間、頭に鈍い痛みが走る。口の中に砂が入る勢いで顔が地面についていた。
『もう、学校来るなよ』
『よくのうのうと来れるよね?』
『いつまでいい子ちゃんぶってるわけ?』
私は「ごめんなさい」とひたすらに謝って、嵐が過ぎるのを待つしかなかった。
踏まれている頭が痛かった――。
しかし、何よりも痛いのは胸の奥の辺りだった――。
※※※
「はぁはぁ……」
冷たい汗の滲んだ背面をベッドから離す。
どうやら過去の夢を見ていたようだ。
背中にぺたりと付くTシャツを剥がし、パタパタと空気を送り込む。それでも、気持ち悪かったので全部脱いで着替えることにした。
いつもは九時くらいに起きるのに、まだ太陽すら昇っていない早い時間に起きてしまったようだ。
昨日、色々あって体のリズムが変に狂わされているのだろう。
目覚めてしまったので、仕方なくリビングに向かおうとドアノブを捻り、ドアを開けると、ドンと何かが扉にぶつかる音がした。ドアが半開きになり、隙間から覗くと布のような物体がモゾモゾと動き出す。
前髪がぴょこっと跳ねた少女がドアの隙間から現れた。
急な出来事に心臓は飛び出そうだったけれど、私は冷静に対応するように心掛ける。
「何してるの?」
「おはよ……」
「おはようじゃなくて、何してたの?」
おそらく、勢いよく扉を開けたのでぶつかった場所は痛かったと思う。しかし、謝るのも忘れてランがここにいる理由を求めてしまった。
ドアを開けていきなり人にぶつかるなんて怖いことがあるだろうか。しばらく、ドアを開けることに恐怖を抱いてしまいそうだ。
「優織が居なくならないかここで見張ってた」
「まさか、廊下で寝たの?」
ランは頭を上下にコクコクと動かし、頷いている。
朝から頭が痛くなった。
確かに私も言葉足らずで悪かったと思う。しかし、そこまで信用されていないとは思っていなかったので、頭を掻きむしった。
「こっちきて」
私はぐっと彼女の手を引き、リビングのソファーに座らせる。分かりきっていたことだけれど、触れた彼女の手はかなり冷たくて、胸がチクリと痛む。
私が一言「約束は守る」と言っておけば、きっと、こうはならなかっただろう。
近くにあったブランケットを彼女にぐるぐると巻いた。
「ここで待ってて」
「優織、どこにもいかない?」
「はぁ……いかないから」
私はそのまま少女を残してキッチンに向かった。コップを水でサッと荒い流し、お茶を注ぎ、電子レンジで温める。
ソファーから不安そうにこちらを覗く少女の目の前に温めたお茶を差し出す。目を丸くした少女はそれをしばらく見つめていたが、受け取ってふーふーと息を吹きかけて口に運んでいた。
「あったかい……」
「逃げたりしないから、風邪ひくようなことはやめて」
「ごめん……」
「あと、すぐ謝らない」
「ご……」
私は彼女の黙らない唇にそっと人差し指を当てた。さっき飲んだお茶に唇は濡らされていて、ぷにっと柔らかい感覚が指に伝わる。
謝られ過ぎると私が悪いことをしているみたいで嫌だった。
ランの顔は何故かみるみる赤くなっていく。唇を抑えられて苦しかったのだろうと思って、彼女から指を離すと、こちらに目もくれず黙々とお茶を飲み始めた。
「優織って優しい人だよね」
「そんなことないよ」
「ううん。初めて話した時からそうだった」
そうか?
