第15話 富山県富山市①

 ●十月十日(残り五十五日)


 

「すごい美術館だね……」

「うん……」


 目の前にはガラス張りの大きな建物が堂々と立っている。そんな建物の中に足を踏み入れた。


「お邪魔します……」

「いつも思うけど、優織って礼儀正しいよね」

「そうかな?」

「うん。優織の素敵なところだと思う」


 ランが真剣な顔でそんなことを言うから、恥ずかしくて下を向いた。


 私が自分で嫌だと思うところをランはいつも素敵なところだと褒めてくれる。

 

 彼女は私の些細な行動を素敵だと言ってくれるのだ。

 本当に素敵なのはそんな私の行動を見逃さず、気がついてくれるランの方だと思う。


 私はスっと館内案内を手に持ち、前に進んだ。


 中に入ると、もちろん人はいない。

 とても静かだ。


 エスカレーターが私たちを静かに上へ運んでくれる。


「人がいないのにエスカレーター動いてるって不思議だね」

「変な感覚になるよね」



 二階に着くと、とても綺麗な景色が広がっていて心踊らされた。


 できたばかりなのか館内はとても綺麗で、木材とガラスが印象的な建物だ。木造建築がとても落ち着きを与えてくれる。


 ここに来たいと言った私よりもランの方が嬉しそうに美術館内を駆け回っていた。


 この前もそうだった。

 ランは旅をすることが好きなのかもしれない。


 そんなランを微笑ましく見ていると、すごい勢いで私の方に走ってくる。


「優織! 来て!」

「う、うん……」


 腕が少し痛いくらいに引かれる。


 ランが小走りしよう言わんばかりに足踏みをするので、私は走るしかなかった。後ろから見える彼女の背中はうきうきと文字が浮かび上がりそうなほど楽しそうだ。


 ランに連れられて来た場所には、とても存在感のあるシロクマがいた。


「かわいいね」

「うん! これ木を彫刻して作ってるんだって」


 ランは嬉しそうに説明している。


 ここ最近の彼女は素直で表情が豊かだ。

 だから、私も素直になるように心掛けている。


 ガラス張りの方に目をやると、同じ形で大きさの違うクマたちが外にもいて、色々な方向を向いている。ランはそちらに走っていった。


 目をキラキラ輝かせながらランはクマを見ていた。まるで子供みたいだ。


「写真撮ってあげるから並びなよ」

「いいの?」

「うん」


 私はランとシロクマにカメラを向けた。


 そうするとランが何やら難しい顔をして、私の手からスマホを奪い、少し離れた位置にスマホを立掛けている。


 私はその行動を何も言わずに見ていると、手を引かれてクマの横に配置されるので、隣にいるクマのようにピタリと動けなくなった。


 遠くからカメラのシャッター音が聞こえる。


 ランは急いでスマホを取りに行って、嬉しそうに画面を見ていた。どうやら、私は写真を撮られたらしい。


「みてみて! スリーショット」

「私、必要ないじゃん」

「優織って私のこと何も分かってないよね」


 その言葉に胸に何かが刺さったように感じた。


 たしかに彼女のことを何も分かっていない。


 理解したいし知りたいのに距離の詰め方がよく分からないのだ。


「わからないから教えて?」


 素直にそう答えるとランは恥ずかしそうにモジモジしていた。


「本当はずっと優織と写真撮りたかった」

「私と?」

「うん……」

「なんで?」

「なんでもだよ」


 ランはそういうとお得意の不機嫌そうな顔でクマを見ていた。

 

 どうやら、ランは私と写真が撮りたかったらしい。


 理由は分からない。

 ランについて知りたくて質問したはずなのに、わからないことが増えていく。


 私たちは美術館を進み、様々な展示品を横目に見る。色々な芸術的であろう絵を見るが、何が凄いのかいまいち分からないまま見ていた。


 何がすごいかは分からないけれど、どこか目を惹かれる。そんな作品ばかりだ。


 ランは私以上に色々な作品をなでるように見ているから、もしかしたら、私が感じられないようなことを感じているのかもしれない。


「ランは芸術作品とか好きなの?」

「うん。好き」

「それはどうして? 芸術的に凄いとかわかるの?」

「分からないよ」

「へ……?」


 あんなに真剣に絵を見ていたランは微笑んで私の方を見てくる。


「芸術とかはよく分からないけど、目と心が引かれる。だから、好き――。それだけが理由じゃだめかな?」

 

 ランは静か過ぎる美術館に少し響くくらいの音でくすくすと笑って私の手を握ってきた。



 心と目が引かれるから好き――。


 私の胸に何かが引っかかって取れなくなった。

 

 その後も私たちはびっくりするくらい遅いスピードで館内を回っていただろう。


 あまりにも静かで恐怖すら感じる。

 


