第2話
「ただいま戻りました~」
泥だらけの食材を腕に抱え、少女は声を張り上げた。というのも、この抱えきれない食材を運ぶ人手が欲しかったためである。食材を置いて、なるべく早く猫のところへ戻りたかった。
しかし、誰も迎えてはくれなかった。ひゅうと風だけが吹いていく。休日の昼下がり、『不可侵の医師団』の寮生の多くはこの寮でのんびり過ごしているはずである。それなのに返事はなく、人影も一向に現れない。少女は頬を膨らませかけ……エントランスホールの先の扉が開いていることに気が付いた。
「あら、不用心」
誰か閉め忘れでもしたのだろう。しかし、今は都合が良かった。両手が塞がっている自分に代わり、開けて置いてくれた見知らぬ人に感謝する。
開け放たれた扉を潜る。そしてその先の廊下を見て、少女は顔付きを変えた。
「……?」
廊下の先、壁と床を幾つかの弾痕が黒く彩っていた。さらにその奥を見れば、床に血が滴り落ちている。いつもピカピカで清潔さが保たれている白い床は、今や複数の靴跡や泥、そして雨水で汚れていた。少女は硬い表情を浮かべ、自身が潜った扉を振り返った。開けっ放しの扉の裏側。鍵の部分が、無理やり壊されていた。
少女は廊下を走り出した。泥や雨水、そして血を踏むのも気にせず、全速力で廊下を駆ける。至るところにある弾痕や血が、少女の胸の鼓動を速めた。なぜか電灯が消え、真っ暗闇となっている階段を駆け上がり、共用スペースのある二階の廊下へと出る。廊下の明かりは切れかけているのか、おばけ電灯となって「カチッカチッ」と不規則に音を立てていた。黒と白を繰り返す視界の中見上げると、銃で撃たれたらしく電灯のカバーが派手に割れていた。顔を戻し、点滅する廊下の奥へと視線を向ける。白になった瞬間、奥に人が倒れているのが見えた。全身真っ白の制服が、血で赤く染まっていた。彼女は、いつも元気に挨拶をしてくれる寮の先輩だった。
「大丈夫ですか!?」
少女の声に、倒れた少女は薄っすらと目を開けた。話す気力は残っていないらしく、腕を僅かばかりあげただけだった。人差し指を力なく伸ばす。その先は共用スペースだった。すぐに手はだらんと下がり、彼女の瞼も閉じられてしまった。
少女は顔を青くし、共用スペースへと足を動かした。誰か。誰かいないのか。状況を説明出来る誰か。それに、次々と友達の顔が浮かんでは消えた。彼女達は、無事なのだろうか。
横たわる先輩の少し前まで戻り、示された部屋へと曲がる。そこは、共用スペースの部屋の入口だ。扉は開いたままだった。
「なんで……」
手にしていた食材が、零れ落ちていった。血と泥で汚れた床に、ごろごろと音を立てて転がっていく。部屋の中は荒らされ果てていた。窓は割れ、銃弾の痕が床に数多刻まれていた。クッションの綿は飛び散り、マグカップや皿は割れてただの破片となって床に転がっている。本や資料は散乱し、机やベッドは破壊されて木材が飛び出している。そして、ガラスや破片に埋もれるように、四人の人が倒れていた。荒れ果てた様は、まるで廃棄所のようだった。全員、血だらけだった。
「らん! すず!」
近くの人の顔を見て、悲鳴に近い声をあげる。赤で汚れている親友達の顔を見て、少女は思わず駆け寄った。うつ伏せに倒れていた少女が、その声に反応して僅かに顔を起こした。
「……たまか?」
しゃがんだ少女——たまかと呼ばれた少女は、はっとして顔を近づけた。
「らん! 一体何があったの……!」
少しだけ起こされた上体の奥を覗き、その血の量に息を呑む。
「いや、まずは治療が先……」
たまかが震える手を動かそうとした時、らんが僅かに首を振った。
「駄目。逃げ、て…………」
「に、『逃げる』……?」
「逃げるの、たまか」
たまかは苦し気に息をする親友を、困惑したように見下ろした。それから、躊躇いがちに口を開く。