むしろ、私はランに対して、今のところ冷たい態度しか取っていない。その罪滅ぼしではないが、彼女に優しくしようと心掛けることにした。
「ちゃんと寝れなかったでしょ」
「大丈夫」
私はランの頭に優しくチョップする。どう考えても目の前の少女の顔色は昨日よりも良くなかった。
「嘘つかないで。顔色悪い。今日、どこか行きたいって言ってたけどやめようか」
「それはいや!」
ランがあまりにも大きい声を突然出すので、体にぎゅっと力が入る。ランは本当に嫌だという顔をしているように見えた。
「はぁ……自分の体大切にするって約束して。それなら、今日行くから」
「わかった」
なぜ、私がこの世界の案内人の体調管理に気を使わなければいけないのだろうと思いつつ、外に出る準備を整え、出発した。
連れていきたい場所があると言われたので、大人しく連れられているが、かれこれ四十分近く歩かされていると思う。
しばらくすると、真っ直ぐと太陽に向かういくつもの樹木が立ち並ぶ道に出ていた。
それはあまりにも綺麗に配列されている。しかし、一本一本形の違う松に少し胸の音が反応していた。
「ここ、日本三大松原なんだって」
「へー」
あまりにも冷たい返事をしてしまったけれど、見ることに夢中になって、ちゃんとした受答ができなかっただけだ。
どんなに進んでもその光景は続いていく。
その道を進み続けると風が少し強くなっていき、森の中で広葉樹が揺れる音よりも少し低温のズサズサという音が響き渡っていた。
そして、その音に懐かしい音が混ざっていく。
少し
さっきの松の揺れる音とは違い、今度はざーっという音が風の音とともに耳に流れてくる。
私の目に映るのはどこまでも青が広がる世界だった。
頬を生ぬるい液体が通り過ぎ、私から離れる時には冷たくなっている。
私はこの景色と似たような景色を知っている。懐かしさと寂しさと色々な感情が私の胸を埋め尽くしていた。
目の前の景色は私が生まれ育った故郷の景色にとても似ていたのだ。
「ゆうり……?」
少女の心配そうな声が聞こえると同時に私の頬が優しくなぞられる。そのことで意識が現実に引き戻され、ごしごしと服で目元を擦るから、目の辺りがヒリヒリした。
ランはなんでこんな場所に私を連れてきたのだろう。
「なんでここ……?」
「昨日も話したけど、私は優織を元の世界に連れ戻すための案内人なの。時間内に優織は故郷に戻らないといけないんだ」
そう言って、ランは私のお腹辺りに触れてきた。
それは私も気がついていたことだ。
この楽園のような世界は無限ではないということを――。
この世界で初めてお風呂に入った日にお腹の辺りに数字が刻まれていることに気がついた。
石鹸で洗っても擦っても落ちることはなく、最初はなんだろうと思っていたけれど、一日終わるごとに数字が減っていくので、この世界で過ごせる時間なのだとすぐに理解できた。
「でもね、優織が元の世界に戻りたくないというのならそれでもいいよ」
「へ?」
「私と勝負をしよう」
「はい?」
私は理由もわからず、ただランを見つめていた。
勝負……?
ランは私を元の世界に戻すことが使命なのではないのだろうか?
「旅をしながら優織はやりたいことを後悔なくやる。私は優織が生きたいと思えるように全力を尽くす。一緒に旅をして、最後に元の世界に戻るかどうか、優織が決めて。私、負ける気ないから」
「それじゃあ、ランになんのメリットもなくない?」
「私は優織の案内人だから――」
彼女は少し低い声でそう告げていた。
変なところで強気な女の子だと思う。
ランは案内人だから私が元の世界に戻るように何でもするというわけらしい。勝負とは言っているものの、その結果がどちらでもいいと彼女は言ってくれた。
私は生きていても辛いだけのあの世界に戻る気はない。
しかし、目の前の景色に気持ちは高ぶり、もう一度だけ大好きな故郷の景色を見て、人生の最期を迎えたいと思ったのだ。
「ランは私のこと、どこまで知ってるの?」
「全然知らないよ。だから、旅をする途中で色々教えて?」
にこっとあどけないその表情から嘘をついているようには見えなかった。
体に纏わりつく風がベタベタとしていて気持ち悪いはずなのに、気持ちはどこか晴れていた。
生き物が何も存在しないが、それ以外は何でも手に入るし、なんでもできるこの世界で最後にしたいことが見つかった。
「私、故郷の景色を最後に見たい――」
私を現世に戻すというランの願いには応えられないけれど、自分の生まれ育った場所で最後の時間を過ごしたい。
今朝、お腹に浮かんでいた文字は八十二日。あと、三ヶ月もない時間で私はどんなことができるだろう。
最後まで後悔のないように生きたい。
「優織のしたいこと、全力で手伝うよ」
「よろしく、案内人さん」
ランが手を出すので私はそれをぎゅっと握る。
私よりも小さいはずのその手は、温かくとても頼りになるような手だった。
私たちはそのまま砂浜の上に腰掛けて、遠ざかったり近づいてくる青い景色を見つめていた。
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