 美術館にはあまり来たことがないから間違えているかもしれないけれど、私の記憶が正しければ、人がいても静かなイメージだ。だから、ここの雰囲気は普通なはずなのに普通に感じられなかった。


 私の心臓は大きく動いている。

 それも胸を圧迫するくらいに。


 また真剣な顔で絵を見るランを私は見つめていた。


 よく分からないけれど、ランを目で追ってしまう。

 よく分からないけれど、ランのことで心がいっぱいになる。


 だから、ランの言っていた言葉に従えば、私はランのことは好きなんだと思う。


 好きってなんだ……。


 友達は好きだった。

 家族も好きだった。

 しかし、どこかしっくりとこない好き。


 だって、私のことをちゃんと見てくれる人はいなかったから……。


 いや、ちゃんと私のことを見てくれる人はいたのかもしれないのに、私が誰かと素の自分で向き合うことが出来ていなかった。


 人の衝突を恐れて上辺だけで生きていたせいで、ちゃんと向き合える人がいなくなっていた。


 自業自得だろう。



 しかし、ランだけは今までと違う。


 彼女は初めて会った時から、本気でぶつかり、言いたいことを言っていた。


 彼女の性格が私をそうしてくれるのか、私が変わったからなのかは分からないが、こんな人、探してもなかなか見つかるものではないと思う。

 

 そして、この誰もいない世界でなければ、周りの目を気にして、私は現世と同じように上辺の私で接していたのだろう。



 頭がガンガンと痛くなり、キーンと耳鳴りが流れてくる。




 私の目尻が熱くなると耳鳴りは自然と小さなものに変わっていった。熱いものをランに見られないように服の裾で拭う。

 


「優織、顔色悪いけど大丈夫? 少し休もうか?」

「ごめん。大丈夫」


 私はそのまま歩き続けた。


 ランはチラチラと私の様子を伺っている。


 私があまりにも静かだったから、不安になったのだろう。そんなランが不安にならないように笑顔を作った。



 ランに手を引かれるまま着いた場所は、屋上に公園のような広場がある場所で、そこには不思議な形をした遊具がたくさんある。


 ここでも私より目を輝かせていたのはランだった。

 

 ランのそういう顔が見れるのは嬉しい。


「優織! 色々遊びたい!」

「うん。行こうか」


 私がそう言うとランはこの上ないくらい幸せそうな顔をする。彼女が嬉しそうな顔をするから、先程まで暗かった私の心はどんどん明るく照らされていく。


「優織、ここに立って?」


 言われた通りに遊具の上に立ち、手すりに掴まった。ランは駆け足で向かいにある同じ遊具に乗ると、ゆっくり“ぐるぐる”と遊具が回り出す。


 ヤジロベーのように揺れるそれはなかなか画期的な遊具だった。ただ回っているだけなのに面白い。


 そういえば、こうやって遊具で遊ぶのは小学生以来かもしれない。そんな思い出が蘇るこの遊びに心揺さぶられていた。


 私はまだこの遊具を楽しみたかったのに、ランは他のも楽しみたいと我慢できなかったようで、他のところに移る。


 ひょいと遊具から降りて、ランがいる方へ向かった。


 白くでっかい物体の前に来るとランはやたら難しい顔をしている。目の前には白い大きな遊びがいのありそうなトランポリンがあったが、注意書きで『十二歳まで』と書かれている。


「これ、私たち遊べないね」

「誰もいないから遊んじゃダメかな……」


 彼女に尻尾が付いているのならば、確実に下に下がっているだろうと思わされる口振りだ。


「秘密にしててあげるから遊んできなよ」

「優織も遊ぼうよ?」

「私は……」


 こんな誰もいない世界でも真面目を演じようとしてしまうなんて、自分に飽き飽きしてしまう。ただ、そう簡単に私の性格は変わらないらしい。


 私が少し戸惑っていると、ランは明るい声で私に語り掛けてくる。


「優織が遊ばないなら私も遊ばない」

「いいよ。ランを巻き込むの申し訳ない」

「いいのいいの」


 あんなに楽しそうにしていた彼女の邪魔をしてしまったことに胸が痛んだ。顔に力が入っていると、ランは正面に立って頬をつんつんと触ってくる。


「誰が見ている訳でもないのにちゃんとルールを守る。優織のそういう所、私は好きだよ」


 その言葉に胸が締め付けられていく。それと連動するように彼女に握られていた手をぎゅっと握り返した。


 ランという少女によって、いつも私の暗くなった気持ちは救われる。


 ほんとにずるい少女だと思う。


 私は照れ隠しで「まあ、もっとルール破ることこの世界でたくさんしてるけどね」と言ったら、ランは「そうだね」と笑いながら答えていた。


 幼い少女はトランポリンに興味を無くしたのか、違うところに私を連れ出した。



 遊具にハンモックがぶら下がっている。揺れていたら“うとうと”と眠くなってしまいそうな遊具だ。


「優織こっち」

 