「で、でも……逃げるって、ここは『不可侵の医師団』だよ? どこの者だって攻撃してはならない、完全な中立を保つ医療集団……」
『ブルー』だって、『レッド』だって、『ラビット』だって、手を出さない。手を、出せない。……はずだ。はずだった。
しかし、らんはじっとたまかを見上げるばかりだった。親友の苦し気な顔と跳ねている血が、沈黙の中たまかの言葉を嫌というほど否定していた。
「あいつら……何か、探している感じ、だった」
「……」
「さっき、いなかったのは……たまか。あんた、だ」
「え……」
「狙われているのは、……あんた、かもしれない。早く、逃げるんだ」
「で、でも!」
腰のサイドポーチからガーゼを取り出し、らんの顔についた血を拭った。その時、横から「大丈夫だよ」と別の声が響いた。弱々しい声だった。たまかが顔をあげると、すずが起き上がったところだった。
「すず!? 起きちゃ……」
「大丈夫、らんちゃん程酷くはないから。ここにいる人達の治療は、私に任せて」
そう言う間にも、血がどくどくとすずの身体を垂れていく。たまかは二人の惨状に目を奪われ、動けないでいた。すずは人一倍怖がりで、らんは怪我が酷い。二人とも、他人を気遣えるような状況じゃないはずなのに。
「たまか、早く!」
らんが一際大きく、力強く叫んだ。
「~~っ!」
駄目だ。ここにいても、らんもすずもたまかを逃がそうとして、治療を受けてはくれないだろう。それにもし本当にらんの言うように狙われているのが自分だった場合、自分がいるとここが再び襲われる可能性がある。今は治療する時間を、稼がなければならない。ターゲットが自分の可能性があるのなら、治療出来る人員がここにいるのだから、自分はここから離れる方が得策だ。
たまかは断腸の思いの中、立ち上がった。
「……わかった。ごめん……!」
「謝らないで。たまかちゃんのせいじゃ、ないんだから」
すずは血のつく口元に笑みを浮かべた。らんも笑みで見送ってくれた。その額には、玉の汗が浮かんでいた。
「絶対逃げ切ってね、たまかちゃん。気を付けて」
「撒けたら絶対また来るから。……あと、一階出入口から階段までゼロ、二階階段から廊下まで一人。詳しく見れてないけど、重症度A」
「了解」
普段現場でしている患者の状況報告をする。まさか、『不可侵の医師団』の領域内で行うことになるとは、夢にも思っていなかった。
「たまか。……恐らく、襲撃してきたのは、『ブルー』の奴らだ」
いまだ伏せったままのらんが、吐息混じりに憎々し気に言った。
「『ブルー』が? 一体なぜ……」
狙われる心当たりは、微塵もなかった。しかし、考えるのは後だ。たまかは最後に二人の親友の顔を見渡した。そして背を向け、走り出した。
破片を、泥を、血を、雨水を、全てを踏み倒し、全力で駆ける。一階までくると、先程通ってきた扉とは逆の方へ走り、裏口へと向かった。エントランスホールとは違い、こちらの床は血と泥で塗り尽くされていた。突き当たりの扉の前まで来ると、普段施錠されているはずの鍵は開けられたままだった。呼吸を整えながら、扉に手をかけ、開ける。白く光が差し込んだ。
二人の顔がどうしてもちらつき、薄暗い廊下へと振り返る。廊下はしんとして、人影はない。弾痕と血が視界に入り、たまかは顔を戻した。覚悟を決めたように口元をきゅっと結ぶと、『不可侵の医師団』の寮を後にした。
のんびりとした時間が流れる、休日の昼下がりのことだった。
***
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抗争の狭間に揺れる白 小屋隅 窓辺 @nekoiro_0112
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