 ランに手を引かれ、ハンモックに横になるとランも私の横に寝転がる。ハンモックの真ん中が沈み、彼女との距離が嫌でも近くなった。


 ランの綺麗な顔が至近距離にあって、私の心臓は一気に跳ね上がる。


 そんな私のことなんておかまいなしに、ランは話を続けていた。


「ここでちょっと昼寝でもする?」


 ランは私に密着するように寝ようとするので、私は彼女の肩を押して距離を取った。それなのに彼女は私の肩を掴んでぎゅっと寄ってくる。


「一緒に寝ようよ」


 むっとした表情でランは私を離してくれない。


 顔が近い……。


 ダメなことだとわかっている。


 それなのに私は自分の行動を抑えることが出来なかった。


 ランに覆い被さるように彼女の唇を奪っていた。


 ハンモックの上でバランスが取れずに揺れるので、すぐに彼女との距離は離れる。


 自分の突拍子もない行動に反省した。


 ランは頬を赤らめて何も言ってくれない。

 急にこんなことをしたから当たり前だ。


 私は無言でハンモックから下りると、ランも立ち上がって私の横にいた。しかし、何も言ってくれないから、私たちの間には気まずい空気が流れる。


 嫌だったと言えばいいのにランは私を否定するようなことは絶対に言わない。


 そのことは最初は嬉しかったけれど、今は全然嬉しくない。


 ちゃんと自分の意見は言って欲しいと思う。


 ランは気まずいその空気を変えようとしてくれたのか、違う遊具に向かっていた。微妙な空気のまま私もそちらに向かう。


 そこにはいくつもの金属の管が絡み合った遊具があった。


「これ、内緒話できるんだって。どこに繋がってるか探そ?」

「うん」


 この世界で誰に聞かれるわけもないのに、“ひそひそ”ばなしをするなんて少し面白い話があるだろうか。

 

 ランの声が聞こえる場所探すと、なんでか分からないけれど、すぐに見つけることが出来た。


『繋がったよ』

『すごい! ほんとに聞こえるね』


 遊具から伝わる彼女の声色はとても明るいものだった。金属を伝わっているからか、いつもと違う人の声に聞こえる。


『友達とこういうので好きな人の話とかするの楽しいかも』

『ランって意外と乙女だよね』

『意外とは失礼』

『たしかに』


 ランの笑い声が聞こえて、私も笑ってしまう。笑っていたのもつかの間、すぐに真顔に戻っていた。


 先程から私の心臓が私に話しかけるのをやめない……。


 気がついてはいけない。


 知らないふりをしなければいけない。


 わかっている。


 それなのに、どうしたらこの苦しい気持ちから解放されるのだろう。


『優織……?』

『ごめんごめん』

『お互いのいいところ褒め合おうよ。こしょこしょばなしなら恥ずかしくないでしょ?』

『普通に恥ずかしいよ』


 私の目の前にあるのは金属の器具のみで、確かにランの顔は見えない。それでも恥ずかしいと思う。


『じゃあ、私だけやるもん』


 明らかにいじけてしまったようだ。いじけても、自分のやりたいことは突き通すらしい。


『真面目で優しくて、不器用だけど頑張るところ素敵だと思う』


 少し照れくさそうにそんなことを言われるから私は一気に顔に熱が集まった。彼女が近くに居なくてよかったと思う。こんな顔は見られたくない。


『優織の番だよ』

『恥ずかしいから嫌だよ』

『えー。けち』


 ランとの会話に普通に返すようにするものの、私の気持ちはそれどころではなかった。体内を暴れ回るこの気持ちを落ち着かせることがどうやったら出来るのだろう。



 神様はあまりにも残酷だと思う。


 なぜ、この世界に私を引き込んだのだろう。


 なぜ、私を孤独にするのではなく、ランという少女と出会わせたのだろう。


 なぜ、生きるか死ぬかの選択を私にさせるのだろう。


 なぜ、いつか別れの訪れる少女にこんな気持ちを抱いてしまったのだろう。


 

 私は知らない間にぽろぽろと涙を零していた。



「ゆうり……?」


 いつの間にか遠くにいたランは私の横にいて、心配そうに私の頬を流れる涙を拭いていた。

 

 いつだってランは私の少しの変化に気がつき、すぐに助けようとする。

 

 そういうところが好きで本当に嫌だ。


 そのせいで私はこんな気持ちになっているのだから――。


 私が泣き止むまでランはずっと私の背中をさすってくれた。

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